並木五瓶(読み)ナミキゴヘイ

デジタル大辞泉 「並木五瓶」の意味・読み・例文・類語

なみき‐ごへい【並木五瓶】

[1747~1808]江戸後期の歌舞伎狂言作者。初世。大坂の人。並木正三の弟子。大坂および江戸の劇壇で活躍し、幕末までの歌舞伎の隆盛をもたらした。写実的、合理的作風で知られる。代表作五大力恋緘ごだいりきこいのふうじめ」「金門五山桐きんもんごさんのきり」など。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「並木五瓶」の意味・読み・例文・類語

なみき‐ごへい【並木五瓶】

  1. 江戸後期の歌舞伎作者。初世。前名五兵衛。大坂の人。安永~寛政一七七二‐一八〇一)の大坂で活躍。寛政六年(一七九四)江戸に下って江戸劇壇に新風を吹き込み、初世桜田治助と並び称された。作品に「天満宮菜種御供」「金門五山桐」「五大力恋緘」「隅田春妓女容性」など。延享四~文化五年(一七四七‐一八〇八

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「並木五瓶」の意味・わかりやすい解説

並木五瓶 (なみきごへい)

歌舞伎作者。4世まである。初世がもっとも有名。(1)初世(1747-1808・延享4-文化5) 号は並木舎,浅草堂。大坂道修町の役木戸(やくきど)和泉屋の子。初世並木正三(一説では並木十輔)に入門し,1768年(明和5)ごろから並木五八(のち吾八,呉八)の名で浜芝居の作者を勤める。72年に大芝居に進出,77年(安永6)に五兵衛と改める。この前後,嵐雛助のために《天満宮菜種御供(てんまんぐうなたねのごくう)》《金門五山(三)桐(きんもんごさんのきり)》など傑作を書き,大坂劇壇随一の人気作者となる。以後,浅尾為十郎のために《けいせい倭荘子(やまとそうじ)》,4世市川団蔵のために《思花街容性(おもわくくるわかたぎ)》などを書き続け,上方における地位を不動のものにする。93年(寛政5)に五瓶と改め,翌94年3世沢村宗十郎の推薦で江戸に下り,3世瀬川菊之丞一座の立作者となる。この下りに際し,座頭役者に準ずる300両の下し金(契約金)をとった。翌春《江戸砂子慶曾我(えどすなごきちれいそが)》の二番目に大坂での旧作《島廻戯聞書(しまめぐりうそのききがき)》の一部《五大力恋緘(ごだいりきこいのふうじめ)》を出し大当りを取る。この当りによって翌春から,五瓶の曾我二番目の世話狂言は江戸の古式を破り別名題をたてることになり,《隅田春妓女容性(すだのはるげいしやかたぎ)》《富岡恋山開(とみがおかこいのやまびらき)》などを書く。99年に一時帰坂したが,再び江戸にもどり死ぬ。作者としての最盛期は大坂時代で,並木正三以来の伝統にのっとり,伝奇性の強いスケールの大きな構想を持つ。その一方で,演技の様式化に適応するために,型から逸脱するような冗漫な描写を嫌い,簡潔な表現を用いている。江戸に下ってからは,旧作のなかから伝奇性の強いものを除き,わずかに手を入れる程度でしかなかったが,皮肉にもそれが五瓶の筆名を高からしめる結果となった。なお江戸座の俳諧を好み《俳諧通言(はいかいつうげん)》を書いた。(2)2世(1768-1819・明和5-文政2) 篠田金治の後名。役者評判記の編者,七文舎鬼笑である。(3)3世(1789-1855・寛政1-安政2) 号は並木舎。2世の門人で篠田惣六,2世篠田金治を経て1833年(天保4)に五瓶をつぐ。《勧進帳(かんじんちよう)》に名を残す。(4)4世(1829-1901・文政12-明治34) 3世の子。本名並木善次郎。1892年に並木五柳を名のるとともに,並木五瓶と称した。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「並木五瓶」の意味・わかりやすい解説

並木五瓶
なみきごへい

歌舞伎(かぶき)作者。4世まである。

初世

(1747―1808)大坂・道修(どしょう)町で劇場関係の仕事をしていた和泉屋(いずみや)の子として生まれる。並木正三(しょうざ)に入門し、並木吾八(五八)の名で浜芝居で修業し大芝居に進出。1777年(安永6)に並木五兵衛と改名、奈河亀輔(ながわかめすけ)とともに人気作者となる。『天満宮菜種御供(てんまんぐうなたねのごくう)』『金門五三桐(きんもんごさんのきり)』『けいせい倭荘子(やまとそうじ)』『思花街客性(おもわくくるわかたぎ)』などの傑作を書く。1793年(寛政5)に五瓶と改名。翌年3世沢村宗十郎(さわむらそうじゅうろう)の推薦で300両という破格の契約金をとって江戸に下る。大坂での旧作を江戸風に脚色し喝采(かっさい)を浴び、『五大力恋緘(ごだいりきこいのふうじめ)』のほか『隅田春妓女容性(すだのはるげいしゃかたぎ)』『富岡恋山開(とみがおかこいのやまびらき)』と江戸の古式を破り、曽我(そが)二番目の世話狂言に別名題(なだい)をたてて当りをとった。一時帰坂するが江戸で没する。作者としての最盛期は大坂時代にあり、伝奇性の強いスケールの大きな枠組み贅肉(ぜいにく)を切り落とした文体が共存している点が特色。その簡潔な文体が江戸で新鮮な魅力を発揮し、江戸生まれの初世桜田治助(さくらだじすけ)と並び称された。また江戸座の俳諧師(はいかいし)として『俳諧通言(つうげん)』を残す。

古井戸秀夫]

2世

(1768―1819)江戸の旗本野々山大膳(ののやまだいぜん)の子。初世の門人。前名篠田金治(しのだきんじ)。上方(かみがた)で修業し、江戸で福森久助助筆をしたあと1818年(文政1)に襲名するが翌年没した。清元(きよもと)『保名(やすな)』の作詞がある。式亭三馬にも師事し葛葉山人(かつようさんじん)などの名で合巻(ごうかん)等も書いた。

[古井戸秀夫]

3世

(1790―1855)2世の門人2世篠田金治が1833年(天保4)に襲名。『勧進帳(かんじんちょう)』の作者として名を残す。3世の子並木五柳が4世を併称した。

[古井戸秀夫]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

朝日日本歴史人物事典 「並木五瓶」の解説

並木五瓶(初代)

没年:文化5.2.2(1808.2.27)
生年:延享4(1747)
江戸中期の歌舞伎狂言作者。別号浅草堂,並木舎。大坂道修町の役木戸和泉屋に生まれる。初代並木正三(一説には辰岡万作)に入門し,明和(1764~72)ごろ並木五八と称して大坂の浜芝居の作者を勤めた。安永1(1772)年11月,大坂角の芝居,小川吉太郎座の「日本万歳宝積山」から大芝居の作者となり,並木十輔 の下について名を吾八と改める。同3年,初代尾上菊五郎について京へ上り,早雲座の立作者となる。翌4年,初代奈河亀輔が立作者である大坂中の芝居,三枡松之丞座に出勤し,以後20年近く大坂に留まった。その間初代嵐雛助のために書いた「天満宮菜種御供」「金門五三桐」など壮大な構想の時代物で上方における地位を不動のものにした。 寛政6(1794)年,3代目沢村宗十郎と共に江戸へ下り,年給300両の高給で都座に迎えられた。翌年1月「江戸砂子慶曾我」の二番目に大坂で当たりをとった「五大力恋緘」を出し大当たりをとる。この成功によって,それまでは江戸では一日の狂言はひとつの大名題だったものが曾我の二番目は別名題を立てることになり,以後の範となった。同10年,大坂へ戻ったが翌年には再び江戸へ赴いている。文化4(1807)年11月,河原崎座の顔見世「万代不易戯場始」に名がみえるのを最後に翌年没した。時代物,世話物ともに得意としたが,上方では壮大な構想の時代物を,江戸に下ってからは写実的な世話物に優れた作品を残している。顔見世前の作者の顔寄せ,作者部屋で菜種飯を出す天神祭などの行事や,正本 の場割りを「段」ではなく「場」を用いるなど,狂言作者の仕事の上で後世に与えた影響は大きい。大坂では煙草屋や酒屋を,江戸に下っては浅草で薬屋を営んだ。江戸座の俳諧をよくし,三都の廓の諸事を解説した『俳諧通言』(1807)を著した。2代目は歌舞伎作者の初代篠田金治が継いだ。<参考文献>河竹繁俊『歌舞伎作者の研究』,『日本庶民文化史料集成』6巻

(北川博子)


並木五瓶(3代)

没年:安政2.10.14(1855.11.23)
生年:寛政1(1789)
江戸後期の歌舞伎狂言作者。別号並木舎。初代篠田金治(2代目並木五瓶)の門弟。はじめ篠田惣六と称して旅芝居の作者を勤めたが,文政2(1819)年,師の死去にともない2代目篠田金治を継いで江戸で活躍した。天保3(1832)年に3代目五瓶を襲名し,立作者格となる。同9年から5代目市川海老蔵(のちの7代目団十郎)付きの作者として活躍し,同11年の「勧進帳」は今なお上演の多い作品である。同年上方へ上り,3代目尾上菊五郎のために執筆し,この関係は江戸へ戻ってからも続いた。嘉永年間(1848~54)に上方へ上り,江戸追放になっていた海老蔵の作者になっていたが,その後江戸へ戻って没した。実子が4代目を継ぎ,歌舞伎台帳の蒐集整理に努めたことで知られている。

(北川博子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「並木五瓶」の意味・わかりやすい解説

並木五瓶
なみきごへい

[生]延享4(1747).大坂
[没]文化5(1808).2.2. 江戸
歌舞伎狂言作者。初名は五 (吾) 八。役木戸 (芝居小屋木戸番の長) 和泉屋に生れる。並木正三の門に入り,安永1 (1772) 年から上方の立作者として活躍,寛政5 (93) 年五瓶と改名。同6年江戸に下って都座の立作者となる。時代物の世界 (題材) から世話物を独立させて,それぞれ異なる題名を掲げる形式を創始したり (→名題 ) ,作者部屋の慣習を整備して作者の地位の向上に努めるなど,後世に与えた影響は大きい。作品は 100編以上あり,代表作は『天満宮菜種御供 (てんまんぐうなたねのごくう) 』『金門五三桐』 (以上大坂時代) ,『五大力恋緘 (ごだいりきこいのふうじめ) 』『隅田春妓女容性 (すだのはるげいしゃかたぎ) 』。名跡は3世まであり,3世五瓶は代表作『勧進帳』で知られる。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「並木五瓶」の解説

並木五瓶
なみきごへい

1747~1808.2.2

歌舞伎作者。大坂生れ。初世並木正三(一説に並木十輔)門下。前名五八(吾八)・五兵衛ほか。号並木舎(なみきのや)・浅草堂。安永期から大坂で名声をあげ,1794年(寛政6)以後,江戸で活躍。大坂時代は「金門五三桐(きんもんごさんのきり)」など伝奇的で壮大な構想の時代物に傑作が多く,江戸に下ってからは,「五大力恋緘(ごだいりきこいのふうじめ)」など,旧作を江戸むきに書きなおした世話物の名作を残した。緻密な構成や人物の首尾一貫した性格描写など,合理的・写実的な作風で知られる。五瓶は4世まであって2世(1768~1819)は初世の門人篠田金治が晩年に襲名。3世(1790~1855)は2世の門人で「勧進帳」の作者として著名。4世(1829~1901)は3世の子。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

百科事典マイペディア 「並木五瓶」の意味・わかりやすい解説

並木五瓶【なみきごへい】

歌舞伎狂言作者。大坂の人。並木正三門下。京・大坂で立作者として活躍。1794年江戸へ下って3世沢村宗十郎と提携,写実的な作風で世話物の傑作を書き,江戸歌舞伎隆盛の道を開いた。代表作《金門五三桐》《五大力》《隅田春妓女容性(げいしゃかたぎ)》など。
→関連項目生世話

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「並木五瓶」の解説

並木五瓶(初代) なみき-ごへい

1747-1808 江戸時代中期-後期の歌舞伎作者。
延享4年生まれ。初代並木正三の門弟。時代物,世話物を得意とし,大坂の浜芝居の作者から,安永3年京都藤川山吾座の立作者となる。寛政6年江戸都座にいき,翌年「五大力恋緘(ごだいりきこいのふうじめ)」で評判となった。文化5年2月2日死去。62歳。大坂出身。前名は並木五八(吾八,呉八),五兵衛。別号に並木舎(なみきのや),浅草堂。作品に「天満宮菜種御供(てんまんぐうなたねのごくう)」「金門五山桐」など。

並木五瓶(3代) なみき-ごへい

1789-1855 江戸時代後期の歌舞伎作者。
寛政元年生まれ。2代並木五瓶の門人で,はじめ篠田惣六と名のった。文政7年2代篠田金治をつぎ江戸で活躍。天保(てんぽう)4年3代並木五瓶を襲名,立作者格となる。3代尾上菊五郎や5代市川海老蔵(えびぞう)の作品をかいた。安政2年10月14日死去。67歳。江戸出身。通称は因幡屋(いなばや)小半次。別号に並木舎。作品に「勧進帳(かんじんちょう)」「当平家世盛」など。

並木五瓶(2代) なみき-ごへい

1768-1819 江戸時代後期の歌舞伎作者。
明和5年生まれ。旗本の家に生まれ,放蕩(ほうとう)生活をへて初代並木五瓶の弟子となり,篠田(しのだ)金治(初代)と名のる。立作者となり,文政元年2代並木五瓶を襲名。清元「保名(やすな)」を作詞し,葛葉(かつよう)山人の名で戯作(げさく)もかいた。文政2年7月7日死去。52歳。江戸出身。姓は野々山。通称は正二。別号に槿々堂,鳳凰軒,万寿亭。

並木五瓶(4代) なみき-ごへい

1829-1901 幕末-明治時代の歌舞伎作者。
文政12年生まれ。3代並木五瓶の子。安政2年父の没後,3代篠田金治を襲名。立作者(たてさくしゃ)とならなかったが,芝居台帳をあつめたことで知られる。明治25年ごろ並木五柳と改名,のち4代並木五瓶を名のる。明治34年8月1日死去。73歳。江戸出身。本名は並木善次郎。初名は篠田全治。前名は並木金治。別号に並木舎。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の並木五瓶の言及

【盟三五大切】より

…配役は薩摩源五兵衛実は不破数右衛門・家主弥助を5世松本幸四郎,船頭笹野屋三五郎を7世市川団十郎,芸者妲妃の小万を2世岩井粂三郎(のちの6世岩井半四郎)など。題材は1737年(元文2)に大坂曾根崎で起きた薩摩藩士の5人斬り事件で,初世並木五瓶が94年(寛政6)に書いた《五大力恋緘(ごだいりきこいのふうじめ)》と,これを本人が改作した《略三五大切(かきなおしてさんごたいせつ)》とを基にした書替えである。《東海道四谷怪談》の次の興行なので,その後日譚とし,同様に《忠臣蔵》に関係づけた。…

【韓人漢文手管始】より

…通称《唐人殺し》。初世並木五瓶作。1789年(寛政1)7月大坂中山福蔵座(角の芝居)で初演。…

【けいせい倭荘子】より

…6幕。初世並木五瓶作。通称《蝶の道行》。…

【五大力恋緘】より

…3幕。初世並木五瓶作。1794年(寛政6)2月大坂中山与三郎座(中の芝居)初演《島廻戯聞書(しまめぐりうそのききがき)》の三つ目以下を独立させたもの。…

【勧進帳】より

歌舞伎十八番の一つ。3世並木五瓶作,4世杵屋(きねや)六三郎作曲,4世西川扇蔵振付。1840年(天保11)3月江戸河原崎座初演。…

【一番目】より

…三番目,四番目は,後日に特に幕を継ぎ足す場合にのみ用いられた。寛政以後,並木五瓶が二番目を独立させて別の名題をつけることを始めて以来,一番目と二番目とを別々の狂言とすることも行われ,一番目を時代物,二番目を世話物というようになった。明治以後時代の変化に応じて狂言の種類が複雑になり,東京では一番目,中幕,二番目,大切(おおぎり)という,並列式の狂言立てが行われるようになった。…

【歌舞伎】より

…江戸の文化全般が,〈天明調〉からしだいに移り変わろうとしていた。これを象徴的に物語るのが,上方作者初世並木五瓶(ごへい)の江戸下りである。五瓶は生粋の上方作者で,写生的・合理的な構成,テンポのある筋の運び,人物の性格描写などに作風の特色を持っていた。…

【金門五山桐】より

…1778年(安永7)4月大坂小川吉太郎座(角の芝居)で初演。初世並木五瓶(当時五兵衛)作。1800年(寛政12)江戸で初演の際《楼門五山桐(さんもんごさんのきり)》と改題。…

【隅田春妓女容性】より

…通称《梅の由兵衛》。並木五瓶作。1796年(寛政8)1月江戸桐座初演。…

【船遊亭扇橋】より

…(2)2代(1786(天明6)‐?) 旗本野々山大膳の次男。放蕩の末,狂言作者の初世並木五瓶(ごへい)に入門して篠田金治を経て2世五瓶を襲名。落語では音曲の分野で活躍し扇蔵(せんぞう)から扇橋となった。…

【天満宮菜種御供】より

…外題脇に記す,菅原道真の〈八百七十五年忌〉に当たる1777年(安永6)4月,大坂小川吉太郎座(角の芝居)初演。並木五瓶,中邑阿契,辰岡万作ほかの作。配役は菅丞相・武部源蔵を初世尾上菊五郎,伯母覚寿・左大臣時平を初世嵐雛助,土師ノ兵衛・白太夫・法性坊・紀ノ長谷雄を初世三枡大五郎,宿禰太郎・舎人造酒王丸を小川吉太郎,松月尼・腰元十六夜・源蔵女房戸浪を初世沢村国太郎,斎世親王を沢村千鳥,判官代輝国を藤川柳蔵,蘭の中将・春藤玄蕃を三枡松五郎,三善清貫・白太夫伜荒藤太を2世三枡他人,左中弁希世を坂東岩五郎,白太夫娘小磯・紅梅姫を山科甚吉,宿禰女房小桜・長谷雄女房渚を初世三枡徳治郎,菅秀才を尾上丑之助など。…

【富岡恋山開】より

…通称《二人(ににん)新兵衛》。初世並木五瓶作。1798年(寛政10)正月,《着衣始小袖曾我(きそはじめこそでそが)》の二番目世話狂言として江戸桐座で初演。…

※「並木五瓶」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android