須木・須木郷(読み)すき・すきごう

日本歴史地名大系 「須木・須木郷」の解説

須木・須木郷
すき・すきごう

ほぼ現須木村域にあたる。中世には須木城、および同城を中心とする地域を須木とよんだ。応永年間(一三九四―一四二八)の初め頃の九月一四日付の島津元久書状(町田氏正統系譜)によれば、須木、油之木崎ゆのきざき(現高岡町)深歳ふかどし(現国富町)の面々は元久方に属していたところ、同月四日伊集院紀州の一族により深歳の在家が放火され、大勢が攻め寄せたという。同三一年島津久豊は伊東氏攻撃のため油之あぶらの(現日南市)へ発向した。鹿児島大学図書館本「山田聖栄自記」には「真幸、三俣両人手ハすき、ひた木とり合、ゆの木崎・紙屋も御用立へき之由、前より被申候ヘハ」とあり、真幸まさき三俣みまた軍勢が前々からの約束どおり先陣となって当地を通っていったらしい。この時期当地は伊東方の勢力下にあったものか。文明四、五年(一四七二、七三)頃と推定される三月一四日付の本田兼親宛島津立久書状(旧記雑録)によれば、伊東方は翌一五日須木より境目へ兵を出そうとしたが、一日の合戦で米良美濃・比田木次郎太郎が負傷したため発向は延期された。同一六年からの飫肥おびでの伊作久逸の乱の際、伊作氏救援のため発向した伊東方の軍勢のなかに須木の人数も加わっており、伊東祐邑の手に属していた(日向記)。大永四、五年(一五二四、二五)頃と推定される二月七日付の肝付兼興宛北原久兼書状(肝付文書)には「須木裏未取、肥田木気合少乱候ツ」とあり、依然として伊東方であった。

永禄(一五五八―七〇)頃にも真幸口を固める要地の一で、また須木の米良尾張守は、天文(一五三二―五五)頃には庄内しようないに勢力を伸ばした伊東氏のもとで野々美谷ののみたに(現都城市)に入っている。永禄一〇年頃須木の領主米良筑前守は三ッ山みつやま(現小林市)に入部し、須木は甥の右馬助(のち長門守)に譲られた。「分国中城主揃事」には須木城主として米良長門守が記されている(日向記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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