スペインの画家。サラゴサに近い寒村フエンデトードスに鍍金師の次男として生まれ,14歳ころからサラゴサで後期バロックの画家に教育された。独力でイタリアに留学(1769-71)し,サラゴサでフレスコ画家として活躍した後,1773年に同郷の宮廷画家バイェウFrancisco Bayeu(1734-95)の妹と結婚,以後マドリードに出て,義兄の助力で王室用タピスリーのための原画(カルトン)制作にたずさわった。人生半ばで全聾となる悲劇(1793)にもめげず,念願だったアカデミー会員から宮廷画家,さらにカルロス4世の首席宮廷画家へと出世街道を驀進したが,最晩年にフランスに亡命し,ボルドーで客死した。ゴヤの82年に及ぶ波乱に満ちた人生はまた,油絵,壁画,版画,ミニアチュール,デッサンと多彩な技法を駆使し,肖像画,風俗画,宗教画,戦争画,寓意画,幻想画など広範なジャンルで,スペインの18~19世紀という危機の時代とそれを生きた人々を描ききった,偉大な証人としての生涯でもあった。
近代絵画の創始者とされるゴヤの生涯と芸術は,次の3期に分けられる。1775年から17年にわたるタピスリー原画を中心とする第1期は,着実に上昇する彼の人生と符合するように,後期ロココ様式によってかげりのない民衆風俗を明るく謳歌するものであった。《マドリードの市》や《サン・イシードロの牧場》に代表されるこの時代は,後の魔術的ともいえる技法にいたる研鑽期間であると共に,ゴヤが人間および人間的事象に対する鋭い観察眼を生得的に持っていたことを示している。ハプスブルクからブルボンへという王家の交代によってスペインに流入した啓蒙思想に共感し始めたゴヤが突き落とされた悲劇--全聾--と共に始まった第2期は,彼が〈気ままと創意〉を羽ばたかせ,自由制作の領域を開拓し,音のない世界で自己と対面しつつ,外界に対する洞察力を研ぎ澄ましていった時代である。1000枚余に及ぶ日記風のデッサンを描き始めたのも病気直後からで,それは痛烈な社会批判の版画集《ロス・カプリーチョス(気まぐれ)》となり,後の版画シリーズに続いていく。表現主義を予告するサン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ教会の天井壁画,近代的な裸婦の先駆といえる《裸のマハ》と《着衣のマハ》,ゴヤ最大のジャンルである肖像画の最高傑作《カルロス4世の家族》などを描いたのもこの時代であった。ナポレオン軍によるスペイン支配と対仏独立戦争(1808-14)に始まる第3期は,ゴヤ自身が,国民感情と思想的な親仏感,戦後の専制政治と自由主義の間で激しく揺れ動き,彼を亡命にまで追いつめた時代でもあった。しかし時代の人ゴヤのそうした苦悩は,彼の魔術的な技法によって,版画集《戦争の惨禍》や《ロス・ディスパラーテス(妄)》《1808年5月2日》や《1808年5月3日》,さらにゴヤの内面に渦巻く霧の表出であるがゆえに逆説的に普遍的な言語たりえた14枚の〈黒い絵〉シリーズなどに結晶し,その反因襲的,反合理的な表現によって近代絵画から現代絵画さえも先駆したのである。
執筆者:神吉 敬三
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1746~1828
18世紀スペインの代表的画家。ロココ風絵画の末期に属し,自然な光線の明暗をもって描いた。代表作に「カルロス4世の家族」「裸のマハ」,写実的な銅版画の連作「戦争の惨禍(さんか)」などがある。
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…そして,1810年からカディスに召集された議会(コルテス)は,12年に自由主義の原則に基づくカディス憲法を作成・制定した。なおゴヤによって描かれた《戦争の惨禍》という一連のエッチングや,《5月2日》と《5月3日》の2点の絵は,この戦争中に示されたスペイン国民の愛国主義を不朽のものとした。【フアン・ソペーニャ】。…
…しかもスペインの場合,異なった文化原理は,ほとんどの場合に支配勢力の交代によってもたらされた。したがって新しい原理への交換は強烈であり,ゴヤが代表的な例であるように予想外の創造力を誘発することもある。またスペイン美術が,この国の歴史のように断続的なリズムを刻み,他のヨーロッパ諸国に例を見ないほど政治的・イデオロギー的な制約を受ける理由もそこにある。…
…風俗版画にA.ファン・オスターデ,風景にロイスダールJacob van Ruisdael(1628か29‐82),イタリア風の風景にブレーンベルフBartholomäus Breenbergh(1599‐1659以前),ボトJan Both(1610‐52),ベルヘムNicolaes Berchem(1620‐83),デュジャルダンKarel Dujardin(1622‐78),スバネフェルトHerman van Swanevelt(1600ころ‐55ころ),海景にド・フリーヘルSimon Jacobsz.de Vlieger(1600ころ‐53),ゼーマンReynier Zeeman(1623ころ‐67ころ)ら極盛期の観を呈する。スペインでは黄金時代の画家たちも余技程度にしか制作しないが,18世紀末にゴヤがアクアティントを併用しながら4種の大連作をつくり,19,20世紀に強い影響を与えた。各種の本の挿絵としても銅版画が用いられ,それらがエングレービングの体裁をとる場合にもしばしばエッチングによって版のおおよそをつくることが多かった。…
…これによって戯画とは気ままで放縦な遊びの絵画であり,真の芸術ではないと表明した。スペインの画家ゴヤは版画集《ロス・カプリーチョス(気まぐれ)》(1799)の中で,カリカチュアとそれによらない風刺画を組み合わせているが,全体として人間の無知,それに発する迷信,偏見,種々の悪徳,誤った教育,上流階級の傲慢さなどを鋭く暴露している。さらに死後発表された版画集《戦争の惨禍》で,ゴヤは単にナポレオン軍のスペイン侵略の記録というだけでなく,政治的迫害や腐敗した政府の破局への激昂を風刺版画に吐露した。…
…他方,シャルダンは《市場帰り》(1739)などで,ロココの貴族的な風俗画に背を向け,中産階級の地味な生活感情を謳歌した。スペインではゴヤが,1770~80年代に王立タピスリー工場のために精力的に下絵(カルトン)を制作したが,《瀬戸物売り》《凧上げ》《洗濯女たち》など,主として民衆の生活や娯楽に題材を求めた。 19世紀,とくにマネ,ドガ,ルノアールを中心とする印象主義の画家たちは,日本の浮世絵版画の描写する庶民の日常的動作から新鮮な刺激をうけた(喜多川歌麿の《山姥と金時》とドガの《髪を梳く女》など)。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」