飯野・飯野郷(読み)いいの・いいのごう

日本歴史地名大系 「飯野・飯野郷」の解説

飯野・飯野郷
いいの・いいのごう

現えびの市の東部川内せんだい川流域一帯をさす。中世には吉田よしだ村のうち。近世には鹿児島藩外城の一として飯野郷が立てられた。

康永四年(一三四五)一一月二二日の開田出羽守領吉田村年貢濫妨事書(相良家文書)に「吉田飯野名々主花北左衛門太郎入道」がみえ、真幸まさき院収納使北原助六兼命らとともに大勢を率い、同年九月六日吉田村に押寄せ、吉田村沙汰人側が派遣した人々を殺害、田畠作毛をすべて刈取ったという。この件を訴訟のため上洛しようとした地頭代官坂覚英は途次殺害され、その後代官職をめぐる争いなど混乱が続いたが、御領すなわち開田領である吉田村を「か様ニなし候事ハ、飯野名々主花北か結構ニて候」として、その名田没収が要求されている。

その後当地には飯野城が築かれ、文明六年三州処々領主記(都城島津家文書)には「北原持城」の筆頭として飯野がみえる。以後中世から近世初頭の史資料にみえる「飯野」の多くは飯野城あるいはその城主をさし、同城は北原氏さらに永禄七年(一五六四)以降は島津忠平(義弘)の拠る所となった。飯野地頭には同年一一月より川上忠智、天正(一五七三―九二)初年には有川貞真(島津義弘家老)、文禄(一五九二―九六)末頃には新納忠元、慶長(一五九六―一六一五)頃には伊集院久春入道元巣が任じられたとされる(諸郷地頭系図)。元亀三年(一五七二)五月四日には伊東氏と島津氏の軍勢が飯野川内川河畔の木崎原きさきばるで戦い、伊東方は大敗した(「北郷忠相等三代日帳写」都城島津家文書など)。「上井覚兼日記」には島津忠平領の飯野および飯野衆の記事が頻出する。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

土砂災害

大雨や地震が誘因となって起こる土石流・地滑り・がけ崩れや、火山の噴火に伴って発生する溶岩流・火砕流・火山泥流などによって、人の生命や財産が脅かされる災害。...

土砂災害の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android