翻訳|cabaret
客を楽しませる舞台やダンスホールを付設した酒場のことで,語源はフランス語といわれる。その本来の形のものとしては,1881年,サリRudolphe Salis(1852-97)が俳優,詩人,音楽家,画家を誘って,パリのモンマルトルに〈黒猫Chat Noir〉を作ったのに始まる。それは酒場と芸術,時事性と笑いや楽しみを結合した新しいタイプの市民的娯楽の創造だった。コンフェランシエと称する司会役がおもしろい話術で笑わせながら,シャンソンや寸劇をつないでいくのが基本形式である。市民的進歩精神と都市文化の成熟を基盤とするこの消費文化は,モダンな感覚と時事的風刺の新鮮さによって大反響を呼び,ヨーロッパ中に広まった。ウィーンでは1901年にザルテンFelix Salten(1869-1945)によって〈ユング・ウィーナー・テアター・ツーム・リーベン・アウグスティン〉が作られてから,独自の伝統ができた。ベルリンには同じ年にウォルツォーゲンErnst von Wolzogen(1885-1934)が〈ユーバーブレットル〉を,M.ラインハルトが〈シャル・ウント・ラウフSchall und Rauch〉を作り,ミュンヘンには〈11人の死刑執行人〉ができて,ニューモードとして一時流行したが長続きしなかった。ただドイツの大道演歌Bänkelsangの伝統を活性化したウェーデキントは,ドイツ的キャバレー(カバレットKabarett)の源流をつくりだした。ポーランドからロシアに伝わったキャバレーは,土着の情緒とミックスした独自の傾向を発展させ,周辺文化的ユーモアを結実させた。
ワイマール時代になると,ドイツのキャバレーはベルリンを中心として新時代をリードするものとなった。皮切りはラインハルトが〈大劇場〉の地下に再開した〈シャル・ウント・ラウフ〉だった。彼の意図は大劇場のパロディだったが,関与したダダイストのW.メーリングらは,それを既成市民文化の破壊の場に変えた。そしてベルリンの貧民街の〈裏庭世界〉の情緒をキャバレー芸術固有の香りとして定着させた。トゥホルスキー,クラブントらの作詞家,ホレンダーFriedrich Hollaender(1896-1976),W.R.ハイマンらの作曲家が都市大衆文化の一ジャンルとしてのシャンソン,小唄(クプレ)を完成し,B.エービンガー,T.ヘスターベルク,R.バレッティ,C.ワルドフらの女性歌手,O.ロイターらが歌って,ベルリン・キャバレーの全盛時代を作った。1926年にホレンダーは〈文学的レビュー〉という,東西の接点としての世界都市ベルリンをになう新しい型を創造した。それが拡大されてブレヒトの《三文オペラ》(1928)やディートリヒの《嘆きの天使》(1930)の世界が成立した。第2次世界大戦後は,新しい条件の下でのキャバレーの再編成が進行し,東ドイツやポーランドでは社会の内部矛盾を風刺する道が探られた。日本へは昭和初期のエロ・グロ・ナンセンス時代に一種のモダニズムとして輸入されたが,酒と女と踊りの都会的悪場所に変質し,やがてカフェやバーと同質のものになった。
執筆者:平井 正 今日の日本でいういわゆるキャバレーは,1945年に占領軍専用のものが東京にできたのが始まりで,やがて一般に広まった。ダンスホール,バンド演奏やショーを行う舞台などの設備を設けているほか,接客婦(ホステス)をおいて客に飲食を提供する。営業にあたっては風俗営業等取締法にもとづき,各都道府県条例の定めによって許可をうけなければならない。
執筆者:編集部
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ラテン語のcavus(穴)、cave(地下室)、camere(部屋)、古いオランダ語のcabret(部屋)あるいはアラビア語のkhamaret(居酒屋)などが語源といわれる。フランス語では居酒屋を意味し、17世紀末にはまた茶器やリキュール杯をのせる盆のことをさしたが、現在ではダンスホールや舞台のある酒場で、ホステスがサービスをし、バンド演奏やショーなどが行われる施設をいう。もともとヨーロッパでは、居酒屋、飲食店など芸術家たちのたむろする、反社会的雰囲気の溜(たま)り場として発展した。1881年、パリのモンマルトルに「シャ・ノワール」(黒猫)が誕生し、いわゆる芸術キャバレー、文学キャバレーが登場する。そこでは、社会批判的シャンソンや寸劇など、機知と風刺のきいた民衆芸術が展開された。この運動はウィーン、ミュンヘン、ベルリンなどヨーロッパ中に広まり、20世紀前半には、「小芸術舞台」といわれるキャバレー文化の世界が成立したが、第二次世界大戦後は衰微した。日本ではキャバレーとよばれるものは、1945年(昭和20)東京・銀座に進駐軍専用のキャバレーとしてオアシス・オブ・ギンザができ、ついで一般用のものも現れ、都道府県公安委員会の管轄になる風俗営業とされている。また、ホステスを置かず、飲食やバンド演奏、ショーなどを楽しむ深夜営業の施設はナイト・クラブとよんで、キャバレーとは区別されている。
[佐藤農人]
『ハインツ・グロイル著、平井正・田辺秀樹訳『キャバレーの文化史』(1983・ありな書房)』▽『菊盛英夫著『芸術キャバレー』(1984・論創社)』
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…シャッターをあけたまま,完全に受身ですべてを記録し,何も考えない〉からとられた。監督・振付ボブ・フォッシー,ライザ・ミネリ主演《キャバレー》(1971)としてミュージカル映画化された。【宇田川 幸洋】。…
…1941),2度目の夫になるビンセント・ミネリ監督による《若草の頃》(1944),《踊る海賊》(1948),フレッド・アステアと組んだ《イースター・パレード》(1948)など,数々のミュージカルの傑作を残した。やはりエンタテイナーとして活躍し,ミュージカル映画《キャバレー》(1972)ではアカデミー主演女優賞を受賞したライザ・ミネリは,ビンセント・ミネリとの間に生まれた娘である。【岡田 英美子】。…
…ワーナー・ブラザース=セブン・アーツの《キャメロット》(1967),20世紀フォックスの《ドリトル先生不思議な旅》(1967),コロムビアの《ファニー・ガール》(1968),MGMの《チップス先生さようなら》(1969),パラマウントの《ペンチャー・ワゴン》(1969)など,《サウンド・オブ・ミュージック》の成功に追随しようとした〈大作〉はいずれも失敗し,各社に損害を与えた。そして,ミュージカル映画はもはやテレビ面画に生き残るのみとさえいわれた不毛のときに,ブロードウェーの演出家で振付師のボブ・フォッシーBob Fosse(1927‐87)がジュディ・ガーランドとビンセント・ミネリの娘のライザ・ミネリLiza Minnelli(1946‐ )を起用して映画化した《キャバレー》(1972)は,まともな題材をまともに描いた70年代の作品としてミュージカル映画復活のきざしと評された。しかし,その後は,フォッシー監督の自伝的な作品《オール・ザット・ジャズ》(1979)やミロス・フォアマン監督の《ヘアー》(1979)のような話題作が生まれたものの,本来の〈夢をあたえる〉エンタテインメントとしてのミュージカル映画は確実に衰弱しつつある。…
…酒肆の営業形態は南宋時代にほぼ確立し,元・明・清時代を通じて全国各地に存在して,庶民たちの憩いの場所となった。【寺田 隆信】
[ヨーロッパ]
ヨーロッパの居酒屋を指す語は,英語ではタバーンtavern,パブリック・ハウスpublic house(パブ),フランス語ではカバレcabaretである。ヨーロッパで居酒屋がどのようにして発生したか,古代ローマとの連関はどうかといった点は明らかでない。…
…現代の笑いは社会的制裁や批評機能としてよりも心理的安全弁の役割をもち,今後ますますその性格を強めていくだろう。この点,文学キャバレー(カバレット)と呼ばれ,ヨーロッパの都市に必ず備っていた批評性の強い笑いの場が姿を消すか,あるいは単なる娯楽の場に変化したのは象徴的である。現代の道化やトリックスターは,意味と無意味の間の微妙な世界でみずから楽しみ,人を楽しませるよりも,めまぐるしい瞬間をときほぐすべき〈とめどない笑い〉を強いられている。…
※「キャバレー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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