江戸幕府がキリスト教の禁制を軸に,貿易の統制・管理と日本人の海外往来の禁止を企図して実施した対外通交政策,およびそれによってもたらされた状態を鎖国と呼んでいる。この政策は,オランダ人を長崎出島に強制移住させた1641年(寛永18)に確立し,1854年(安政1)ペリー艦隊来航のもとで日米和親条約(神奈川条約)が調印されるまで200余年の間続いた。それは,江戸幕府が内外の情勢に対応して集権的な権力を確立する過程の一環として打ち出されたもので,日本列島が当時の世界交通の辺境である東北アジアにあり,大陸と海で隔てられているという地理的条件と,季節風と海流を利用した帆船の技術的条件によって,長期にわたる状態の固定が外部から支えられた。
〈鎖国〉の語は,1801年(享和1)長崎の通詞で著名な蘭学者でもあった志筑忠雄がケンペルの《日本誌》の一章を翻訳し〈鎖国論〉と題したときに始まる。ケンペルは鎖国状態のもたらす効用を肯定的に記述したのであったが,英訳からの重訳であるオランダ語版は,その是非を問う表題になっていた。志筑の訳語には,すでにロシア使節ラクスマンが通商を求めて根室に来航する時勢のもとで,なお外国との通交を〈祖法〉を盾に拒否しようとする幕府への批判的精神がこめられていた。禁令の発布当時,来航を拒絶された〈かれうたgaleota〉とは軍船にも商船にも用いられた船のことであるが,当時はポルトガル船を意味していた。それが18世紀には幕府当局者にとっても異国船もしくは蕃船一般と理解され,その来航禁止が〈祖法〉と考えられるようになったのである。
1547年(天文16)の遣明船を最後に日明間の公的通交が途絶してからの約1世紀間は,対外関係のあり方が中世から近世のそれへと転換する過渡期であった。この間,国内では日明公的通交の主体であった室町幕府が滅亡し,織豊政権による天下統一がなされ,ついで江戸幕府が成立した。国外では,中国大陸における明の衰亡と清の興起が進行し,明帝国を中核としたアジアの公的通交秩序は崩壊し,貿易は諸港市間を結ぶ私的通交が盛んとなった。日明貿易についていえば,後期倭寇の時代である。ちょうどこの時期,宗教改革とルネサンスを経た西ヨーロッパは世界史の主導権を握り,とくにローマ教皇から世界の領土分割の認可をうけたポルトガル,イスパニア両国は,カトリック布教の強烈な意志に支えられ,東西からあいついでアジアに到達し,活発な貿易活動を開始した。ポルトガル人が1543年種子島に来航し,イエズス会宣教師ザビエルが49年鹿児島に上陸するにいたった背景は以上のごとくである。イエズス会はゴアのインド管区の下に日本とシナの二つの布教区を置いたが,82年(天正10)日本は準管区に昇格してシナ布教区を管下に置き,1609年(慶長14)さらに独立管区としてシナ,マカオの2準管区を管轄した。イエズス会布教の発展期と織豊,徳川氏による天下統一の過程は並行していたのである。
織田政権は統一の中途で倒れたため明確な外交方針を示さぬまま終わったが,ヨーロッパ人宣教師を好遇したことは理由のいかんを問わず事実である。織田信長は宣教師たちによって唐,天竺,本朝以外の新しい世界と文化の存在を認識した最初の為政者であった。豊臣政権も当初同じ態度を継承していたかにみえたが,1587年6月九州平定後5ヵ条からなるキリシタン禁令(伴天連追放令)を発し,宣教師が国郡の人民を信徒にして神社仏閣の破壊行為に出たことを非難し,〈邪法〉としてその布教を禁じ,宣教師の追放を令した。しかし,この禁令では神仏を妨げないかぎり,貿易と〈きりしたん国〉との往来は自由とされていた。秀吉の突然の禁令の背景には,長崎,茂木が教会領となっていたことへの反発があったと考えられている。1580年肥前の領主大村純忠・喜前(よしあき)父子は長崎,茂木をイエズス会に寄進し,その土地所有権,行政権,裁判権とポルトガル船の停泊税が会の手に渡り,大村氏の手にはわずかに入港船の貿易税徴収権が留保されるにとどまった。秀吉の念頭には,寺内町という独自の都市領域を持ち,自宗以外の寺社を破却し〈百姓ノ持タル国〉を現出して天下統一に最大の抵抗を試みた石山本願寺と一向一揆の影が去りやらず,このような外国の宗教領主の存在を容認することはできなかった。まして神社仏閣の破壊行為は,彼のめざす〈天下静謐〉の理念に正面から対立するものであった。彼は長崎,茂木を収公し,直轄領として代官支配下に置いた。
これより早く,ポルトガルはゴアとマカオを結ぶカピタン・モール制貿易を開始した。それはポルトガル国王の名の下に軍事,行政,経済の全権を握る司令官(カピタン・モール)が指揮する大船によって行われる一種の官営貿易であり,1570年(元亀1)からマカオ~長崎間をもその航路の欠くことのできない一部として含みこむことになった。16世紀の30年代ごろから急激に台頭した日本産銀と中国産生糸の交易が大きな利潤を上げ始めており,それへの対応であった。イエズス会の布教資金もここから捻出された。マカオが海賊退治の報償として明から割譲された事実に示されているように,ポルトガルは崩壊した東アジアの公的通交秩序に代わり,仲介貿易の担い手として利益を得ようとしたのである。秀吉は1588年7月海賊禁止令を公布して私貿易の取締りを徹底し,貿易統制に乗り出したが,生糸貿易の主要な部分はポルトガルとイエズス会に掌握されていたため,その関心は買占めへと向かった。89年と推定されている文書で,秀吉は島津領内に着いた黒船舶載生糸を買手の有無にかかわらず全量買い上げるよう命じ,あわせて黒船(ポルトガル船)の日本の港湾への入港の自由と,生糸の一括買上げを保証している。買い上げた生糸は国内へ転売されることにより差益を生んだのである。91年以降,秀吉はインド,フィリピン,台湾に入貢を促し,大陸侵略に乗り出す。彼の頭には日本を中心とする公的通交秩序が空想されていた。96年土佐に漂着したイスパニア船サン・フェリペ号の船員がキリシタン伝道は国土侵略の手段と語った事件を契機に,それまで必ずしも厳格に励行されなかった禁教が強化され,長崎において26名の信徒・宣教師(二十六聖人)が処刑された。
徳川家康が関ヶ原の覇権を手にした1600年は,日本布教が全修道会に開放され,イエズス会による日本布教の独占が破れ,またオランダ船リーフデ号の豊後漂着を機に,プロテスタント国のオランダ,イギリスが日本に進出した年でもある。家康はW.アダムズらによって世界情勢についての新しい知識を得るとともに,秀吉の強硬外交に代わり,和親通交の方針によってヨーロッパと東アジアの諸国に対した。朱印船制度にもとづく東南アジア諸地域との相互交通の推進は,日本を中心とした公的通交秩序の形成を意図したものといえる。ポルトガルの長崎貿易に対しては京都,堺,長崎3ヵ所商人を主体とする糸割符制度を施行して生糸貿易の統制をはかるとともに,イスパニアに対しては江戸近辺への来航を促し,通商を求めた。一方,オランダ,イギリスに対しては軍需品貿易を通じ関係を強め,徳川政権確立への戦略的布石とした。
しかし,キリスト教に関しては,この間一貫して〈邪教〉観を捨てず,1612年ついに直轄諸都市における教会破却,宣教師の追放,布教禁止を令し,信仰それ自体の禁制に踏み切った。この背景には旧教国と新教国の対立,日本貿易をめぐる角逐があったと伝えられ,事実と考えられるが,家康が後水尾天皇の擁立に示されるように国家的形態の権力集中を志向していたことも見逃せない。異民族的・異国的〈邪教〉の禁止は,幕府をして本来は直接干渉することのできない大名の家臣・領民に対する統制を可能にし,権力の強化・集中に大きな役割を果たした。1616年(元和2)8月,2代将軍秀忠はキリシタン禁制を百姓レベルまで徹底するよう命じ,ポルトガル船,イギリス船とも大名領内での自由通商を認めず,貿易を長崎,平戸に限定すること,中国船はこの規定から自由であることを令した。この法令は貿易を禁教の枠内にとらえた点で画期的なものである。
一方,このころから1630年代初頭にかけて,東アジア海域におけるオランダの覇権が確立していった。オランダはマラッカ海峡を押さえ,台湾に進出して,旧教2国の対日貿易ルートを締め上げ,宣教師の潜入を告発し,幕府による2国との断交を引き出した。1622年には長崎で〈元和大殉教〉が起き,翌年幕府はマニラへの日本人渡航を禁止した。この年,イギリスはオランダとの競争に敗れ,平戸の商館を引き揚げ,インドに撤収した。オランダは朱印船との競合にさいしても,日本貿易の独占をねらう長期戦略に立ち,幕府に対して〈臣下の忠節〉をつくして朱印船による宣教師潜入を告発するなどいんぎん,かつ巧妙な外交を展開し,しだいに勝利者の地位を確保していった。
幕府はキリシタン弾圧を強化し,各地で惨烈なテロル,拷問,処刑が繰り返されたが,朱印船についても統制を強め,1631年(寛永8)海外渡航の船には将軍が船主に与える朱印状のほかに,老中から長崎奉行にあてた奉書を必要とするよう定めた(奉書船)。この措置は,船主や長崎奉行の恣意を幕府の統治機構のもとに制約しようとするものであった。さらに同年,中国船舶載生糸についても統制下に入れることとし,糸割符商人団に江戸,大坂の2都市を加え,以前から権利を有した諸都市の占める地位を相対的に低下させた。
3代将軍家光は就任と同時に九州地方への支配を強め,加藤忠広改易を機に豊前,豊後を譜代大名で押さえた。九州は幕府にとって身近な領域となり,長崎は孤立した直轄領ではなくなった。1633年それまで大御所家康の側近や大名が任命されていた長崎奉行に,はじめて将軍直参の旗本2名が任命された。この2名にあてた老中の指示がふつう〈寛永鎖国令〉と呼ばれる最初の条令であり,以後39年まで5次にわたって改変をうけながら整備されていった。内容は(1)日本人の海外往来禁止,(2)キリシタンとくに宣教師の取締り,(3)外国船貿易の規定,である。(1)については,当初は奉書を受けた朱印船のみ渡航を許していたが,1635年からいっさいの日本船渡航を禁じ,海外在住日本人の帰国は死刑をもって迎えられることになった。(2)は禁教令の確認・徹底で,密告の奨励,外国船に対する警備が規定されたが,しだいに密告褒賞額の引上げ,対象とされる教会関係者の範囲拡大が行われた。37,38年天草と島原の一揆(島原の乱)が起き,幕府は12万の大軍をもって鎮圧したが,その後39年の条令で国内キリシタンへの外部からの連絡を絶つことを口実に,ポルトガル船(かれうた)の来航停止を命じている。さらに,ヨーロッパ人妻子ら血縁関係者の国外追放にまで及び,禁教令はほぼ完成した。(3)では,外国船の入出港の時期を限定し,長崎における生糸取引をすべての外国商品の取引の基準にしようとし,武士の貿易への直接干与を禁止した。この対象には中国船舶載商品も含まれていたが,1635年からは中国船の来航も長崎に限定されるようになった。やがて41年オランダ商館が平戸から長崎出島に強制移転を命じられ,すべての外国船貿易は長崎に集中されたのである。将軍の委任を受けた糸割符商人団がまず一括購入した生糸値段を決定し,ついで商人たちによる他の諸商品の取引が行われた。生糸取引の利益は貿易の手段を奪われた直轄都市を中心とする諸都市商人に一定の比率をもって配分された。こうして長崎を窓口とする管理貿易の体制が成立した。
こうした状況のもとで,1635年朝鮮との関係が修復し,翌年正規の通信使(朝鮮通信使)が来日した。島津氏の征服下にあった琉球も,1634年将軍の代替りを祝う賀慶使,44年(正保1)琉球国王の襲封を感謝する謝恩使を送り(琉球使節),以後両国は〈通信の国〉として,中国,オランダの〈通商の国〉と並び,将軍を中心とする公的通交秩序の形式を支える位置に置かれたのである。鎖国における海外渡航の禁止や通交貿易の統制とその形式などには,中国や朝鮮の海禁政策との類似点がみられ,近年の研究では,アジア諸国との比較史的関心から再把握しようとする動向がみられる。
→海禁
執筆者:朝尾 直弘
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一般に鎖国とは、日本の近世封建制国家がその支配を確立しようとして、それと相いれないキリシタンを徹底的に禁圧するために、外交・対外交通・貿易を極端に取り締まり、制限したことから発生した国際的な孤立状態をさす。また、上述の目的のために、幕府が実施した政策のとくに法的措置を鎖国令と言い習わしている。
[津田秀夫]
この法的処置の中心となったのは、キリシタンの禁令であった。すなわち、(1)国内において、内外人を問わず、キリシタンの伝道ならびに信奉を禁止し、(2)いささかたりともキリシタンとの関係が懸念される文献や器具などを所持するのみならず、接触することさえも禁じ、(3)海外からのキリシタンの導入の防止のために、日本人の海外交通を禁止し、(4)対外交通・貿易の門戸を長崎1港に限り、また外国人の居住地も同地に制限し、原則として国内旅行を禁止した。(5)キリシタンの伝播(でんぱ)と関係の深かったスペイン、ポルトガル両国民との貿易ならびに来航を禁止した。
ところでこの禁令では、貿易に関していえば、両国以外の諸国民の来航ならびに貿易を禁止してはいない点に注意を払う必要がある。しかし現実には、中国・オランダ両国民の来航貿易と朝鮮人との対馬(つしま)経由交易だけが引き続いて行われたにすぎず、さらに近世後期になると、オランダ、中国、朝鮮を除いたすべての外国が鎖国令の対象となってくるのであり、これら諸国に対して国を鎖(とざ)したと解するようになった。
他方、鎖国の帰結としての開国について考えるとき、1633年(寛永10)から1639年(寛永16)の間の数度にわたる鎖国令において最重要課題であったキリシタン禁令は、開国後といえども励行されているのであり、その解決をみるのは明治政権が成立後数年を経てからであった。また開国後になってすべてに自由貿易となったのではない。すなわち、近世国家の社会的基礎としての石高(こくだか)制にもっとも深い関連性のある米穀については、鎖国制下と同じように、いかに米価が騰貴しようが低落しようが、外国への輸出も外国からの輸入も原則的にはできなかったのである。この点の禁が解けるのは同じように明治政権になってからのことである。
このことは、鎖国を理解するのに、単純にキリシタンを禁止するために世界から国を鎖したと理解するだけでは不十分であることを示している。
[津田秀夫]
ここでいま一度、鎖国の果たした役割についての従来の諸説を検討しておこう。その第一は、幕府が集権的な近世封建制支配を貫徹するために、それと相いれないキリシタンと政治的あるいは軍事的に結合する危険のある反幕諸勢力とを排除するために、鎖国が行われたとする見解である。とくに島原・天草一揆(いっき)がそれを断行する口実を与えたというものである。
第二は、オランダ側の立場からする見解で、オランダの商業資本による東洋貿易の制覇の一環として、日本が鎖国によってその体制に繰り込まれたというものである。このためにオランダより先に東洋に進出し、優位の地位を築き上げていたポルトガル、スペイン両国の日本への通商路を脅かし、さらに徳川幕府に対してポルトガル、スペイン両国の来訪意図が侵略的植民地政策にある点を中傷して功を奏したのが鎖国であるという説である。さらに南洋諸国での最大の競争相手であった日本の朱印船貿易の抑制を図ることに暗躍したとみるのである。事実として日本の鎖国政策実施後は、日本人の勢力範囲での有力な町にオランダは商館を再開あるいは新設して対日貿易のための市場を培養し、長く対日貿易の利益を独占したというのである。
第三は、朱印船貿易を国内の側からみて、特定の大商人の掌中に収め、西国大名の貿易を行う機会を減少し、貿易港も縮小されることとなったとする見解である。これとともに、主要貿易品であり、利益の大きい白糸の取扱いを糸割符(いとわっぷ)仲間という特定大商人の仲間組織が独占するようになったというのである。幕府は糸割符仲間の監督を強化し、糸割符法の拡張を図ることによって、外国商人の利益の恣意(しい)的な追求をも抑制するなど、糸割符仲間の取引を保護し育成に努めたことから、鎖国を、貿易統制を通じて幕政強化を図ったとみる説である。
これらの諸説に共通している点は、国の内外の情勢から政治・経済・思想の面から国を鎖した制度として、このために世界的視野の狭窄(きょうさく)と島国根性(こんじょう)が育成され、市民的・合理的精神の発達が妨げられたとみているのである。もっとも他面では、日本独自の文化と国内産業の発達を促したとも解している。しかし、もともと鎖国という用語は、いわゆる鎖国令の発せられた前後にはなかったのであり、少なくとも近世の前期にはない。現在のところでは享和(きょうわ)年間(1801~04)にオランダ通詞(つうじ)志筑忠雄(しづきただお)がケンペルの『日本誌』を『鎖国論』として抄訳したのが初見である。鎖国令の断行された段階では、かならずしも国を鎖すという意識はなかったといってよい。なるほど、幕府は近世国家の確立を図るために、これと相いれないキリシタンに対する徹底的な禁圧方針から、対外交通、貿易を極端に制限し、そのことによって国際的孤立状態を自ら創出したが、鎖国令のなかには、スペイン、ポルトガルの両国以外の国々との貿易はとくに禁止していないのである。ただ、これらの国々は日本にこなかっただけである。
[津田秀夫]
また重要なのは、鎖国制下の日本で貿易上の理由から国内財政が赤字になっても、幕府は、制限することはあっても絶えず長崎を通じて貿易を行っており、長崎を通じて東アジアの銀建て経済圏に接触しているのである。国内では大坂を中心とする西日本の銀建て経済圏は長崎を通じて世界に接触しており、このために決済に使用されたのは金銀なかんずく銀であったが、日本産の銀の産出量が減少するにつれて、国外に支払われる代用品として、銅や俵物(たわらもの)(煎海鼠(いりこ)、干鮑(ほしあわび)、鱶(ふか)の鰭(ひれ))が積極的に大坂に集められ、長崎を通じて国外に輸出されていた。したがって、鎖国を、近世国家としての日本を世界から遮断し、孤立させる状態に置いたものとみ、これに対して開国を、鎖国状態の日本を完全に解体して世界市場に解放したと解するのは、多少の無理がある。とくに五品江戸廻送(かいそう)令の対象となったもののうち生糸・茶以外の輸出品は、この廻送令の実施された直後の一時期に急激な増加をみただけである。むしろ重要なのは、国内外の金銀比価の相違から金が国外に流れたことと、そのために国内の銀建て経済圏での物価の急騰傾向が現れてきたことである。これらのことは、少なくとも、15世紀末から16世紀にかけての大航海時代が始まって地球的な規模での世界史が成立したことと関連を有している。このような世界史のなかで日本の貿易商人は活躍し、南洋日本人町も生まれたのである。また豊臣(とよとみ)秀吉は朝鮮侵略戦争を起こして失敗した。ここで重要なのは、検地を通じて確立した近世国家の成立の社会的基礎である石高制の原則が国外には持ち出せないことを、高価な代償をもって知ったことである。
近世国家は開幕とともに幕藩制を成立せしめたが、さらに一歩進めて、世界のなかでの独立国としての自立再生産圏を確立する必要が生まれた。このために幕府は国家公権を発動して、貿易都市や三都のような巨大都市を掌握して近世国家の再生産体制を確立する努力をしたが、これを最終的に完成させたのが鎖国令に基づく鎖国制であり、それによって地球的な意味で主権国家としての自立再生産圏を確立させたのである。いいかえれば、鎖国制をとることで、日本は地球的な規模での世界史を構成する一国家となったのである。
[津田秀夫]
『岩生成一著「鎖国」(『岩波講座 日本歴史10』所収・1963・岩波書店)』▽『中村質著「島原の乱と鎖国」(『岩波講座 日本歴史9』所収・1975・岩波書店)』▽『中田易直著「鎖国」(『日本史の問題点』所収・1965・吉川弘文館)』▽『山口啓二著「日本の鎖国」(『岩波講座 世界歴史16』所収・1970・岩波書店)』▽『朝尾直弘著『日本の歴史17 鎖国』(1975・小学館)』
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江戸幕府の孤立的な対外関係のあり方。幕府は1633年(寛永10)に始まるいわゆる鎖国令により,日本船の海外渡航の禁止,海外在住の日本人の帰国の禁止,貿易地の制限,ポルトガル人の追放を命じ,長崎でオランダ船・中国船との貿易のみを行う体制を築いた。この政策のおもな目的は,当時全国に広がっていたキリスト教の禁止と宣教師などの国内潜入防止にあり,39年以後は九州を中心とする沿海防備体制が形成された。ただし朝鮮とは府中(対馬)藩を介して国交を結んでおり,琉球も鹿児島藩の支配下にあったから,文字どおり国を閉ざしたわけではない。この点に注目して「海禁」という概念も用いられている。はじめ幕府には鎖国したとの認識はなかったが,19世紀初頭にロシアの貿易要求を拒絶した頃から鎖国が祖法であるという観念が成立し,幕府すら拘束する最重要の体制概念となった。1853年(嘉永6)アメリカ使節ペリーが来航し,その開国要求に屈して鎖国は終わった。
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…基礎資料である15世紀の《ギニア航海記》(1841)では,イスラム教徒の征討に熱心な十字軍士としての側面が強調されているが,ポルトガル南西端サン・ビセンテ岬付近のサグレスに航海学校を創設したり,インド遠征を企図したルネサンス的賢人だったという,いわゆる〈エンリケ伝説〉が19世紀までに形成され,ついにはポルトガルの運命を切り開いた予言者として神格化されるに至った。日本でも和辻哲郎が《鎖国》(1950)の中で17世紀外国に門戸を閉ざした当時の為政者を,15世紀ポルトガルの海外進出を指導したエンリケに対比させて独自の評価を与えたが,同時にエンリケ伝説がそのまま日本に紹介された。しかし,19世紀末以降の実証的な歴史研究によって,エンリケ伝説は次々と否定されるとともに,近年のエンリケ研究からは超人的・ルネサンス的イメージは後退し,より人間的・中世的側面が浮かび上がってきた。…
…また安土桃山時代のうち豊臣秀吉が全国を統一した1590年(天正18)から1867年までを,その支配体制が幕藩体制であったという理由で近世として一括する時代区分が最近では有力である。江戸時代は,対外的には幸運な国際事情もあって外国から侵攻されることもなく鎖国が維持され,国内では大坂の陣(1615,16)以降,島原の乱(1637‐38)を除いて幕末に至るまで戦争があとを絶った平和な時代であった。そのため独自の発展をとげた経済・文化は,開国後にヨーロッパの近代文明を取り入れる基盤となるとともに,近来の日本人論で指摘されているような日本人に固有な思考慣習や気風の源として現代の日本文化にも深い影響を及ぼしている。…
…〈経国大典〉などの法典には直接海禁という言葉では表現されないものの,国民の私的な海外渡航を禁止したのをはじめ,海禁と同系統の政策がとられ,日本に対する外交文書にも海禁という言葉の使用例がある。
[日本における海禁と鎖国]
日本でも,律令国家は〈人臣無境外之交〉という原則を保持していたし,中世国家も,少なくともそのような意図を持っていた。統一政権は,海賊停止令(1588)において,対外関係における国家権力の大名・領主に対する優越を打ち出してのち,自己を中心とした周辺諸国との安定した国際関係を模索する一方で,キリスト教を排除しつつ,対外関係を統制下に置くための政策を進めたが,その行動原理は,海禁とそれを支えるイデオロギーに基づいていた。…
…漂流中死亡した者が多く,幸い異国に漂着または異国船に救助されて帰国した者もあった。江戸時代にとくに多いのは,日本のおかれている自然条件すなわち海流と気象をはじめ,鎖国の影響,経済や都市の発達,和船の構造上の欠陥などの理由があげられる。季節的には旧暦10月から1月までの4ヵ月間に最も多く,北西季節風の卓越する時期であった。…
…水戸学が西洋諸国の強大さを認識しつつも,あえて〈攘夷〉を唱えたのはこのためである。この意味で,それは尊王論と密接不可分の関係にあり,国内秩序を保つために外との接触を制限しようといういわゆる鎖国制度の〈精神〉を,幕末の新状況のもとで再強調したものということができる。 水戸学の尊王攘夷論は幕藩体制の階層秩序を根本的前提としている点で,三家の一つとしての水戸藩の立場が刻印されているが,1839‐42年のアヘン戦争とともに軍事的侵略の危機感が武士層に広がると,とくに攘夷論が彼らの間に浸透していく。…
…和人地以北の地を〈蝦夷地〉(千島・樺太島の一部を含む)と称し,アイヌ民族の居住地とした。こうした地域区分体制は,直接的には松前氏のアイヌ交易独占を実現する方策として成立したものであったが,同時に,幕府(長崎)―オランダ・中国,島津氏(薩摩藩)―琉球,宗氏(対馬藩)―朝鮮,松前氏(松前藩)―蝦夷地(アイヌ民族)という鎖国体制下の〈四つの口〉を介した異域・異国との外交・通交関係を軸とした日本型華夷秩序の一環として位置づけられていたところに大きな特徴がある。したがって近世にあっては,和人地までが幕藩制国家の領域,蝦夷地は異域・化外の地という性格を与えられていたことになるが,松前氏には石高がなかったことから,和人地内の村には村高がなかった。…
※「鎖国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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