伊藤仁斎(読み)イトウジンサイ

デジタル大辞泉 「伊藤仁斎」の意味・読み・例文・類語

いとう‐じんさい【伊藤仁斎】

[1627~1705]江戸前期の儒学者。京都の人。名は維楨これえだ古義学派の祖。初め朱子学を学ぶ。京都堀川に開いた古義堂は、門弟三千余人を有したといわれる。著「論語古義」「孟子古義」「童子問」など。古学先生

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精選版 日本国語大辞典 「伊藤仁斎」の意味・読み・例文・類語

いとう‐じんさい【伊藤仁斎】

  1. 江戸初期の儒者。名は維棹、字(あざな)は源佐。古義学派の祖。はじめ朱子学を修めたが、のち、孔孟の原典に帰ることを唱え、相愛を徳目の第一として京都堀川に古義堂を開塾し、多数の門弟を教えた。その古義学は、荻生徂徠古文辞学に影響を与える。著に「論語古義」「孟子古義」「語孟字義」「童子問」など。寛永四~宝永二年(一六二七‐一七〇五

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「伊藤仁斎」の意味・わかりやすい解説

伊藤仁斎
いとうじんさい
(1627―1705)

江戸前期の思想家。寛永(かんえい)4年7月20日、京都堀川通勘解由小路(ほりかわどおりかげゆこうじ)北に生まれる。幼名は源七、字(あざな)は源佐(げんすけ)、名は維楨(これえだ)。祖父の鶴屋(つるや)七郎右衛門は商(あきない)(何商か不明)で財をなし、里村紹巴(さとむらじょうは)・玄仲(げんちゅう)(1576/1578―1638)に連歌(れんが)を学び、妙心寺の大化(たいけ)・一冲(いっちゅう)に参禅した。父は次男で別家して鶴屋七右衛門を称した。母の那倍(なべ)の父は幕府連歌師里村玄仲、母は角倉(すみのくら)一族の医師吉田易安(よしだいあん)の娘。那倍の姉妹は宮廷出入りの医師や蒔絵(まきえ)師に嫁いでおり、仁斎自身ものちに本阿弥(ほんあみ)家と近親の尾形家から妻を迎えている。仁斎は、父方からは教養と閑暇を尊ぶ京都の富裕な町人の、母方からは京都の上流文化人の精神的影響を受けて育った。彼は家人の願いに反して医師を嫌い、儒学者を志した。青年時代には独学で朱子(しゅし)(朱熹(しゅき))の書を読み、その『敬斎箴(けいさいしん)』に傾倒して敬斎と号し、さらに1655年(明暦1。29歳)には松下町に隠棲(いんせい)して陽明学から仏老の教えに入り、白骨観法を修め、対人道徳(人倫の道)は浅薄でいうに足らぬと考えた。しかし3年後の1658年(万治1)に『仁説』を書いて、仁の本質は愛であるといい、号を仁斎と改めた。1662年(寛文2)36歳のとき家に帰って鶴屋七右衛門を襲名するとともに「古義堂」塾を開き、終生町(まち)学者となって諸侯の招きに応じなかった。宝永(ほうえい)2年3月12日79歳で没した。

 仁斎は塾における同志的会合を中心に、京都の公卿(くげ)、専門文化人、根生(ねおい)の分限者たちと文化的教養を楽しむ社交会(サロン)をつくり、その雰囲気のなかで古義学を大成していった。彼は『論語』『孟子(もうし)』2書を後人の注釈によらず直接に熟読精思して、孔子・孟子の思考方法、文章の作り方を会得したうえで、その字義を正しくとらえるとともに、孔孟の思想の真髄をつかもうとした。彼は『論語』を「最上至極宇宙第一書」、『孟子』を『論語』の義疏(ぎしょ)といい、『大学』は孔子の遺書ではない、『中庸(ちゅうよう)』の終わりの数章は漢儒の雑記、前半は『論語』の旨趣には合致すると説いた。しかし仁斎は学者よりは思想家であった。自分の「生活を脚注」として『論語』『孟子』を読み、孔孟の精神に迫ろうとする「古義学」的方法は、彼の学問に時と所と人の刻印を押すことになった。彼は、朱子学の説く社会の身分秩序を守る心(義)とその秩序の主宰者に帰向する心(敬)を退けて、社会成員が身分的相異を超えて自他不二の境地をつくる情意的な仁愛を尊んだ。仁斎にとって聖人はその愛を天下に満たす宇宙最大の文化人で、その理想郷王道楽土は政治と権力のないユートピアであった。仁斎は、封建的倫理的政治学であった儒教から元禄(げんろく)京都の社交会の体験を濾過器(ろかき)として、封建性と政治性を取り去り、かわりに人類性と社交性を与えて、儒教を社交的倫理の学につくりかえたのである。

 仁斎は朱子の理気二元論を排して気一元論を説いているが、自分はしいていえば気一元論をとるが、日常経験を超えた存在は考えないほうがよいと述べている。この態度は古医方(こいほう)に影響を与えた。後藤艮山(ごとうこんざん)、香川修庵(かがわしゅうあん)(1683―1755)が元気の溜滞(りゅうたい)に、吉益東洞(よしますとうどう)が一毒の所在に病因を求めながら、元気や毒のなんたるかは穿鑿(せんさく)に及ばぬと経験的実証の立場をとった態度に影響したと考えられる。

 なお仁斎には東涯(とうがい)、梅宇(ばいう)(1683―1745)、介亭(かいてい)(1687―1772)、蘭嵎(らんぐう)の4男子がいて家学を継承したが、仁斎自身の著書としては『語孟字義』『童子問』『大学定本』『中庸発揮』『論語古義』『孟子古義』『古学先生文集・詩集』その他があり、その多くは没後東涯によって刊行された。仁斎の墓は洛西(らくせい)の二尊院(にそんいん)にある。

[石田一良 2016年4月18日]

『加藤仁平著『伊藤仁斎の学問と教育』(1940・目黒書店/復刻版・1979・第一書房)』『石田一良著「伊藤仁斎」(『日本文化研究 第5巻』所収・1959・新潮社)』『石田一良著『伊藤仁斎』(1960/新装版・1989・吉川弘文館)』『『日本思想大系33 伊藤仁斎・伊藤東涯』(1971・岩波書店)』


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改訂新版 世界大百科事典 「伊藤仁斎」の意味・わかりやすい解説

伊藤仁斎 (いとうじんさい)
生没年:1627-1705(寛永4-宝永2)

江戸前期の儒者。古義学派の創始者。通称と本名ははじめ源吉維貞,1683年(天和3)に源佐維楨(げんすけこれえだ)と改名。仁斎は号,別号は棠隠。諡号(しごう)は古学先生。京都上京東堀川に出生。父は伊藤長勝(号は了室),母は那倍(なべ)(連歌師の里村氏)。伊藤家は京都の上層町衆で,親族,姻族には角倉了以,里村紹巴,本阿弥光悦,尾形光琳・乾山らがいる。仁斎の青年時代は儒学で生計を立てることが困難だったので,親族はみな医術を学ぶことを強いた。仁斎はこれに従わず,1642年(寛永19)ごろから独学同様で朱子学を学び,とくに超感覚的な根源的実在の認識を志す理気二元論に傾倒する。しかし仁斎は主観的直観的な思考をし,客観的認識を前提とする朱子学の思考方法と矛盾するため,54年(承応3)前後から朱子学より遠ざかっていく。55年(明暦1)病気とノイローゼで家督を次弟の七左衛門に譲って独居し,仏教や道家の説に傾斜して万物を空とし,儒教道徳の価値を認めなくなる。しかし58年(万治1)感覚できるものだけを実在とする気一元論の立場から儒教を再肯定し,仁斎と号する。翌年有志と儒教を共同研究する場として同志会を結成,62年(寛文2)には大地震と次弟の死をきっかけにして家に戻って家塾を開く。同時に生涯をかけて完成に努めた主著《三書古義》(《論語古義》《孟子古義》《中庸発揮》)を起草しはじめる。

 仁斎の家塾と学説を古義堂,古義学(仁斎学)と呼ぶのは,仁斎が朱子の注釈を排除して,直接《論語》《孟子》の本文を読解し聖人の原義を求めよと主張するためである。古義学は道徳の基準を人情におくなど元禄期町人文化を代表する側面をもつので,京都を中心に全国に広がった。現存する1681-1705年の門人帳には東北から九州に至る約900人の名がある。仁斎は細川,稲葉,鳥居など諸藩主に重んぜられたが,一生町人身分で終始した。朝廷,公家との関係は深く,立太子式には参内し,改元の定辞案も代作した。子息の東涯,梅宇,介亭,竹里,蘭嵎は古義学のすぐれた後継者になった。著書は《三書古義》のほか《大学定本》《語孟字義》《童子問》《古学先生文集》など,みな生前出版せず,死後に伊藤東涯や門人たちの訂正増補を経て刊行された。仁斎の原稿,日記,門人帳などは天理図書館古義堂文庫に収蔵。
仁斎学
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百科事典マイペディア 「伊藤仁斎」の意味・わかりやすい解説

伊藤仁斎【いとうじんさい】

江戸中期の儒学者。古義学派の創始者。名ははじめ維貞,のち維【えだ】(これえだ)。京都の上層町衆の家に生まれ,親族・姻族には角倉了以,里村紹巴本阿弥光悦尾形光琳・乾山らがいる。生涯仕官せず,市井の儒者としてすごす。はじめ朱子学を学んだが,のち離れ,1662年家塾古義堂を開く。朱子らの注釈は孔孟の〈古義〉にそむくとしてしりぞけ,直接原典《論語》《孟子》について聖人の道を求めよと主張し,日常の経験に立脚した倫理思想を説いて全国から門人を集めた。荻生徂徠の古文辞学は仁斎の古義学を批判しつつ形成されたといわれる。著書《論語古義》《大学非孔書弁》《語孟字義》《童子問》《古学先生詩文集》等。
→関連項目伊藤東涯五井蘭洲古学派私塾儒教中村【てき】斎並河天民山本春正

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「伊藤仁斎」の意味・わかりやすい解説

伊藤仁斎
いとうじんさい

[生]寛永4(1627).7.20. 京都,堀川
[没]宝永2(1705).3.12. 京都,堀川
江戸時代初期の古学派の儒学者。名は維 楨,字は源佐,号は古義堂,棠隠。商家出身。父は七右衛門。生涯出仕せず,堀川で私塾古義堂を開き,多くの門人を養成し堀川学派を開いた。初め朱子学を奉じたが,それは形而上学的思弁に支えられた静止的人生観ととらえられていた。その朱子学への批判を通して独自の思想が形成された。批判は朱子学の立脚する四書の文献批判に基礎づけられていた。『論語』『孟子』こそが正しい聖人の教えであり『大学』は孔子の遺書ではなく『中庸』は異本よりの挿入を含むものとして権威を否定した。後儒の注釈,解釈を排し,ただちに論孟の思想内容を明らかにし,それをみずからの思想とする古学の立場が,こうして成立した。朱子学のいう理気二元論は論孟にはなく,天地は一元気の活動として存在する一大活物であり,生々化々する天地の秩序が天道である。この活動性は人倫によくあてはまる。人は活物であり,人が相互に往来交渉するその関係を可能ならしめるものが人道である。人間存在は動的交渉関係のなかにあり,その人倫的合一を成立させる人道の中核が,仁,愛であり,日用常行,平常卑近の道だとされた。仁斎は商家の出身であり市井の儒者であったが,町人の道を説くのではなく普遍的な人間の道を説こうとした。にもかかわらずそこに市井人としての仁斎の生活体験が表現されている。平易卑近な道は,主従関係を中軸とする武士生活ではなく情愛のこまやかな家庭生活を中心とする庶民の生活を通して理解されたものである。このことは儒者の社会的役割の把握とも連関する。仁斎は為政者としての武士のみが道徳的教化のにない手であるとはみず,儒者の教化の政治から独立した役割を高く評価した。したがって為政者である聖人の堯,舜,禹の三聖人よりも道徳的教化者である聖人の孔子を優越させるのである。ここにも市井の儒者で一貫した仁斎の出処進退と彼の思想との連関をみることができる。著書『語孟字義』『童子問』『論語古義』『孟子古義』『中庸発揮』。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「伊藤仁斎」の解説

伊藤仁斎
いとうじんさい

1627.7.20~1705.3.12

江戸前期の儒学者。通称は七右衛門,名は維楨(これえだ),字は源佐(げんすけ),仁斎は号。京都の町人出身。角倉・里村家など上層町人と姻戚関係があった。1662年(寛文2)京都堀川の私宅に学塾古義堂を開く。程朱学を信奉したが,のち疑問をもち半生をかけて古義学として独自の儒学を構築。その特徴として,天地活物観,四端(したん)の心を忠信などの工夫で拡充し,仁義礼智の普遍道徳をなしとげること,天は人の善悪を監督して禍福を下すが,1対1の個別的対応関係があるわけではないこと,政治と道徳を区別し,道徳の立場で卜筮(ぼくぜい)鬼神を人倫界から排除しようとすることなどがある。その学派は堀川学派・古義学派とよばれる。「語孟字義」「童子問」「論語古義」「孟子古義」などの主著は,死後長男の東涯らにより刊行。荻生徂徠に「日本には過ぎたる大豪傑」と評された。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「伊藤仁斎」の解説

伊藤仁斎 いとう-じんさい

1627-1705 江戸時代前期の儒者。
寛永4年7月20日生まれ。京都の商家の出身。朱子学を批判,「論語」や「孟子」の原義にたちもどるよう主張した。寛文2年京都堀川の自宅に塾古義堂をひらき,古義学派(堀川学派)の祖となる。自由で実践的な学風で,広い階層にわたる門弟3000人をあつめた。宝永2年3月12日死去。79歳。名は維楨(これえだ)。字(あざな)は源佐,源助。通称は鶴屋七右衛門。著作に「論語古義」「孟子古義」。
【格言など】仁者は俗を嫉(にく)むの心少し

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旺文社日本史事典 三訂版 「伊藤仁斎」の解説

伊藤仁斎
いとうじんさい

1627〜1705
江戸前期の儒学者。堀川(古義)学派の祖
京都の町人出身。東涯の父。朱子学を学んだが,のち後世の注釈をさけ,直接孔子・孟子の原典にあたり聖人の真髄を学ぶべきことを主張し,京都堀川に古義堂を開いた。主著に『童子問』『論語古義』など。

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367日誕生日大事典 「伊藤仁斎」の解説

伊藤仁斎 (いとうじんさい)

生年月日:1627年7月20日
江戸時代前期;中期の京都町衆
1705年没

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世界大百科事典(旧版)内の伊藤仁斎の言及

【漢詩文】より

…この時期,儒学と無縁の立場で自由に詩を作った人に石川丈山元政(げんせい)があって,やがてきたる詩文自立の動きの先駆となっている。 元禄期(1688‐1704),京都に伊藤仁斎が出現して,朱子学の道学主義に反対する儒学説(仁斎学)を唱える。寛容な人間観に基づいて人欲を肯定するその思想においては,文学は人情の真実の表現という積極的な役割をになうにいたる。…

【語孟字義】より

…江戸前期の儒者伊藤仁斎の著書。最古稿本は1683年(天和3)5月に成立し,最終稿本は原文の成立時期が未確定であるが,仁斎の補正は死去直前まで続行された。…

【仁斎学】より

…江戸前期の儒学者伊藤仁斎(1627‐1705)が築いた思想体系。思想的目標からみて古義学,成立場所からみて堀川学ともいう。…

【中国思想】より

…もし人間性の尊重が近代思想の特徴の一つであるとすれば,これはまさに近代の萌芽を示すものといえよう。この戴震にきわめて近い主張は,日本の古学派の祖の伊藤仁斎にも見られるが,それが戴震よりも70年以上も先立っていることが注目される。しかも戴震の論がさほどの反響を呼び起こさなかったのに反し,仁斎は多くの共鳴者を得たばかりでなく,後の思想界にも大きな影響を残した。…

【童子問】より

…江戸時代前期の儒者伊藤仁斎が著した問答体の概説書。童子に説き聞かせるという形式をとっているが,仁斎学の原理論・方法論・実践論を整然と体系的に示した書物として著名である。…

【徳】より

…中江藤樹は《孝経》に注目し徳の要(かなめ)は孝にあるとした。伊藤仁斎は〈徳は仁義礼智の総名〉(《語孟字義》)とした。こうして徳は理念性を帯びることになる。…

【堀川】より

…古くから運河として利用され,丹波から桂川へと流された材木は堀川をさかのぼって五条付近まで運ばれ,中世には材木市が立ち,商人が集住した。堀川沿いには江戸時代にも材木商が多く,儒者伊藤仁斎の生家は材木商であったと伝え,堀川学派の古義堂も堀川下立売にあった。近世後期には川沿いに染色業も発達する。…

【誠】より

…こうして,誠が,人間関係における真,君臣関係における真として使われることになった。伊藤仁斎は誠を定義して〈誠は実なり。一毫の虚仮なく,一毫の偽飾なき,まさに是れ誠〉(《語孟字義》)とするが,ここで意味として託されているものは人間の交わりにおける心情の偽りのなさにほかならないのである。…

【理気説】より

…また,同時代の羅欽順(らきんじゆん)(整庵)や王廷相らは,理よりも気を世界の根源として理の実体化を批判し,清の戴震(たいしん)も理の実体化には反対し,理を事物に内在する条理だとした。日本の伊藤仁斎も,戴震より早く〈理は気中の条理のみ〉(《語孟字義》天道)と言い切っている。【三浦 国雄】。…

【論語古義】より

…10巻。伊藤仁斎(1627‐1705)の著で,その思想的立場と深く関係している。彼は《論語》を〈最上至極宇宙第一の書〉と尊重し,《孟子》をその補助として,この2書によってその古義学を構築した。…

※「伊藤仁斎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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