高沼村(読み)たかぬまむら

日本歴史地名大系 「高沼村」の解説

高沼村
たかぬまむら

[現在地名]利賀村高沼

草嶺倉そうれいぐら村の北、利賀川右岸の山腹に位置し、東は山峰を境に婦負ねい郡、西は利賀川左岸の高い山を望む。北の九里くりとう村まで二四町(村々道程駄賃付「十村宅左衛門覚書」寿川区有文書)。天文二一年(一五五二)一〇月二七日の五箇山衆連署申定(生田家文書)の「利賀谷」のうちに高沼源太郎の名がある。寛永七年(一六三〇)には高九五石余、免五ツ一分一厘、納所金子一六両二匁五分余・塩硝代一匁六分余。

高沼村
たかぬまむら

[現在地名]倉敷市早高はやたか

旗本早島戸川領。西田にしだ村の東に位置し、東は高須賀たかすか村。前潟まえがた新田(現都窪郡早島町)と同時に開発された新田村。帯江・早島の旗本両戸川氏により帯江領高沼村(窪屋郡)と早島領高沼村に分割開発された。寛文四年(一六六四)開発が始まる(「諸新田年暦」早島町史)。開発人は当初早島はやしま(現早島町)庄屋助左衛門であったが、資金不足のため大坂具足屋長右衛門の資金を導入し、早島領前潟新田と共同開発することにし、完成時には前潟新田は助左衛門へ、高沼新田は具足屋長右衛門へ譲渡する契約を交わした(「前潟開発由緒書」佐藤文書)

高沼村
たかぬまむら

[現在地名]倉敷市帯高おびたか早高はやたか

旗本帯江戸川領。亀山かめやま村の東にあり、南は六間ろつけん川を境に備前国児島こじま天城あまき村に接する。西田にしだ亀山両新田の沖合に旗本の早島・帯江両戸川氏の共同見立てにより、共同で開発された百姓寄合請負新田。開発が寛文―延宝(一六六一―八一)の二期にわたったこともあり、必ずしも地理的に二大分されたのではなく、両戸川氏の領分は入組んでいた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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