1980年5月、韓国南西部の
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1980年5月、当時韓国全羅南道(ぜんらなんどう/チョルラナムド)の道都であった光州(こうしゅう/クワンジュ)市で大規模な反政府蜂起(ほうき)が起こり、軍隊の武力鎮圧によって多数の死傷者を出した事件。「光州事態」ともよばれた。事件の発端は、同年5月17日、韓国軍の実力者全斗煥(ぜんとかん/チョンドファン)将軍(のちに大統領)が全土に非常戒厳令を布告して政府の実権を掌握したこと(いわゆる五・一七クーデター)にあった。韓国では79年10月、過去18年余にわたって強権政治を続けてきた朴正煕(ぼくせいき/パクチョンヒ)大統領が部下の金載圭(きんさいけい/キムジェギュ)中央情報部(KCIA)部長に暗殺され、以来、崔圭夏(さいけいか/チェギュハ)大統領代行の暫定政権のもとで政情混乱が続いていた。そうしたなか、全斗煥将軍は陸軍士官学校同期の盧泰愚(ろたいぐ/ノテウ)将軍(のちに大統領)と共謀のうえ、79年12月粛軍クーデター(いわゆる一二・一二クーデター)を通じて軍の権力を掌握した。その後は憲兵組織と情報機関を基盤に独裁を強化し、民主政治の実現を願う人々を弾圧した。光州市のデモは、非常戒厳令の解除を求める全南大学学生の5月18日の街頭デモに始まり、警官隊、軍隊との衝突が繰り返されるなかで一般市民をも巻き込んだ騒乱に発展し、5月21日には20万人の群衆が市内の各公共機関を占拠、無政府状態となった。これに対して、戒厳司令部は5月27日、約2万5000人の実戦部隊を突入させて市内を制圧した。事件の犠牲者は公式発表では官民あわせて死者191人、重軽傷者852人とされているが、死者だけで2000人を超えたとの説もある。
それ以後、全斗煥政権と1988年それを継いだ盧泰愚政権という、2代13年にわたって軍人出身の大統領が続いた。この間、参加者の名誉回復を図る動きが一部にみられたものの、「内乱」との烙印(らくいん)が押された事件について、本格的な真相究明と責任追及はなされないままであった。しかし、93年文民政権として発足した金泳三(きんえいさん/キムヨンサム)政権は、「歴史の立て直し」を課題の一つとして掲げた。これにあわせて事件に対する評価も大きく変わっていき、全斗煥・盧泰愚の大統領経験者を含めた軍部関係者の責任を追及する世論が高まった。事件の被害者や犠牲者の遺族による関係者に対する告訴・告発(内乱罪・内乱殺人罪)は、95年7月「成功したクーデターは司法判断の対象とならない」として、検察当局により、いったん棄却された。しかし、世論に押された国会は、同年12月軍部関係者の時効を停止して処罰するための特別立法を行った。それに基づき、粛軍クーデターから光州事件までの一連の事件の責任に関して、全元大統領と盧前大統領が、軍反乱・内乱首謀罪、軍反乱・内乱主要任務従事罪などの容疑で逮捕・起訴された。これと前後して、両者は、政権担当中の巨額の秘密資金づくりをめぐる収賄罪でも起訴され、韓国史上初めて、「大統領の犯罪」が法廷で審理された。96年8月ソウル地裁は全斗煥被告に死刑、盧泰愚被告に懲役22年6月の判決を言い渡した。同年12月控訴審は、それぞれ無期懲役と懲役17年の判決を言い渡し、翌97年4月の大法院(最高裁)判決で、これが確定した。さらに、97年には事件初日の5月17日が、民主化運動を記念する国家記念日に指定され、政府主催の初の記念行事が行われた。「内乱」から「義挙」へと「歴史の立て直し」事業の一つが達成されることとなったのである。それとともに、事件に対する呼び方も近年韓国では「光州民衆抗争」や「光州民主化運動」という名称が用いられるようになってきている。
[川越敬三・並木真人]
『全南社会運動協議会編(光州事件調査委員会訳)『全記録光州蜂起―虐殺と民衆抗争の10日間』(1985・拓植書房)』
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韓国の全羅南道光州市で発生した民衆蜂起を軍隊が鎮圧した事件。朴正熙(パク・チョンヒ)暗殺事件後の政治的混乱を収拾するために,全斗煥(チョン・ドゥホアン)少将を中心とする新軍部は,1980年5月,戒厳令を全土に拡大し,クーデタ的に政権を奪取した。金大中(キム・デジュン)逮捕の報(しら)せに接した光州市では,5月18日,大規模な学生デモが発生し,群集を巻き込んで軍隊と衝突した。デモ隊は警察署,放送局,新聞社などを占拠し,武器庫を襲撃して市街戦に備えたが,5月27日未明に突入した軍隊に制圧された。この間の犠牲者は193名(当初発表は189名)。
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…しかし工業部門では,造成された光州工業団地も,従業員2500人規模の亜細亜自動車一社でその敷地の大半を占めてしまう程度のものであった。全羅道出身の野党大統領候補金大中を含む多数の国会議員が逮捕された軍事クーデタを契機として,1980年5月におきた光州事件(5月18~27日,公式発表で死者174名を出した反政府デモ)の底には,産業開発上のこのような冷遇に対する市民の不満があったとされている。80年代以降,韓国内で相対的に低い賃金を求めて電子工業など多数の企業が進出し,工業地帯が拡大した。…
…独立後の農地改革によって小作農民の大部分は自作農となったが,朝鮮戦争の勃発に伴い,高率の農地税をとられたし,1960年代の工業化においては本道にはほとんど工業投資がなされず,依然として後進地域にとどまった。1980年5月の光州事件の背景には,このような全羅道の政治的・経済的疎外感があったとされている。
[地域と産業]
韓国第一の米作地帯であるが,養豚などの畜産業も行われている。…
…維新体制に対する民衆の批判を高度経済成長の実現によってかわしながら長期政権を維持した朴正熙は,79年の第2次石油危機を契機とする不況と,それを背景とした労働運動の高揚,野党=新民党(総裁,金泳三)の急進化,釜山・馬山の民衆暴動等の一連の政治的危機の深まりのなかで,10月26日に腹心の部下である金載圭中央情報部長に射殺され,衝撃的な最期を遂げた。 以後80年前半にかけて民主化運動は急激に発展,次の政権をねらう野党系の金大中,金泳三(1927‐ )と朴政権直系の金鍾泌(1926‐ )が民主化で歩調を合わせ,〈三金時代〉と呼ばれる韓国政治の新時代が始まるかにみえたが,急速な政治変革を恐れた軍部は,80年5月17日の非常戒厳令の全国化によって実権を掌握し,抵抗する光州の学生・市民多数の虐殺(光州事件,85年の政府報告では死者192人)を通して,再び軍人中心の全斗煥(1931‐ )政権(第5共和国)を成立させた。全政権は88年ソウル・オリンピック開催などで韓国の国際的評価の向上に努めたが,強権的政治体制と民主化運動という対抗基軸が,依然として韓国の政治を規定する基本的要因であることに変りはなかった。…
※「光州事件」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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