長屋王(ながやおう)(読み)ながやおう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「長屋王(ながやおう)」の意味・わかりやすい解説

長屋王(ながやおう)
ながやおう
(684?―729)

奈良初期の政治家。天武(てんむ)天皇の孫。父は高市(たけち)皇子。母は『公卿補任(くぎょうぶにん)』に天智(てんじ)天皇女(むすめ)、御名部(みなべ)皇女とある。御名部皇女は元明(げんめい)天皇の同母姉である。妃は草壁(くさかべ)皇子女吉備(きび)内親王、夫人に藤原不比等(ふひと)女がある。709年(和銅2)従三位(じゅさんみ)宮内卿、翌年式部卿に転じ、716年(霊亀2)正三位、718年(養老2)大納言(だいなごん)に任じ、720年不比等が死ぬと、翌年従二位右大臣に任じ政権の首班となった。ただし不比等の死の直後、舎人(とねり)親王が知太政(だいじょう)官事、新田部(にいたべ)親王が知五衛および授刀舎人事に任ぜられていて、長屋王牽制(けんせい)する形になっている。

 724年(神亀1)左大臣に任ぜられた。同年聖武(しょうむ)天皇が生母藤原夫人宮子を大夫人と称せしめるよう勅を出したが、左大臣らは奏して、公式令(くしきりょう)には皇太夫人と称すべきことが定められている、勅と令とのいずれをとるべきか決められんことを請うた。ここに皇太夫人と号し、大御祖(おおみおや)とよむことに決定、前勅は撤回された。これは次の件と揆(き)を一にする性格をもつ。729年(天平1)王は左道を学び国家を傾けようとしていると讒言(ざんげん)され、問罪されて2月12日妃や王子とともに自殺した。その原因は光明夫人の皇后冊立に反対したためと推定される。すなわちその前年夭折(ようせつ)した光明所生の基(もとい)王とほとんど同時に生まれた県犬養(あがたいぬかい)夫人所生の安積(あさか)親王に対抗して、光明を皇位継承権をもちうる皇后の地位に立てようとする動きがあったのを、長屋王に反対されたのである。王は文雅を好み自邸作宝(さほ)楼に文人を集め、しばしば詩会を開いた。『懐風藻』に詩三編、『万葉集』に和歌五首が残る。仏教崇敬し、袈裟(けさ)1000をつくり、唐の僧に施し贈った。

[横田健一]

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