朝日日本歴史人物事典 「並木五瓶(初代)」の解説
並木五瓶(初代)
生年:延享4(1747)
江戸中期の歌舞伎狂言作者。別号浅草堂,並木舎。大坂道修町の役木戸和泉屋に生まれる。初代並木正三(一説には辰岡万作)に入門し,明和(1764~72)ごろ並木五八と称して大坂の浜芝居の作者を勤めた。安永1(1772)年11月,大坂角の芝居,小川吉太郎座の「日本万歳宝積山」から大芝居の作者となり,並木十輔 の下について名を吾八と改める。同3年,初代尾上菊五郎について京へ上り,早雲座の立作者となる。翌4年,初代奈河亀輔が立作者である大坂中の芝居,三枡松之丞座に出勤し,以後20年近く大坂に留まった。その間初代嵐雛助のために書いた「天満宮菜種御供」「金門五三桐」など壮大な構想の時代物で上方における地位を不動のものにした。 寛政6(1794)年,3代目沢村宗十郎と共に江戸へ下り,年給300両の高給で都座に迎えられた。翌年1月「江戸砂子慶曾我」の二番目に大坂で当たりをとった「五大力恋緘」を出し大当たりをとる。この成功によって,それまでは江戸では一日の狂言はひとつの大名題だったものが曾我の二番目は別名題を立てることになり,以後の範となった。同10年,大坂へ戻ったが翌年には再び江戸へ赴いている。文化4(1807)年11月,河原崎座の顔見世「万代不易戯場始」に名がみえるのを最後に翌年没した。時代物,世話物ともに得意としたが,上方では壮大な構想の時代物を,江戸に下ってからは写実的な世話物に優れた作品を残している。顔見世前の作者の顔寄せ,作者部屋で菜種飯を出す天神祭などの行事や,正本 の場割りを「段」ではなく「場」を用いるなど,狂言作者の仕事の上で後世に与えた影響は大きい。大坂では煙草屋や酒屋を,江戸に下っては浅草で薬屋を営んだ。江戸座の俳諧をよくし,三都の廓の諸事を解説した『俳諧通言』(1807)を著した。2代目は歌舞伎作者の初代篠田金治が継いだ。<参考文献>河竹繁俊『歌舞伎作者の研究』,『日本庶民文化史料集成』6巻
(北川博子)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報