陰陽道(読み)おんようどう

精選版 日本国語大辞典 「陰陽道」の意味・読み・例文・類語

おんよう‐どう オンヤウダウ【陰陽道】

〘名〙 陰陽五行説に基づいて、天文、暦数をつかさどり、吉凶を占うことを目的とした学問。また、その学派。陰陽寮の学科の一つ。おんにょうどう。おんみょうどう。おんよう。
御堂関白記‐寛弘三年(1006)七月三日「賜勘文、大弁対御簾読之、先紀伝、次明経、次明法、次陰陽道、読了」

おんにょう‐どう オンヤウダウ【陰陽道】

〘名〙 (「おんようどう」の連声(れんじょう)) =おんようどう(陰陽道)

いんよう‐どう インヤウダウ【陰陽道】

おんみょう‐どう オンヤウダウ【陰陽道】

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デジタル大辞泉 「陰陽道」の意味・読み・例文・類語

おんよう‐どう〔オンヤウダウ〕【陰陽道】

中国伝来の陰陽五行説に基づき、天文暦数卜筮ぼくぜいなどの知識を用いて吉凶・禍福を占う方術。朝廷は早くからこれを採用、陰陽寮を設け、平安時代には全盛を極めた。おんみょうどう。

いんよう‐どう〔インヤウダウ〕【陰陽道】

おんようどう(陰陽道)

おんみょう‐どう〔オンヤウダウ〕【陰陽道】

おんようどう(陰陽道)

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改訂新版 世界大百科事典 「陰陽道」の意味・わかりやすい解説

陰陽道 (おんみょうどう)

日月星辰の運行や方位をみ,特殊な占法を用いて国家・社会や個人の吉凶禍福を判じ,あらゆる思考や行動上にその指針を得ようとする諸技術をさし,これに関連する思想・理論も含まれる。中国古代,夏・殷(商)王朝のころに発達し,周王朝の時代に完成した。いわゆると称するもので,その代表的な典籍が《周易》である。その思想・理論の中心となるのは陰陽(いんよう)五行説で,日月と木火土金水を万物生成の主要素とし,これに十干十二支の説が結びつき,それらの複雑な組合せから歳月日時方位に占星的価値がつけられ,天文・暦法が加わってここに原始的科学知識が成立した。これは人間の未来を予知するよりどころとして古代漢民族社会を風靡した。

 日本へは仏教が公伝するのと前後して輸入された。すなわち継体朝には百済から段楊爾,漢高安茂等の学者が派遣されてその紹介指導にあたり,602年(推古10)には百済僧観勒が暦本,天文地理書,遁甲方術書など陰陽道関係の書物を献上した。聖徳太子は冠位十二階や十七条憲法制定に陰陽道をとりいれ,国史編纂には国家の起源にこれを利用するところがあった。大化にはじまる元号制定は中国にならい,祥瑞改元(吉兆とされる現象をもって新しい年号をたてる陰陽道思想)によったもので,これは奈良朝を通じ踏襲されたが,平安朝に入るころから災異改元(天災地変など凶兆とみられる現象をもって新しい年号に代える陰陽道思想)に転じ明治維新までつづいた。白村江の戦以後,百済からの亡命や大陸留学者の帰還によって帰化人系陰陽家が多数活躍し,角福牟(ろくふくむ),僧法蔵,同行心,同道顕らが知られるが,朝廷では僧侶は還俗のうえ仕えさせたので,行心の子僧隆観は金財(たから),僧義法は大津首意毘登(おおつのおびといびと)と改めている。天武天皇はみずから天文・遁甲の術をよくしたといわれ,はじめて陰陽寮をおき占星台を興した。律令制が整備されると陰陽寮は中務省に属し祥瑞災異の判定や新都建設の地相卜占をつかさどったが,反面この方面の専門書や天文器物の私有は禁ぜられた。平安朝に入り,律令制の衰退と藤原氏の政権掌握に伴い,陰陽道は権力者に利用され陰陽師の禁忌卜占が政治に影響するところが多く,貴族の御用的性格を帯びた宮廷陰陽道へと変わっていった。藤原良房の進出した仁明・文徳朝(833-858)ころよりこの傾向は著しく,藤原師輔は《九条殿遺誡》《九条年中行事》を著して多くの陰陽道的禁忌や作法を明示し,宇多天皇も《周易》に詳しかった。かくて滋岳川人(しげおかのかわひと),弓削是雄ら名人が輩出し,川人は多数の著作をのこし日本における陰陽道の基礎をつくった。平安中期に出た三善清行も易に通じ,辛酉の歳には革命,甲子の歳には革令があるとの中国の讖緯説(しんいせつ)(周期的予言説)をひいて改元を上奏し,年号を延喜とした。これより周期的災厄説による災異改元が恒例化した。

 やがて賀茂忠行賀茂保憲父子の名人が出,保憲もその子光栄(みつよし)と弟子安倍晴明の2人の逸材にめぐまれ,光栄には暦道,晴明には天文道を伝えてより,陰陽道界は賀茂・安倍両家による支配体制が成立し,陰陽頭(かみ)の地位も両氏いずれかで占められた。八十島(やそしま)祭・鎮火祭・道饗(みちあえ)祭・七瀬祓など朝廷の神祇的行事の陰陽道化は著しく,物忌(ものいみ)・方違(かたたがえ)は公家の間に有職故実化された禁忌で,とくに鬼門(東北方)や金神・太白・天一など諸神遊行の方向,往亡日・厭日・坎日(かんじつ)・道虚日・衰日などの日が禁忌の対象とされた。これらは院政期に入っていっそうはなはだしくなり,陰陽家には安倍泰親のほか一般公家にも大江匡房,藤原信西,同頼長,清原頼業らの精通者があらわれた。とくに泰親は〈さすのみこ〉といわれ,源平興亡の激動期には政局前途を占ってよく的中し注目された。これに対して暦道は振るわず,反面算道や宿曜道(すくようどう)が進出した。宿曜道はがんらい中国で密教の星宿信仰と陰陽道が結びついたもので,僧侶が占星術を用いて人の運勢判断などを行い,奈良朝より盛んで空海が唐より宿曜経を伝えるにおよび,南都北嶺を中心にいよいよ発展し,仁海,法蔵,浄蔵ら卜占の名手を出した。

 中世に入ると武家や民間にも禁忌の思想が普及した。指南書は中国伝来のものがほとんど滅び,晴明の《占事略決》が遺存の書として最も古く,南北朝には晴明に仮託された《簠簋(ほき)内伝》がつくられ,牛頭天王(ごずてんのう)の信仰と結びついた民間陰陽書として知られた。室町初期には賀茂在方が《暦林問答集》を著した。戦国期に賀茂家嫡流は絶え,土御門(安倍)家も秀吉に追放されていったん没落したが,江戸期に入って復興され,ついで後水尾朝に賀茂家は支流幸徳井氏によって復興された。暦は長らく中国のものに依存し,元嘉,儀鳳,大衍(たいえん),宣明の諸暦が用いられたのち,ようやく江戸期に渋川春海のつくった貞享暦,ついで西洋流暦法による天保暦と改まり,1870年(明治3)陰陽寮の廃止とともに太陰暦もやめられ,官制の陰陽道はここに終止符を打った。
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百科事典マイペディア 「陰陽道」の意味・わかりやすい解説

陰陽道【おんみょうどう】

中国起源の陰陽(いんよう)五行(ごぎょう)の思想に基づいて,平安時代に盛んに行われた方術。その伝来は6世紀ごろであったが,陰陽五行思想はすでに仏教や道教の影響から俗信化されており,禍(わざわい)を避け福を招く方術として,卜筮(ぼくぜい),相地(そうち)などに重きをおくようになった。しかし,11世紀以降は公的には衰退したものの,冠婚葬祭の吉凶や,方角,相性,加持祈祷(きとう)等に根をおろし,あずさみこ,いちこ,狐下げ等に転化した陰陽師も多かった。これらは1873年に禁止された。
→関連項目忌日占い方違九星九曜星金神呪文追儺土御門家道教名田荘【ほ】【き】内伝厄日

陰陽道【おんようどう】

陰陽道(おんみょうどう)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「陰陽道」の意味・わかりやすい解説

陰陽道
おんようどう

中国古代の陰陽五行説に基づいて形成された俗信。木火土金水の五行と,日月,十干十二支の組合せに,相生相克の理をあてはめて吉凶を判断するもので,日時,方角をはじめ,人事全般に行為,運勢の良否を規定した。推古 10 (602) 年 10月百済 (くだら) 僧観勒が来朝し,暦本,天文地理書および遁甲方術の書を献上したので,学生3~4人を選んでこれを学ばせたと『日本書紀』にあるのが,陰陽道伝来の文献にみえる初めである。大宝令では,陰陽寮の管掌するところで,陰陽博士,暦博士天文博士漏刻博士などの技術者がおかれ,制度として整備された。平安時代中期,賀茂忠行,保憲父子,その門人安倍晴明の頃,陰陽道は隆盛をきわめた。保憲はその子家栄に暦道を,晴明に天文道を分け授けたので,以後朝廷では,賀茂,安倍両家がそれぞれの陰陽道を相伝し,家業とした。晴明は傑出した陰陽家として伝説が多い。平安時代以後残存する暦 (→具注暦 ) には,繁雑なまでに多くの悪日,悪方角などが記されている。これら禍を除き福を招くため,陰陽師は祓 (はらい) や祭りを行う。出行のとき行う呪法である反閉 (へんぱい) ,身体が強くなるよう加持する身固 (みがため) ,身体をなでて穢 (けが) れ災いを移した撫物の祈祷,人の寿命や福寿を司る山神を祭る泰山府君祭などはそれである。こうして陰陽道は次第に民間への流布と俗信化を強めていった。その信仰の名残りは,今日,結婚,葬式などの日選び,建築の方忌 (かたいみ) ,星占いなどにみられる。

陰陽道
おんみょうどう

陰陽道」のページをご覧ください。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「陰陽道」の解説

陰陽道
おんみょうどう

中国から伝来した陰陽五行説(いんようごぎょうせつ)をもとに成立した呪術の体系,またはこれにたずさわる呪術者の集団。陰陽五行説は,万物の生成転変を日月や木火土金水の運行・性質によって説明しようとする学説である。日本では祥瑞(しょうずい)や災異の判定とそれをもとにしての占いが行われたほか,金神(こんじん)・太白(たいはく)・天一(てんいち)などの諸神の遊行する方角にもとづく物忌(ものいみ)・方違(かたたがえ)や厭日(えんにち)・坎日(かんにち)・凶会日(くえにち)・衰日(すいにち)といった日の吉凶にともなう禁忌が流行し,また邪気を祓(はら)うための反閉(へんばい)・呪詛(じゅそ)なども行われた。大化前代から朝鮮半島経由で伝わってきたものが淵源となり,本格的には平安時代に陰陽寮の官人たちの間で成立。平安後期以降は賀茂氏・安倍氏による支配・統制が強まり,江戸時代には安倍氏の一派の土御門(つちみかど)家が独占的に支配して天社(てんしゃ)神道を成立させた。

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旺文社日本史事典 三訂版 「陰陽道」の解説

陰陽道
おんみょうどう

古代中国の陰陽五行説に基づいて天文・暦学・易を説明する学問
「おんようどう」とも読む。日本には5〜6世紀ころ伝来し,大宝令で中務省に陰陽寮・陰陽博士が置かれた。平安時代に全盛期を迎え,賀茂・安倍両氏の統制の下日常生活全般にわたって吉凶禍福が占われた。迷信的色彩が強い。

陰陽道
いんようどう

おんみょうどう

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占い用語集 「陰陽道」の解説

陰陽道

古代中国で成立した陰陽五行説を基盤として、日本で独自の発展を遂げた自然科学・天文・暦・呪術の体系。政治に取り入られることが多かったため、日本人の生活全般にまで広まった。また、陰陽道に関わる者を陰陽師といい、陰陽師の集団のことを陰陽道と呼ぶこともある。

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世界大百科事典(旧版)内の陰陽道の言及

【方違】より

陰陽(おんみよう)道で忌むとされる方角を避ける風習。外出するのにその方角が禁忌とされる場合,前日に他の方角へ赴いて泊まり,そこから目的の地にゆくものである。…

【道教】より

四神獣の構造)を下敷きにし,天武をはじめとして皇族の陵墓の多くが,朱鳥もしくは朱雀の象徴する南方,火の方角,道教の神学でいわゆる死者のよみがえりの宮,すなわち〈朱宮〉(〈朱火宮〉)の方向に築かれているのも,このことと密接に関連するであろう。
[陰陽道と道教]
 7世紀後半の天武・持統の治世,ないし8世紀初めの元明・元正の時代に道教の思想信仰への関心の高まりが見られること上述のごとくであるが,《古事記》成立の6年後,《日本書紀》成立の2年前,元正天皇の養老2年(718)ころに成立した現存最古の律令の養老律令では,道教と関連する記述がほとんど表面に見えていない。これはなぜであろうか。…

※「陰陽道」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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