都太夫一中(読み)ミヤコダユウイッチュウ

デジタル大辞泉 「都太夫一中」の意味・読み・例文・類語

みやこだゆう‐いっちゅう〔みやこダイフ‐〕【都太夫一中】

[1650~1724]江戸前期の浄瑠璃太夫。初世。京都の人。本願寺派明福寺の住職。還俗して岡本文弥門下の都万太夫浄瑠璃を学び、のち一中節を創始。以来現在まで一中節都派の家元名となっている。都一中

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「都太夫一中」の意味・読み・例文・類語

みやこだゆう‐いっちゅうみやこダイフ‥【都太夫一中】

  1. 一中節の家元。初世。京都の人。松本治太夫岡本文彌の節を取入れて一流を創始。京坂を中心に活躍し江戸でも好評を得た。都一中。慶安三~享保九年(一六五〇‐一七二四

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

日本大百科全書(ニッポニカ) 「都太夫一中」の意味・わかりやすい解説

都太夫一中
みやこだゆういっちゅう

一中節都派の家元名。略称都一中。現在まで12世を数えるが、初世がもっとも有名で、5世がこれに次ぐ。

[林喜代弘・守谷幸則]

初世

(1650―1724)京都本願寺派明福寺の3世周意(しゅうい)の次男。幼名は恵俊(けいしゅん)。1670年(寛文10)還俗(げんぞく)して須賀千朴(せんぼく)と号する。都万太夫(都越後掾(えちごのじょう))に浄瑠璃(じょうるり)を習い、都太夫一中を名のって一派を興した。一中節を樹立した時期は不明。元来が座敷芸のため人形芝居とは無縁であったと思われる。1707年(宝永4)58歳のとき大坂の片岡仁左衛門(にざえもん)座の『京助六心中(きょうすけろくしんじゅう)』に初めて出演、その後15年(正徳5)より19年(享保4)まで、あわせて二度にわたる江戸下りを行い市村座に出勤した。これにより京坂だけでなく江戸に一中節が根付くことになった。斬髪(ざんぱつ)して十徳(じっとく)を着、白練(しろねり)の長袴をはき小刀を帯びて語る姿は評判をよんだものと思われる。代表曲に『辰巳(たつみ)の四季』『お夏笠物狂(おなつかさものぐるい)』『椀久末松山(わんきゅうすえのまつやま)』などがある。

[林喜代弘・守谷幸則]

2世

生没年不詳。初世の実子で前名若太夫。初世没後に2世を襲名。初世の二度目の江戸下りに同行、1736年(元文1)ごろまで江戸で活躍した。のち京都に帰り、和泉掾(いずみのじょう)を受領し、京太夫一中、また京太夫和泉掾と称して芝居に出勤、延享(えんきょう)(1744~47)の末ごろ没したのではないかといわれている。

[林喜代弘・守谷幸則]

3世

生没年不詳。1732年(享保17)ごろ江戸に下る。初世の弟子、都秀太夫千中(せんちゅう)として中村座、森田座などに出勤した。『夕霞浅間嶽(ゆうがすみあさまがたけ)』『家桜傾城姿(いえざくらけいせいすがた)』『尾上雲賤機帯(おのえのくもしずはたおび)』などを開曲(初演)した。宝暦(ほうれき)末(1750年代か)ころ3世を襲名。

[林喜代弘・守谷幸則]

4世

生没年不詳。初世の婿、金太夫三中(きんだゆうさんちゅう)が吾妻路宮古(あづまじみやこ)太夫と改名し、その後3世没後に4世を相続したといわれている。4世は初世の江戸下りに同行、以来江戸に残り活躍した人で江戸に一中節を流布させた功労者。初世十寸見河東(ますみかとう)との掛合(かけあい)『角田川(すみだがわ)船の内』を作曲、門弟和中(わちゅう)の弟子の2世和中は名人といわれた富士田吉次(ふじたきちじ)(後の楓江(ふうこう))である。

[林喜代弘・守谷幸則]

5世

(1760―1822)本名千葉嘉六(かろく)。上方(かみがた)より土産浄瑠璃18曲を携えて江戸に出て、中村座で鳥羽屋里長(とばやりちょう)の三味線で『傾城浅間(あさま)』を開曲した。声は美しいが小音であったため、評判は芳しくなかったという。その後江戸・吉原(よしわら)の河東節三味線弾き山彦(やまびこ)新次郎(後の菅野序遊(すがのじょゆう))の協力を得て、当時衰退していた一中節を再興した一大功労者。3世の孫、あるいは4世の弟子など諸説がある。『吉原八景』『松の羽衣(はごろも)』などが代表曲。

[林喜代弘・守谷幸則]

6世

(?―1834)俗称大野万太。5世の弟子で2世千中を名のっていた。その妻の都一浜(いちはま)門下から後の都派の重鎮といわれた都一静(いちせい)(一清ともいう)、都以中(いちゅう)が出た。

[林喜代弘・守谷幸則]

7世

生没年不詳。5世の弟子栄中(えいちゅう)。河六、または半中(はんちゅう)とも称していた。1847年(弘化4)襲名。素行が修まらず行方不明となった。一説には築地(つきじ)の寒さ橋(1970年に撤去された明石橋の別名)で行き倒れて死んだといわれている。仇名(あだな)は「お菰(こも)一中」。

[林喜代弘・守谷幸則]

8世

(1848―77)6世の従孫。千葉屋(足袋屋)仙之助。1855年(安政2)8歳で襲名も病弱で29歳で病没。

[林喜代弘・守谷幸則]

9世

生没年不詳。8世の実父千葉屋仙助。名跡(みょうせき)のみ襲名。芸には関係なく、襲名後まもなく没したという。

[林喜代弘・守谷幸則]

10世

(1868―1928)本名伊東楳太郎(うめたろう)。三味線弾き都松次(まつじ)の孫で1881年(明治14)以中や一清の高弟一広(いちひろ)の斡旋(あっせん)で襲名。没後20年間家元空白期となる。

[林喜代弘・守谷幸則]

11世

(1906―91)本名小林清子。10世の実子。前名仙卜(せんぼく)。1948年(昭和23)襲名。84年重要無形文化財保持者に認定

[林喜代弘・守谷幸則]

12世

(1952― )本名藤堂誠一郎。前名都仙卜。父は初世常磐津文字蔵(ときわずもじぞう)(斉樹)。12世は2世常磐津文字蔵と同一人物である。1992年(平成4)襲名。

[林喜代弘・守谷幸則]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「都太夫一中」の意味・わかりやすい解説

都太夫一中 (みやこだゆういっちゅう)

一中節の家元名。都一中とも。現11世まであるが,初世と5世が有名。(1)初世(1650-1724・慶安3-享保9) 京都本願寺派明福寺3代住職の次男。本名恵俊。若くして音曲を好み,都越後掾の弟子となり須賀千朴を名のったが,元禄(1688-1704)末ごろ都太夫一中と改名して一中節を創始した。2度ほど江戸に下り,自流の宣伝に努めた。弟子に都国太夫半中があり,これがのちに宮古路豊後掾となった。(2)5世(1760-1822・宝暦10-文政5) 4世の子か。前名吾妻路宮古太夫。1781年(天明1)ごろ江戸に下り,92年(寛政4)5世をつぐ。河東節の三味線方3世山彦新次郎(のち初世菅野序遊)と組んで,すたれていた一中節を再興,古い曲を整理し,多くの新曲を作った。一中節の中興の恩人。(3)10世(1868-1928・明治1-昭和3) 本名伊藤楳(うめ)太郎。1881年10世をつぐ。89年日本演芸嬌風会委員,1907年東京音楽学校邦楽調査掛嘱託となり,楽譜の起稿に努めた。(4)11世(1906-91・明治39-平成3)10世の子。本名小林清子。母は都一梅。1935年に都千朴,48年11世をつぎ都一中を名のる。84年一中節三味線の重要無形文化財保持者各個指定(人間国宝)に認定。作曲作品に《雪まろげ》(久保田万太郎作詞,1953)などがある。
一中節
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「都太夫一中」の意味・わかりやすい解説

都太夫一中(1世)
みやこだゆういっちゅう[いっせい]

[生]慶安3(1650).京都
[没]享保9(1724).5.14.
一中節の家元。都一中とも呼ばれる。京都明福寺の3代目住職周意のニ男。本名恵俊。寛文 10 (1670) 年還俗。須賀千朴と名のって京都の都万太夫に浄瑠璃を学び,2世岡本文弥の文弥節,松本治太夫の治太夫節を加えて一流を創始。近松門左衛門の浄瑠璃の景事や道行を好んで語った。正徳5 (1715) 年と享保3 (1718) 年江戸に下り,流儀を広めた。高弟に都国太夫半中 (のちの宮古路豊後掾 ) ,金太夫三中 (4世都太夫一中) ,秀太夫千中 (3世都太夫一中) らがあり,三中と千中は江戸に一中節を定着させた。

都太夫一中(5世)
みやこだゆういっちゅう[ごせい]

[生]宝暦10(1760)
[没]文政5(1822).7.5. 江戸
一中節の家元。都一中とも呼ばれる。前名は吾妻路宮古太夫。天明1 (1781) 年に上方より下り,寛政4 (1792) 年みずから5世都太夫一中と称して江戸の中村座に通い『傾城浅間嶽』を語ったが不評。河東節の三弦方,3世山彦新次郎 (のち1世菅野序遊 ) と結び,一中節を再興。古典の復活と新曲づくりに努めた。

都太夫一中(11世)
みやこだゆういっちゅう[じゅういっせい]

[生]1906.9.4. 東京
[没]1991.7.8. 東京
一中節の家元。都一中とも呼ばれる。 10世都太夫一中の子。本名小林清子。母は都一梅。都一花,都一広に師事。 1935年都仙卜 (せんぼく) となり,1948年 11世を継いだ。 1984年重要無形文化財保持者に認定された。作曲に『雪まろげ』『水の上』があり,『姫ケ滝四季山めぐり (山姥) 』を復曲。

都太夫一中(6世)
みやこだゆういっちゅう[ろくせい]

[生]?
[没]天保5(1834)
一中節の家元。都一中とも呼ばれる。5世都太夫一中の門弟。通称大野万太。前名は都千中。5世の没後,6世を継承。妻の都一浜は名人といわれ,その門から都一清,都以中らの名手が出た。

都太夫一中(2世)
みやこだゆういっちゅう[にせい]

一中節の家元。都一中とも呼ばれる。1世都太夫一中の実子。享保~元文年間 (1716~41) 頃,主として京都と大坂で活躍。京太夫和泉掾。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「都太夫一中」の解説

都太夫一中(5代) みやこだゆう-いっちゅう

1760-1822 江戸時代後期の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
宝暦10年生まれ。上方の出身。江戸で男芸者となる。寛政4年(1792)5代都太夫一中を名のり,江戸中村座に出演したが不評。のち河東節(かとうぶし)三味線方から転じた初代菅野序遊(すがの-じょゆう)と協力して一中節を再興した。文政5年7月5日死去。63歳。本名は千葉嘉六。前名は吾妻路(あづまじ)宮古太夫。

都太夫一中(11代) みやこだゆう-いっちゅう

1906-1991 昭和-平成時代の浄瑠璃(じょうるり)三味線方。
明治39年9月4日生まれ。父は10代都太夫一中。母は都一梅(いちうめ)。都一花にまなぶ。昭和10年都仙卜(せんぼく)を名のり,23年11代一中をつぐ。59年一中節三味線で人間国宝となった。平成3年7月8日死去。84歳。東京出身。本名は小林清子。作品に「雪まろげ」「水の上」など。

都太夫一中(初代) みやこだゆう-いっちゅう

1650-1724 江戸時代中期の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
慶安3年生まれ。京都明福寺の住職をついだが,音曲をこのみ還俗(げんぞく)。都万太夫に師事,諸流を工夫して一中節を創始した。宝永3年(1706)から京坂の劇場に出勤,江戸市村座にも出演した。享保(きょうほう)9年5月14日死去。75歳。本名は恵俊。前名は須賀千朴。号は千翁。

都太夫一中(10代) みやこだゆう-いっちゅう

1868-1928 明治-大正時代の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
慶応4年1月8日生まれ。明治14年初代都一広らの世話で10代一中を襲名。40年東京音楽学校の邦楽調査係嘱託となり,一中節の楽譜化に協力した。昭和3年2月6日死去。61歳。江戸出身。本名は伊藤楳太郎。

都太夫一中(2代) みやこだゆう-いっちゅう

?-? 江戸時代中期の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
初代都太夫一中の子。父の没後2代をつぎ,江戸の市村座などに出演。元文元年(1736)ごろ京都にかえり,和泉掾(いずみのじょう)を受領。京太夫一中,京太夫和泉掾とも称した。前名は都若太夫。

都太夫一中(9代) みやこだゆう-いっちゅう

?-? 明治時代の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
8代一中の父。足袋商で芸道には無関係だったが,8代の早世で名義のみあずかった。芸は6代一中の妻都一浜(いちはま)の門流(都一静,都一広)がつたえる。本名は千葉仙助。

都太夫一中(6代) みやこだゆう-いっちゅう

?-1834 江戸時代後期の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
5代一中の門人。師の没後に6代をつぐ。妻の都一浜(いちはま)は名人といわれた。天保(てんぽう)5年3月18日死去。通称は大野万太。前名は都千中(2代)。

都太夫一中(8代) みやこだゆう-いっちゅう

1848-1877 幕末-明治時代の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
嘉永(かえい)元年生まれ。江戸の人。安政2年(1855)8歳で8代一中をつぐ。明治10年8月28日死去。30歳。本名は千葉仙之助。

都太夫一中(7代) みやこだゆう-いっちゅう

?-? 江戸時代後期の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
5代一中の門人。弘化(こうか)4年(1847)7代をつぐ。放蕩の末に窮死したという。前名は都太夫栄中。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「都太夫一中」の解説

都太夫 一中(11代目) (みやこだゆう いっちゅう)

生年月日:1906年9月4日
昭和時代;平成時代の浄瑠璃三味線方
1991年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の都太夫一中の言及

【一中節】より

…三味線音楽の一流派。初世都太夫一中が,元禄の末ごろ上方で語り出したもので,のち江戸に普及した。古浄瑠璃時代の語り物には長編のものが多かったが,その一部分,景事や道行などを,ウレイのかかった節で語り,またユリを巧みに用いたのが流行の原因と思われる。…

※「都太夫一中」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

世界の電気自動車市場

米テスラと低価格EVでシェアを広げる中国大手、比亜迪(BYD)が激しいトップ争いを繰り広げている。英調査会社グローバルデータによると、2023年の世界販売台数は約978万7千台。ガソリン車などを含む...

世界の電気自動車市場の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android