精選版 日本国語大辞典 「NATO」の意味・読み・例文・類語
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北大西洋条約機構North Atlantic Treaty Organizationの略称。北大西洋地域の北アメリカ,ヨーロッパ両大陸の西側諸国が調印した北大西洋条約に基づいて設立された集団防衛機構。第2次世界大戦後,東西の冷戦が激化した1949年4月,ベルギー,カナダ,デンマーク,フランス,アイスランド,イタリア,ルクセンブルク,オランダ,ノルウェー,ポルトガル,イギリス,アメリカの12ヵ国は北大西洋条約に調印,同条約は同年8月に発効した。52年にはギリシア,トルコ,55年に西ドイツ,82年にスペインが加盟した。1985年現在の加盟国は16ヵ国で,アメリカを中心とする西側同盟体制の中軸となっている。このうち,フランスは軍事機構から脱退しており,85年現在,スペインは軍事機構に参加していない。一方,ソ連・東欧諸国は1955年にワルシャワ条約機構を設立,集団防衛体制をとっている。
北大西洋条約のおもな目的は,5条に規定された集団防衛で,加盟国に対する攻撃を全加盟国に対する攻撃とみなして,国連憲章51条によって認められた個別的または集団的自衛権に基づき,軍事力の行使を含む必要な行動をとるという点にある。条約の適用地域はヨーロッパ,北アメリカの加盟国の領域,トルコ領土,北回帰線以北の大西洋地域における加盟国の管轄下にある諸島となっている。
NATOの最高機関は,加盟国の閣僚で構成される理事会で,年2回開かれる。NATOは超国家機関ではなく,加盟国の主権と独立性を尊重し,すべての決定は全会一致を原則としている。その補助機関として,大使級代表によって構成される常任理事会がベルギーのブリュッセルにおかれている。軍事問題は加盟国の参謀総長で構成される軍事委員会で検討し,理事会に助言する。その補助機関として,将官級代表によって構成される常任軍事委員会がブリュッセルにおかれている。このほか,政治,経済,社会,文化の各分野の問題を検討するため,非軍事分野で18の委員会が設けられている。
NATOは加盟国の軍事力によって,地域別に編成された連合軍(NATO軍)を保有している。主要兵力は,ヨーロッパ全域の防衛にあたるヨーロッパ連合軍(司令部所在地はベルギーのモンス),大西洋の海上防衛にあたる大西洋連合軍(同,アメリカのバージニア州ノーフォーク),英仏海峡一帯の防衛にあたる海峡連合軍(同,イギリスのノースウッド),アメリカ,カナダの防衛計画を担当するカナダ・アメリカ計画グループ(ワシントン)で構成されている。ヨーロッパ連合軍は,北欧,中欧,南欧の各連合軍に分かれている。総兵力は約66個師団相当,アメリカの核弾頭約5000発をもち,司令官は初代のアイゼンハワー(のちアメリカ大統領)以来,アメリカ軍人が任命されている。
一方,ワルシャワ条約機構は,加盟国の提供する兵力でワルシャワ条約機構統合軍を編成することになっているものの,現在までのところ兵力提供は行われていない。また,モスクワにある統合軍司令部の業務はソ連国防省の指導のもとにソ連幕僚によって行われており,東欧諸国は連絡将校を出しているにすぎない。このためワルシャワ条約機構軍は,NATOのように,加盟国の兵力提供により常時作戦可能な軍ではなく,平時は東欧諸国やソ連西部に展開するソ連軍を主体とした軍事力といえる。ワルシャワ条約機構軍とNATO軍の戦力を比較すると,84年現在総兵力で617万人対502万人,戦車で5万両対2万両,航空機で5800機対1万2000機,艦艇で1300隻対1300隻となる(《ミリタリー・バランス》による)。
NATOの戦略は,かつて米核戦力に依存する大量報復戦略をとっていたが,1967年12月以来,柔軟反応戦略を採用している。この戦略は,通常戦争から限定的核戦争,全面的核戦争まであらゆる種類の戦争に有効に対処できる軍事力をもつことによって,侵略の抑止をはかろうとする戦略で,ソ連・東欧からの侵略に対しては国境地帯で防衛する前進防衛態勢をとっている。侵略に対しては,侵略された地域で主として通常兵力で反撃する直接防衛,さらに限定的核使用を含む慎重なエスカレーション,侵略者の戦略能力を破壊する全面的核反撃の3種類の反撃を想定している。
NATOは結成以来,何度か分裂の危機を経験してきた。1955年の西ドイツの再軍備・NATO加盟に対して,フランスが強い警戒心を示し,推進派の米英両国との対立を深めた。その後フランスは,自国の安全をアメリカの核兵器に依存することはできないとして,独自の核戦力保有にのりだし,核拡散防止の立場からフランスの核武装に反対する米英両国との対立がさらに深まった。このためフランスは64年にまず大西洋連合軍,つづいて海峡連合軍から艦艇を引き揚げ,さらに66年7月,NATO軍から全フランス軍を引き揚げ,軍事機構からの離脱を決定した。さらにフランスは,パリにおかれていたヨーロッパ連合軍の国外移転を要求,同司令部はベルギーのモンスに移転した。
また1974年7月,中東キプロスで軍事クーデタが発生,トルコがギリシアへの併合阻止とトルコ系住民保護を理由にして軍事介入した際,NATOは何ら具体的な解決案を提示できなかった。このためギリシアはこれを不満として同年8月,NATOの軍事機構から脱退した。さらに79年12月,NATOはアメリカの中距離核ミサイル,パーシングⅡ型と巡航ミサイルを83年末からヨーロッパに配備することを決定したが,これに対してヨーロッパ各国で反核運動が起こり,イギリス,西ドイツ,イタリアは配備を支持したのに対し,ベルギー,オランダ両国はあいまいな態度を示し,NATOのヨーロッパ諸国を二分する結果を招いた。
NATOがこうした複雑な対立をかかえながらも分裂を回避してきたのは,NATOが加盟国の主権と独立性を尊重し,すべての決定を加盟国の自由意思にゆだねるという柔軟性から生まれている。加盟国の意見が対立する際は,NATOは何も決定できないが,その反面,対立があるとしても分裂までには発展しない。さらにNATOは,集団防衛機構であるだけでなく,北大西洋地域の自由主義諸国の政治,経済,社会,文化のあらゆる面にわたって協議を行ってきている。NATOのない西側諸国の協力は考えられない。こうした点が,NATOが内部の対立をはらみながらも分裂しない大きな原因であろう。
執筆者:阪中 友久
1981-83年のINF(中距離核戦力)問題は,NATO史上最大の試練となった。この問題の直接の源泉は,1979年12月のNATO二重決議にある。これは,一方でアメリカ製新型中距離核ミサイル計572基の西欧配備を83年末より開始することを決議し,他方でこれを〈てこ〉に西欧諸国に軍事的不安を与えてきたソ連のSS20ミサイルの削減を目的とするINF制限交渉を米ソに促すことを決議したものである。交渉は83年11月まで続けられたが,合意が得られず,中断されるとともに,西ドイツ,イギリス,イタリア,ベルギーへの配備が着手された。反核世論の強いオランダだけは,配備受入れの最終決定ができないままでいる。NATO二重決議が西欧諸国,とくにこの決議のイニシアティブをとったシュミット西ドイツ首相の思惑どおりに運ばなかったのは,1979年末以降の米ソ間の〈新冷戦〉的状況の高進と,安全保障政策についての西欧諸国の国内的コンセンサスの動揺,あるいは崩壊が急速に生じたからであった。ことにNATO核近代化がヨーロッパを舞台にする〈限定〉核戦争につながりかねないとみて二重決議の撤回を要求し,さらには核抑止戦略に頼らない安全保障体制を模索しようとするヨーロッパ各国の市民による反核運動はかつてない規模で高揚し,各国の安全保障政策の根本的な再検討を促したのみか,米ソ関係にも大きな影響を与えた。
だが,この危機も本質的にはNATOの構造に起因しているといえる。アメリカの核抑止力と在欧米軍への安全保障の依存は,つねに西欧諸国にアメリカの意図と行動に対する不安感を与えてきた。それは,一方でアメリカの慎重を欠いた行動によって世界戦争に巻き込まれかねないとの不安であり,他方では米ソの〈共同支配〉の利益追求のなかで防衛の約束を放棄されかねないという,あるいはヨーロッパを舞台の通常戦争による〈防衛〉という名の破壊という悪夢である。したがって,西欧諸国が経済の復興を遂げてアメリカとの間が相互依存関係に入るや,安全保障面でのアメリカへの依存からの離脱を模索するのは自然であった。ド・ゴールのフランスがアメリカの核抑止の意図に疑義をいだき,自前の核戦力の開発に踏み切り,NATO軍事機構から脱退したことはその例である。またブラントの西ドイツが東方政策を追究し,対ソ・デタント(緊張緩和)を構築したのも,安全保障の問題についての独自のアプローチだったといえよう。INF問題をめぐる米欧ないし各国内世論の亀裂も,西欧諸国のこうしたアンビバレントな心理と論理を反映したものにほかならない。
こうして西欧諸国の世論の底流にある最近の平和主義ないし中立化志向を,西側同盟の危機とみるアメリカには,ヨーロッパ防衛の主導権と責任をヨーロッパ側に移して,ヨーロッパ防衛体制の根本的な再編成が必要であると主張する有力な声が聞かれるようになった。NATOをめぐる米欧関係は,重大な岐路に立たされているといえる。
執筆者:高柳 先男
冷戦の終結とソ連の解体はNATOのあり方を大きく変えることとなった。1991年ワルシャワ条約機構が解体し,99年3月にポーランド,チェコ,ハンガリーがNATOに加盟し,2004年3月にはさらにエストニア,ラトビア,リトアニア,スロベニア,スロバキア,ブルガリア,ルーマニアの7ヵ国が加わって,NATOは26ヵ国体制となり,中・東欧に大きくその領域を広げることとなった。
執筆者:編集部
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… 力の平準化とも関係して,ブロック内で頂点にたつ米ソから距離を置いたり,それに対して自主性を強める動きが生じた。特に西欧では,フランスはド・ゴール大統領のもとで自主外交を進め,NATOからの離脱や自主核武装を行い,アメリカと距離をとった。また西ドイツも70年代前半,東方政策の名の下に,ソ連・東欧諸国そして東ドイツとの関係改善を強め,75年にはヨーロッパ安全保障協力会議(CSCE)を形成させる独自外交を進めた(〈ヨーロッパ安全保障協力機構〉の項参照)。…
※「NATO」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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