門田屋敷(読み)かどたやしき

日本歴史地名大系 「門田屋敷」の解説

門田屋敷
かどたやしき

[現在地名]岡山市門田屋敷一―五丁目・門田屋敷本町かどたやしきほんまち徳吉町とくよしちよう一丁目・中納言町ちゆうなごんちよう

旭川東側の武家屋敷地帯。南は重臣下屋敷、西は細堀を隔て国清こくせい寺・小橋こばし町・大黒だいこく町と上下の片上かたがみ町、北は旭川支流。寛永城下絵図では数軒の武家屋敷と鉄砲場となっている。「吉備温故秘録」は、当所は上道郡門田村で民家があったが、寛文九年(一六六九)この民家を東の山裾に移して新門田村とし、跡地を二九人の中身の武士に給して武家屋敷としたのに始まるとする。その後足軽屋敷が続いて建てられたという。当所は門田南忍び屋敷(伊賀衆屋敷)・忍び屋敷東西の町(伊賀衆屋敷)・同南北の町(伊賀衆屋敷)・侍鉄砲屋敷・東照宮御山道・仲間屋敷・新屋敷(大黒町通の東西町で足軽屋敷)・蛇谷(的場が元禄一〇年に建てられて石橋多宮と称する、寛政頃まで春秋の勧進的があったという)中屋敷(上下の片上町と大黒町の西で一八〇間ばかりの地帯、伊木家・池田伊賀守下屋敷)・荒手屋敷(北の旭川支流端)などからなっていた(吉備温故秘録)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報