「かいはつ」と読むか「かいほつ」と読むか明らかでない実例が多い。「和英語林集成」の初版と再版には「かいほつ」だけがあり、改正増補版では「かいはつ」だけが出ているから、明治一〇年前後から次第に「かいはつ」が普通になってきたと思われるが、読み方不明の実例は、明治以降のものはすべて「かいはつ」、それ以前は「かいほつ」とした。
日本において開発ということばは江戸時代前半期に行われた新田開発として使われている。新田開発とは、用水、堤防、干拓、埋立てによる原野、三角州、潟湖(せきこ)、海岸の耕地開発を意味し、その背景には当時の鉱山採掘技術と用水土木技術の発達と土地所有の成立という事実がある。その後、物心ともに荒廃した農村を活性化させることに成功した二宮尊徳(にのみやそんとく)の桜町仕法や日光仕法は、今日のことばでいえばコミュニティ・デベロップメントを意味する。つまり桜町開発計画および日光開発計画とほぼ同義である。また、明治以後の北海道開発の歴史は、「拓殖」という文字が端的に示すように、「拓地殖民」すなわち開拓と殖民の歴史であった。日本においては開発ということばに以上のような歴史的なニュアンスが含まれている。
ところで英語のdevelopは、他動詞では開発だが、自動詞では発展ということを意味している。これは開発理念を考える場合に重要な問題を提起している。すなわち、開発の成否が住民の自助努力を不可欠とすること、また経済開発と社会開発が車の両輪のごとく連動して進展しなければ十分な成果をあげえないということを含意しているからである。
[伊藤善市]
後進地域の開発問題が現代的課題として本格的に登場するようになったのは、20世紀に入ってからであるが、それには次のような背景があった。すなわち、一方において、後発国ないし発展途上国のナショナリズムの要求、および国際経済の拡大均衡の要求という潮流がそれである。また他方において、同一国内における経済社会水準の地域格差と過密・過疎問題の発生に随伴して発生した社会的緊張の増大に対する是正の要求がある。さらに第二次世界大戦後の高度成長によって引き起こされた社会的アンバランスの激化と情報化の進展がこれに拍車をかけたという事実がある。国際関係と国内関係を同一視することには問題があろう。しかしそれにもかかわらず、両者に共通するものは、長期展望にたった計画的志向なしには経済社会の安定と進歩を保証しえなくなったという認識である。不完全雇用下においても、また低開発下においても均衡が成立しうる以上、完全雇用と完全利用のための開発政策、さらに先行投資としての開発投資の役割は重要であるといわなければならない。
戦後30余年にわたる日本における地域開発の政策理念を振り返ってみると、昭和20年代は食糧増産、地下資源の開発といった資源開発の時代であったが、昭和30年代は産業基盤の造成、地域格差の是正が重要な課題であった。さらに昭和40年代から50年代にかけては、過密・過疎問題や環境問題が中心的課題になった。しかし、開発理念に変遷があったとはいえ、三つの全国総合開発計画を吟味してみると、そこにはいわゆる生活圏構想が一貫して貫かれており、生活圏で核となるべき地方中堅都市の育成が、その戦略として重視されてきたことを確認することができる。
[伊藤善市]
地域問題は単に経済問題だけにとどまるものではない。それは社会、文化、政治などの複合的課題であり、地域開発に伴う経済の成長は、社会、文化、政治の各領域に変動を引き起こす。地域開発の究極のねらいとする豊かな社会の形成は、国全体としても、また各地域や各個人にしても、所得や富が増えるだけにとどまらず、同時に心も豊かになり、外部世界に向かって幸福を広げることでなければならない。所得や富を増やす能力の向上と並んで、それを賢明にしかも有効に利用する能力の向上が、あわせて要求されるのである。とくに都市生活者が着実に増大することが予想されるのであるから、これからは経済的動機と並んで人間的動機を重視し、効率の原則と並んで必要の原則を重視する必要がある。
[伊藤善市]
『伊藤善市著『都市化時代の開発政策』(1969・春秋社)』▽『伊藤善市著『地域開発論』(1979・旺文社)』
〈かいはつ〉ともいう。荒野・荒蕪地を開墾することは超時代的に行われたことであるが,とくに平安期から鎌倉期にかけての開発は,荘園制・領主制・中世村落など中世社会の骨格となる諸要素形成の基礎となった。用語面でも,初期荘園の開墾では〈墾開〉〈治開〉とかが用いられたが,平安初期になると〈開発〉がしだいに使用されるようになる。またその開発対象地を〈荒野(こうや)〉〈常々荒野〉〈無主荒野〉などと称することが10世紀後半以後一般化した。この荒野とはかつての田畠が荒廃化して1人の住人もいなくなり,猪鹿などの野獣の生息地と化してしまった所と観念され,無利・無益・無主の地とされた。中世形成期の開発は,そのような荒野の地を再び有利・有益・有主の場とするための重要な行為として意義づけされたのである。すでに律令制のもとでも墾田永年私財法によって私的な開墾とその私有権が認められ,また荒廃した公田・私田についても,平安初期には,申請して再開発した場合,その耕作権が終身の権利とされるに至っていた。こうした前提条件のもとで,農民による小規模な〈百姓治田〉の開発と並んで,〈富豪の輩〉〈力田の輩〉と称された在地の有力者やそれと結ぶ院宮王臣家・寺社による大規模な開発が盛んとなり,荘園制の形成が促進された。10世紀以降の王朝国家期になると,中央政府より国内の支配を委託された国司は,基準国図に登録された公田に対して〈勧農〉を行い,公田の〈満作〉化のために開発・再開発を推進した。こうして荒野開発には,通常3ヵ年ないし4ヵ年の官物免除と雑公事免除などの特典が与えられ,かつその開発のために〈私功〉〈功力〉(種子農料などの開発資本)を投下した者をもって開発地の主(所有者)とする慣習法が12世紀には一般化した。かくして,一部の寄生的な特権的支配層をのぞく社会のほとんどの階級・階層が開発に情熱をもやし,開発およびその寄進によって,荘・保・別名などのさまざまな開発所領が成立する。
このような開発には,開発主体が〈開発領主〉と称される領主的な開発と農民たちの村落的な共同開発とがあった。播磨国小犬丸保の〈土民等〉が〈計略を廻らし,功力を尽し〉て池を築造したのは後者の代表例であり,こうした農民的共同開発が中世村落成立の重要な基盤となった。それに対して前者は,比較的大規模な開発であり,若狭国国富保の開発領主となった太政官厨家小槻隆職,丹波国波々伯部保の開発領主として田堵等の組織者となった感神院大別当行円,摂津国猪名荘内の塩入荒野を開発せんとした鴨御祖社禰宜鴨県主祐季など下級貴族・寺僧・神官なども開発領主となっている。しかし何と言っても開発領主の典型は,平安時代以来の開発によってその本領を確立し子孫に伝領した在地領主である。鎌倉末に成立した《沙汰未練書》には〈御家人トハ,往昔以来,開発領主トシテ,武家ノ御下文ヲ賜ハル人ノ事ナリ〉〈本領トハ,開発領主トシテ,代々武家ノ御下文ヲ賜ハル所領田畠等ノ事ナリ〉と述べており,開発領主たることが鎌倉幕府の御家人の本質的属性として端的に示されている。鎌倉幕府は,関東御分国たる東国において,開発された〈新田〉を地頭の得分とし,検注免除の特権を付与した。開発を推進させ,開発地に対する強力な領主権を保障したのである。中世成立期の開発は,かくして農村における封建領主制成立の基本形態である在地領主の基盤をつくりだしたわけである。
執筆者:黒田 日出男
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
平安中期~鎌倉時代に行われた荒野や荒田の開墾。荘園や領主制,また中世村落成立の基礎となった。浪人や百姓を雇用して労働力を編成し,開墾費用を支出しながら開発者みずからが労働を指揮する領主型開発と,住人・百姓らによる共同開発がある。水田開発は畠地開発を前提とするのが通例だが,海岸の江に堤を築いて干拓する開発などもさかんに行われた。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…〈かいはつ〉ともいう。荒野・荒蕪地を開墾することは超時代的に行われたことであるが,とくに平安期から鎌倉期にかけての開発は,荘園制・領主制・中世村落など中世社会の骨格となる諸要素形成の基礎となった。用語面でも,初期荘園の開墾では〈墾開〉〈治開〉とかが用いられたが,平安初期になると〈開発〉がしだいに使用されるようになる。…
…領主の掌握地とはいっても,本田が領主の年貢・公事賦課の基本的な対象耕地であるのに対し,新田はまだ本田に組み込まれていないので,年貢額もきわめて低いのが通例であった。また,新田の開墾には開発資本が必要であり,しかも安定した収穫が得られるようになるには一定の期間が必要である。そこで中世でも,開墾・開発にあたっては,3年ないし4年間の年貢と雑公事の免除を受けられるのが慣習法となっていた。…
※「開発」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
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