デジタル大辞泉 「内閣」の意味・読み・例文・類語
ない‐かく【内閣】
2 中国、明・清代の国政の最高機関。明初、中書省を廃止したのち、宰相の職として明の永楽帝が殿閣大学士(のち内閣大学士と改称)を置き、内閣と称したのに始まる。清代に軍機処が設置されたのち、しだいに実権を失った。
[類語]政府・行政府・政庁・政権・台閣・官府・官庁・
国の行政権を担当する最高の合議機関。政治的に普通、政府と称される。内閣ということばは、英語のcabinetの訳語であるが、その語源は、中国の明(みん)・清(しん)時代の宰相の官署をさしたものである。内閣についてもっとも古い歴史を有するイギリスでは、チャールズ2世の時代(17世紀後半)に議会にも影響力を有する5人の寵臣(ちょうしん)貴族を選んで重要な国務や議会対策を委任したが、この5人が隠密裏に宮廷の奥深い小部屋cabinetで会合し、協議を行ったところから、そこで会議を行う人々の集まり(内閣)をcabinetとよぶようになったといわれている。今日、行政権を担当する国家機関として内閣を設ける国は多いが、その権能・組織はそれぞれの国の歴史的・政治的背景の違いに応じて多様である。
[小松 進]
議院内閣制の母国ともよばれるイギリスは、内閣についても長い歴史をもっている。その起源は11~12世紀のノルマン王朝の時代にまでさかのぼることができるといわれるが、初期の内閣は国王の諮問機関として国政上の政策決定・執行について助言・補佐するものであった。やがて議会政治が発達するにつれて、内閣は王権の補佐機関から議会の統制の下に国の行政権を担当する機関へと変容する。1688年の名誉革命により内閣は議会の多数党の支持を得なければならなくなり、国王は議会の議員を大臣に任命するようになった。その後、国王に対して責任をとっていた大臣が連帯して議会に対し責任を負うようになり、1783年に成立した小ピット内閣のとき、下院の不信任決議に対し解散権を行使し、イギリスの内閣は議院内閣制の道をたどるのである。1832年の選挙法改正後内閣に対する議会の統制力が増大し、「内閣は議会の一委員会のごとき存在である」(バジョット)と評されることになるが、19世紀後半からの選挙法改正により政党政治が発達したこと、また福祉国家体制における内閣の役割が増大したことによって、内閣の議会に対する優位の傾向が顕著となった。内閣は選挙において多数を占めた政党の党首が総理大臣となり、その政党所属の下院議員を中心に組閣される。したがって、議会における政党的基盤を背景に、法律案の提出、議事日程の決定、財政その他の施策の立案など議会の主要な活動すべてにおいて、内閣は指導的役割を演ずるのである。さらに、両大戦を通じて戦争遂行のため、政治的決断力・行動力を備えた指導者が望まれ、チャーチルに代表されるような国民的支持を受けた首相が現れたこともあって、今日では、内閣における総理大臣の地位が著しく強化された。そこで、イギリスの政治は内閣政治から内閣総理大臣政治に移ったとさえいわれるようになっている。イギリスの内閣は、首相を中心に20名前後の大臣により構成されるが、そのほかに閣議に加わらない閣外大臣が30~40名ぐらい任命されている。
[小松 進]
フランスは伝統的に議院制の国、執行府の権力の弱い国として知られてきた。第三共和政では約100の内閣が成立したが、その半数近くは半年以下の寿命であり、第四共和政では18の内閣が誕生したが、平均寿命は約8か月であったといわれる。内閣の弱体と不安定の原因としては、行政府による議会解散権の行使が困難であったこと、小党分立のため内閣の政党的基礎がきわめて脆弱(ぜいじゃく)であったことなどがあげられている。
現在の第五共和政憲法(ドゴール憲法)の最大の特色は、政治制度の中心的機構、その推進力を大統領とした点にある。大統領は、首相を自由に任命することができ、議会を解散する権能を有し、例外事態権として国家的危機に際して、一定期間「準絶対権」をもつなど憲法上強大な権能を付与されている。内閣はこの大統領の権威のもとに成立し、国政を決定し処理にあたる機関である。つまり、大統領が統治権力をもち、首相が狭義の執行権を保持しているといえる。首相および閣僚は国会議員との兼職を禁止されているが、両議院に出席して発言し、国会に対して責任を負う。フランスの現行内閣制はイギリスのそれとも第四共和政までのそれとも異なった「議院内閣制と大統領制との奇妙な混合」(ヒッチナー、ハーボード)といわれる独特の体制である。
[小松 進]
権力分立の原理を基礎とするアメリカの政治制度では、大統領制が採用され、これに行政権がゆだねられている。アメリカにも内閣cabinetといわれるものが存在するが、それは議院内閣制の国における首相を中心とした合議体としての内閣と異なり、大統領が自由に任免する12名の各省長官によって構成され、大統領が主宰する会議体を意味する。これは憲法に規定のない慣行上の制度であり、閣員はなんら法的地位も権限ももたない。また各閣員が大統領に対して責任を負うが、合議体として連帯責任を負うものではない。アメリカの内閣は、いわば大統領に助言する機関であり、議院内閣制をとる国の内閣に相当する機関は、アメリカにおいては大統領である。
[小松 進]
日本に内閣制度が導入されたのは1885年(明治18)である。それまでの太政官(だじょうかん)制がようやく近代国家として発展してきた日本の国政運営に適合しないと考えられ、また、4年後の国会開設後の中央行政組織の整備のため、ヨーロッパ先進国、とくにプロイセンを範として構想されたものである。初期の内閣は、天皇の内閣として議会・政党に対し超然たるべしとの「超然主義」を基本とした。しかし、法律・予算についての「協賛」権を武器にしだいに力を伸ばしてきた議会から政府はいつまでも超然としていることはできず、日清(にっしん)戦争を境に議会の有力政党への譲歩・連携の方針にかわった。大正時代に入り、2回の護憲運動(イギリス型の内閣制を「憲政の常道」として追求し、議会における政党の発言権を強化しようとするもの)があり、原敬(たかし)内閣以後政党内閣が続き、いわゆる大正デモクラシーにおける政党政治が行われることになる。しかし、議会主義がともかくも憲政の常道として行われたのは昭和初期までであり、1929年(昭和4)に始まる世界恐慌、31年の満州事変を契機に日本は全体主義・軍国主義の支配する戦時体制に向かい、政党政治は終わりを告げることになった。やがて、内閣は軍部や親軍部の官僚・政治家によって占められ、軍部が直接政治を支配することとなった。こうした状態は1945年の第二次世界大戦の終戦まで続いた。そして日本の内閣制度は、日本国憲法の制定により、明治憲法でのそれとは根本的に異なったものに変わるのである。
[小松 進]
日本国憲法のもとにおける内閣制度は、明治憲法でのそれと異なり、次のような特色をもっている。その第一は、行政権を担当する最高の合議体として、国会、裁判所と並ぶ憲法上の機関となったこと、第二は、国会との関係において、超然的性格を捨て、議院内閣制をとったこと、第三は、内閣総理大臣に首長的地位を与えたこと、があげられる(憲法5章65条~75条)。
[池田政章]
内閣は、天皇の補佐機関として天皇の「国事に関する行為」に助言と承認を与える点では、明治憲法的な性格が残されてはいるが、大きな特色として、かつて天皇の「大権」に属していた広範な事項を自らの所管とし、天皇とはまったく独立に、行政上の職務を行うこととなった。すなわち憲法第73条には、(1)法律の執行と国務の総理、(2)外交関係の処理、(3)条約の締結、(4)予算の作成とその国会への提出、(5)官吏に関する事務の掌理、(6)政令の制定、(7)恩赦の決定、など一般行政事務を行うことが規定された。「行政権は、内閣に属する」という憲法第65条の規定は、内閣が行政権の最高機関であり、自ら以上の一般行政事務を行うほか、行政各部を指揮・監督することを意味する。
しかし、すべての行政権の独占を意味するわけではなく、行政権に属するとみるべき国家作用でも、その本質上、国会による統制になじまないと思われるものについては、その職務を行う行政機関は内閣から独立している。いわゆる行政委員会とよばれるもので、人事行政に関与する人事院、専門技術的知識が要求される公正取引委員会、対立する利害の調整を必要とする中央労働委員会など各種の例があげられる。しかし、これらを例外として、内閣は、明治憲法下の天皇の大権に属した広範な行政権を手中に収めることになって、実際には強大な権力をもつことになった。
憲法の原則のうえでは、内閣は、国会の優越的地位のもとに置かれてはいるが、議院内閣制をとること(憲法66条~69条)によって、衆議院での多数党と手を握り、巨大な官僚機構を指導する立場にたつことになって、国政全般に関する実質上の中枢機関としての地位と権能が与えられた。しかし、実際には膨大な情報を有する官僚機構の支えがなければ政策立案がままならぬため、お互いにもちつもたれつの関係があり、ときに官僚主導と評されることがある。
[池田政章]
内閣は、その首長である内閣総理大臣、およびその他の国務大臣(行政大臣)と、国務大臣の定数以内のもの(無任所大臣)により組織される(憲法66条1項、内閣法2条)。またその過半数は国会議員でなければならない(憲法67条1項・68条1項)。これまで文部大臣や法務大臣などが議員以外から選ばれた例があるが、この規定は議院内閣制の趣旨を徹底させ、超然・官僚内閣の弊を防止するところにねらいがあるので、憲法はむしろ全員が国会議員であることを期待していると解されている。さらにそれらは文民でなければならない(憲法66条2項)と明示している。
[池田政章]
内閣は職務を行う場合、全国務大臣の会議である閣議による。閣議は必要に応じて内閣総理大臣が招集し、これを主宰し、各大臣は、案件を提出して閣議を求めることができる(内閣法4条)。閣議の議事については従来の慣習によるとされているが、重要な点として、その内容が秘密とされていること、議事が全会一致で決せられることである。閣議の秘密を守ることは、それに列席する各大臣の重大な義務で、大臣をやめてもその秘密は守らなければならないとされている。また、公の合議体における議事は過半数の賛成で決するのを通例としているが、閣議についてはとくに全会一致で決すべきものとされているのは、内閣が連帯して国会に責任を負い、統一的な行動をとる必要があるためである。ところで、全会一致主義は通常、少数者の発言に過当な重さを与え、閣内の統合力が弱くなるおそれがある。そこで憲法は、内閣総理大臣に国務大臣の罷免権を与え、この弊害を防ぐことにしている。
閣議には、毎週の定日に開かれる定例閣議と必要に応じて招集される臨時閣議とがあり、各大臣が現実に集会してなされるのが原則であるが、便法として書類回付による「持回り閣議」も認められている。
[池田政章]
明治憲法時代の超然内閣は、現行憲法において根本的な変革が加えられ、議院内閣制になった。すなわち、国会が内閣総理大臣を指名し(憲法67条)、内閣は国会に対して連帯責任を負う(憲法66条3項)。内閣の存立が衆議院の信任にかけられ、内閣が衆議院の解散権をもつこと(憲法69条)が、それを具体的に示す。議院内閣制の採用は、内閣を国会の統制のもとに置き、したがって立法と行政の両権を国民の監視のもとに置く、という民主的要請によるものである。
いずれにしても行政権は合議体としての内閣に統轄され、その権限行使の責任は、総理大臣および国務大臣が単独に負うものではなく、内閣が一体として国会に対して負うものとされた。この責任は法律的責任ではなく、政治的責任であると考えられるので、それゆえ内閣の責任を民主的に果たさせるためには、国会ひいては国民の健全な政治的見識に基づく評価、反応が必要であると考えられる。
[池田政章]
内閣はいつでも総辞職することができるが、他方、かならず総辞職しなければならない場合として、(1)衆議院で内閣不信任案が可決され、または内閣信任案が否決された場合(憲法69条)、(2)衆議院議員総選挙後に新国会が召集された場合(70条)、(3)内閣総理大臣が欠けたとき(70条)の3項目が定められている。総理大臣の辞職は、内閣の一体性の要求から、つねに内閣の辞職を伴うが、普通これを政変とよんでいる。内閣総理大臣に罷免はない。内閣が総辞職したときは、国会は他のすべての案件に先だって総理大臣の指名を行い(憲法67条1項)、新しい総理大臣の任命までは、従来の内閣が引き続いてその職務を行う(71条)ことが規定されている。
[池田政章]
『山崎丹照著『内閣論』(1953・学陽書房)』
中国、明(みん)・清(しん)代の政治機関。中央行政政府の最高責任者の大臣を、中国では古来、宰相と称し、正式の官名は時代によって異なり、丞相(じょうしょう)、司徒、相国、同平章事などとよばれた。内閣という行政府の成立は明初(1424ころ)に始まり、複数の内閣大学士が宰相の役を務めた。清はこの制度を受け継ぎ、内閣を宰相の府としたが、もと満州より興って漢人を征服したので、中央政府の大官には満人・漢人を同数ずつ任命する原則をたて、内閣大学士は満漢各2名、ほかに副宰相として満漢各1名を置いた。そのおもな職務は擬旨であって、天子の旨、すなわち意志を表明する詔勅の草案を起稿することにあった。しかし、内閣は機構複雑で政務が停滞遅延する傾向があったため、雍正(ようせい)帝(在位1722~35)のときから内閣を有名無実とし、かわって軍機処(ぐんきしょ)の大臣が真の宰相となった。1911年軍機処を廃して創立された新制内閣は、単に名称の変更にすぎず、総理大臣が皇族であり、各部大臣も旧人物で固めたので親貴内閣と非難された。同年、革命運動のさなかに袁世凱(えんせいがい)が総理大臣となり、初めて責任内閣の形をとった。翌年、中華民国が成立すると、内閣総理大臣は国務総理、各部大臣は各部総長と改称された。
[宮崎市定]
首長である内閣総理大臣(首相)および他の国務大臣からなる合議体。規模は国や時期によって一定しないが,現代では20名前後が普通であり,日本の内閣法(1947公布)は定員を21名と定めている。日本やイギリスなど議院内閣制の国では国家行政の最高機関である。その会議を閣議,構成員を閣僚,首相が閣僚を選任し内閣を組織することを組閣という。衆議院や下院の議席の過半数を占める政党の党首が首相となるのが現代政党内閣制の通則であり,過半数政党のない場合等には,政策協定を基礎に2党以上から閣僚が出て連立内閣が形成されるか,閣僚は出さずに政策協定等を基に内閣に協力する閣外協力が行われる。二大政党制が長く続いたイギリスでは,議会討論や政権交替に備え,野党も実質上の閣僚構成を示す慣行があり,〈影の内閣shadow cabinet〉と呼ばれる。閣議構成員としての閣僚は首相の下で国政全般について平等な発言権を持つが,閣僚個人の政治力量や所管省庁の重要性が閣僚間に事実上の序列を生む。これが俗に閣内序列と呼ばれ,少数の有力閣僚がインナー・キャビネットとみなされることもある。
〈内閣〉という語は中国に起源をもつが,ヨーロッパ型のキャビネットの訳語として日本に定着するのは明治10年代以降である。江戸期にもロシアのミニステル(大臣)が〈内閣〉と訳され,将軍側近の〈御側頭〉と同視された例があるが,議院内閣制の母国イギリスに幕末期にいち早く注目した福沢諭吉は,キャビネットを〈王室〉と訳し,〈政府の号令は国王より出るに非らず王室より出るものとみなせり〉と説明した。これは〈君臨すれど統治せず〉を基調とするイギリス国王と政府=内閣との関係を最も早期に紹介したものであり,後年民権派が明治政府によるプロイセン型〈帝室内閣〉構想に対抗して議院内閣制導入を提唱するに至る出発点ともなった。
イギリスの議院内閣制は,日本のみならず19世紀以降の世界に大きな影響を及ぼしたが,その成立は,明治憲法の推進者たちも指摘したように,長期にわたる試行錯誤と同国に顕著な歴史事情に負う面が強い。その起源は身分的特権層からなる国王の諮問機関,枢密院Privy Councilにさかのぼる。17世紀に入り,同院の膨張や政治的拘束を克服するため,その中の一部寵臣,有力大臣のみを国王がみずからの奥の間cabinetの秘密会議に招く傾向が強まり,それが奥の間会議cabinet councilと通称された。門閥勢力や伝統に縛られやすい表(おもて)の国事制度とは別に,能動的統治者としての君主を支えるための奥または内の事実上の制度として発生した点で中国との共通性がある。しかし議会や地主名望家の勢力が強く,法による支配の伝統が強固なイギリスでは,内閣を国王の恣意と専制の道具とみる傾向が当初は濃厚で,予算承認権を持つ下院を中心に,議会は国王に対抗して内閣の構成や政策を統制すべく努めた。迅速かつ組織的な国家運営や強力な議会協調がとりわけ重要となる戦時にはこの動きに拍車がかかり,下院の多数の支持を動員できる有力政治家を主要省庁の長とし,それによって構成される内閣に国政運営をゆだねる傾向が定着していく。この過程で宮廷官が内閣から去り,内閣が宮廷と完全に分離されるとともに,内閣が政府そのものとなる。
他方で18世紀の国王や親政府的上院貴族は,官職,役得配分権を基礎に下院の選挙や動向に強い影響力を持っていたため,議会多数派が内閣を生むというより,国王の信任する内閣が議会多数派を形成する傾向が根強かった。このため内閣連帯責任制や首相職の発達も不十分で,明治期の〈帝室内閣〉と似た面もあった。
18世紀末以降行政機構や選挙制度の改革が進むにつれ,国王や貴族の議会操縦能力は低下し,下院多数派の動向が内閣存続を直接決める〈議院内閣制〉に移行する。予算と官職配分の中心に立つ大蔵第一卿が首相になり,その下で内閣が一体となって議会に責任を負う慣行も確立される。19世紀にはイギリスが世界の覇権を掌握していたことや,W.バジョットがイギリス政治の特徴は,議会と行政部との相互牽制というより,両者を結ぶ帯留としての内閣にあると強調したこともあって,議院内閣制は広く世界に影響を与えた。その後,選挙権の大衆化や大衆組織政党の浸透,国家行政の拡大を背景に,議会内部での離合集散ではなく,選挙によって多数となった政党の党首が自動的に首相となり,与党下院議員を中心に組閣を行い,選挙時の公約を基礎に国政運営にあたる傾向が強まる。この政党内閣制の確立によって内閣の安定性と一体性が強まり,18世紀型の〈統治のための内閣〉から〈立法推進の内閣〉への転換が完成する。
20世紀に入っても同国の内閣制は,両世界大戦期の挙国一致型少数閣僚内閣に代表されるように,柔軟な適応力と強い指導性とを発揮してきた。他方で高度に組織された行政および政党官僚機構を背後に持つ内閣に対し議会の統制力が弱まったこと,また閣内では増大する閣議事項や所管省庁事務の膨張に追われがちな閣僚個々の事情に対応して,各種閣内委員会(閣僚会議)への決定権の分散が進められたりしたことなどから,合議決定体としての内閣の実質は,一方では首相および少数のインナー・キャビネットへ,他方では行政官僚制へと移る傾向が著しい。
日本の法令に〈内閣〉が登場する早い例は1873年の太政官達にあり,〈内閣ハ天皇陛下参議ニ特任シテ諸立法ノ事及行政事務ノ当否ヲ議判セシメ凡百施政ノ機軸〉となるものとされた。この〈太政官内閣制〉では天皇の輔弼(ほひつ)に任ずる太政大臣,左右大臣等は公家・旧藩主に限られ,参議は直接の輔弼責任を負わない。しかし実権は倒幕の主体となった薩長系中・下級士族出身の参議層にあり,天皇もヨーロッパの専制君主とは性格を異にしていた。このため太政官内閣は当初から宮中的性格が薄かった半面,その後一貫して日本の内閣を悩ませる求心的統合力の不足に苦しんだ。これに対し内閣宮中化の動きも一部に生じ,とくに参議による卿=各省長官兼務問題は政争と連動して体制動揺を増幅した。
国会開設を5年後に控えた1885年,太政官制が廃止され,首班である内閣総理大臣と各省長官を兼ねる9名の国務大臣からなる本格的な内閣制が発足する。公家・旧藩主はまったく排除され,旧参議たる藩閥政治家が天皇を直接輔弼する大臣となって名実ともに政府の頂点を占めた。内閣制の発足は,身分制の清算や近代的立憲政治の導入のうえで大きな前進であり,同年の〈内閣職権〉によって〈大政ノ方向ヲ指示シ行政各部ヲ統督〉すると定められた首相を中心に政府の統合強化が図られた。他面で陸海軍統帥権が帷幄(いあく)上奏として内閣外部に残されたことや,〈天皇親臨して重要国務を諮詢〉する枢密院が別途創設されたことは,89年の〈内閣官制〉により首相権限が縮小され,国務大臣平等輔弼主義が定着したことと並んで,内閣を内外から制約する潜在要因となる。国会開設後の内閣運営も,イギリスよりはプロイセンを範とし,天皇の内閣は議会・政党に対し超然たるべしとの〈超然主義〉〈帝室内閣〉論が政府を支配した。このため天皇の意向を考慮しつつ,薩長閥の均衡と交替を基調に組閣や内閣運営を行う体制が続いた。しかし明治末期に入り,藩閥の結束や力量の低下とは対照的に,政党が国政の有力な担い手となった。第1次大隈重信内閣を経て,原敬内閣以降政党内閣が定着しはじめ,大正後半には有力政党間の政権交替が〈憲政の常道〉として強調された。この点でイギリスと似た過程を比較的短期間に成し遂げたといえる。
しかし後継首相の〈奏薦〉を軸に元老・重臣が演出してきた〈憲政の常道〉は,1929年の世界恐慌に始まる政治の激動により32年に崩壊し,それに代わる政党内閣の実質が十分定着する余裕のないまま戦時体制が訪れる。軍部や官僚の疑似政党化と,既成政党への反感によって助長された政党の弱体化の結果,内閣は軍部や官僚機構の縄張競合と派閥抗争にたえまなく揺さぶられた。戦時の軍部主導の強権的内閣運営や東条英機内閣による首相権限の強化も,これを克服できなかった。内閣の国政指導力の弱さは,太平洋戦争の終結決定が内閣ではなく,御前会議における天皇の〈聖断〉によってはじめて可能になった点に端的に現れている。
第2次世界大戦後の日本国憲法は明治憲法とは対照的に内閣や首相の権能に関し明確で詳細な規定を置き,天皇に替わって国権の最高機関となった議会に対する連帯責任原則を明示した。国家の行政権の内閣一元化や行政各部に対する首相の指揮監督権強化は,〈内閣官制内閣〉にみられた制度上の制約を一掃した。これは昭和初期に中断した〈憲政の常道〉を再生させ,イギリス型議院内閣制へと完成させたものといえる。しかし各省庁の縄張意識や政党内の派閥意識の強さ,閣議前日の事務次官会議が閣議を事実上拘束する慣行等は,合議的決定体としての内閣の実質と指導性にイギリス以上の疑問を生ぜしめている。
日本やイギリスとは異なり,共和制国家では内閣と大統領や議会との関係は多様で,複雑になりやすい。アメリカの場合キャビネットという語は1793年に公式に登場し,大統領が政府主要省長官と定例的会議を行うことも初代大統領ワシントン時代からみられる。しかし執行権は大統領に専属し,内閣はあくまで大統領個人の非公式な諮問会議にとどまる。閣僚は議員たりえず,責任も議会に対してではなく,任免権者たる大統領に対する個別責任である。首相は存在せず,閣僚の連帯意識も弱い。リンカン大統領が全閣僚の反対に直面し,〈賛成1,反対7。よって可決〉と押し切ったという逸話は,今なおこの国の内閣の基調を示している。
フランスやドイツでは大統領制と議院内閣制の折衷がみられる。フランスの場合,内閣と議会・大統領との関係には過去いくたの変遷があった。現行の第五共和政では国民の直接投票で選ばれる大統領の権能が強まり,大統領主宰の〈大臣会議Conseil des Ministres〉が首相主宰の〈内閣会議Conseil de Cabinet〉に優位する傾向が強い。首相以下の閣僚,政府員は下院議員であることはできないが,内閣は議会による不信任の対象となりうる。これとは独立に大統領は首相の任免権を持ち,本来は首相に属する閣僚任免権すら大統領に侵食される傾向がある。ドイツのワイマール時代にも大統領と宰相Reichskanzlerとの関係は複雑で,政府弱体化やナチス台頭の遠因となった。第2次世界大戦後の西ドイツ基本法(いわゆるボン憲法)とその運用は,大統領を事実上イギリス国王同様の地位に置き,連邦首相Bundeskanzlerと閣僚からなる内閣,正式には政府Regierungが名実ともに国家行政の中心である。フランスがアメリカ型の大統領内閣制に接近してきたのに対し,西ドイツは共和制の枠内でイギリス型議院内閣制に収斂してきたといえる。
1977年ソ連憲法は大臣(閣僚)会議を正式に政府と呼び,形式上議会に似た地位を占めるソ連最高会議によって組織され,同会議(休会中は同会議幹部会)に責任を負う国家の最高の執行処分機関とする。この点で大臣会議(または同幹部会)が内閣に,同議長が首相に相当する。しかし大臣会議が100名近くに達し,議長・副議長等比較的少数の大臣で構成される大臣会議幹部会の権能も不明瞭なこと,最高会議幹部会議長が国家元首とされ強い政治指導力を発揮しうること,民主集中制により条約締結や最高会議召集等議院内閣制下では通例内閣に属する重大な諸権能が最高会議・同幹部会に留保されていること等,最高会議・同幹部会の公式上の優越が顕著である(1988年の憲法改正で,従来の最高会議に代わり人民代議員大会が最高国家権力機関として創設された。また90年より大統領制を導入した)。
1982年中国憲法も,国務院,とくに同総理,副総理,国務委員,秘書長からなる国務院常務会議に,内閣類似の地位を与え,ソ連の最高会議,同幹部会と大臣会議との関係にほぼ相当する規定を,全国人民代表大会(全人代),同常務委員会との関係について置いている。もっともソ連,中国等の社会主義国では,自由な選挙に基づく複数政党間の公開された競合という歯止めがないため,最高会議や全国人民代表大会の儀式化が体制原則をなし,それらに対する内閣の憲法上の責任は,事実上,党官僚機構への従属となりがちである。ソ連の場合,党の政治局や書記局が現実には内閣に似た役割を果たす傾向(党の国家化)が強く,そのため公式には国家官職につかず,党書記長にすぎなかった時期のブレジネフが,閣議(大臣会議)に出席して主導性を発揮したり,米・ソ2国間協定に国家元首,首相をさしおいて署名したりする事態も生じた。
→議院内閣制 →議会
執筆者:水谷 三公
中国,明・清時代の政治機関。明の太祖は中書省を廃して政務を親裁し,輔佐機関として殿閣大学士を設けたが,永楽帝は翰林院より数人を選んで宮中の文淵閣に入れ機務に参与させた(1402)。これが中国の内閣制度の起源で,その後,閣臣に殿閣大学士の官が加えられてから内閣大学士の称が起こった。その職掌のうち最も重要なことは,諸臣の上奏文に対して天子が書き入れる批答すなわち決裁の原案を作成することで,これを票擬という。つまり閣臣は政策の決定にあずかるもので事実上の宰相である。もっとも明代には天子の裁決権を宦官(かんがん)に委任する場合があり,宦官の権勢が内閣をしのぐことがあった。清は明制を襲ったが,雍正帝が軍機処を設けると(1729),内閣の権限はこれに移った。清末,宣統帝のとき旧制の内閣,軍機処を廃し,日本にならって責任内閣制をしいたが,民国の北京政府は内閣の名を廃し,大総統下の責任内閣を国務院と称した。
執筆者:谷 光隆
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
近代における国家の最高行政機関。1873年(明治6)の太政官職制で国政の中枢となる参議の合議体を内閣と呼称。85年12月,行政府の強化・能率化をめざして太政官制を廃止し内閣制度を確立した。外務・内務・大蔵・陸軍・海軍・司法・文部・農商務・逓信の諸省の長官である各国務大臣とそれを統轄する内閣総理大臣により内閣を構成。初代の伊藤内閣の成立と同時に,内閣職権で総理大臣の統制権を規定した。89年の大日本帝国憲法では各大臣の天皇への輔弼(ほひつ)責任が明文化されたが,議会への責任は不明確であった。同年内閣官制が制定され,法律案・予算決算案・条約案など重要案件はかならず閣議をへることが定められた。議会開設当初は藩閥政治家が「超然内閣」を組織し,98年の憲政党の大隈内閣が最初の政党内閣である。第1次大戦後,1920年代には政党内閣が「憲政の常道」となったが,32年(昭和7)以後政党内閣は没落し,軍部が影響力を強めた。第2次大戦後の47年5月,日本国憲法と内閣法の施行の結果,国家の最高行政機関としての内閣の地位が明確になり,議院内閣制が採用され,国会に対する内閣の連帯責任制も明らかにされた。以後,政党内閣が続いている。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
… 同国の政治が長期にわたる成長の産物であることは,内閣,政党,首相など,現代政治の鍵となる語が,起源的には非難・侮辱の意で用いられていた点に端的に表れている。内閣cabinetという言葉は,国王の信任する少数の大臣・寵臣からなる非公開の国政諮問会議のあだ名として,フランス語から借用された。国王の奥の間cabinetで秘密会議が開かれたのが名称の起源であるが,公式の国政諮問機関であり内閣会議の母体でもある枢密院Privy Councilの権能を簒奪し,国王専制を担う君側の奸(かん)のたまり場になると非難,警戒された。…
…ヨーロッパでマニエリスムからバロックにかけて,工芸品,宝石,古銭,動植物標本等と共に収集家の収集室(キャビネットcabinet)に飾られた小絵画。神話,風俗,寓意(アレゴリー),風景,静物等主題は多岐にわたるが,いずれも精緻で装飾的な工芸品的性格を特色とする。ドイツ出身で1600年前後にイタリアで活躍したロッテンハンマーHans Rottenhammer(1564‐1625)およびエルスハイマー,同時期のフランドルのヤン・ブリューゲルやフランケンFrans Francken II(1581‐1642)が代表的な画家である。…
…幕末以降,福沢諭吉を先頭にイギリスの政治制度の紹介は飛躍的に質を高め,富国強兵の手本としてのみならず,政治的自由主義の源泉としても,近代日本に大きな影響を与え続けた。議院内閣制に代表される政治上の制度や技能が,近代世界におけるイギリスの最も卓越した貢献だとする主張には十分な根拠がある。他面で,それはヨーロッパの伝統的階層秩序が歴史変化に適応しながら生き延びようとした努力が,好運な条件に恵まれて,最も成功を収めた特異な例でもあり,移植困難な個性を色濃く帯びている。…
…少数有力閣僚で構成され,全閣僚の閣議に代わり国政全般の方針決定や重要諸政策の調整にあたる内閣内の内閣。連立内閣や閣僚数膨張等の事態に戦争や社会危機の圧力が加わると,少数有力閣僚に決定権が集中する傾向が強まり,これが公式化されて成立する。…
…明治憲法では天皇は〈国ノ元首〉(4条)として統治権を総攬したが,日本国憲法では天皇は主権者・統治権者としての地位から象徴の地位に変わり,対外面でも全権委任状・信任状,批准書その他の外交文書の認証,外国の大公使の接受など限られた国事行為を行うにとどまる。したがって,天皇を元首とみることは困難で,むしろ外交関係の処理や条約締結の実権をもつ内閣が元首的地位に近いといえるが,それも決定的ではない。元首条項を排除している国民主権の憲法の下であえて元首を求める意義自体が問われよう。…
…もちろん実際には天子の周辺にはおのずから顧問が生まれてくる。天子の学問上の助言者,もしくは秘書官として設けられた大学士が政治の相談にもあずかるようになり,これが〈内閣〉を形成し,少なくて2,3名,多くても6,7名程度の大学士の合議によって事実上最高決定がなされるようになる(わが国でいう内閣は六部,中国の内閣は複数の総理大臣グループのこと)。具体的にいえば,天子の決裁の下書きをひとつひとつの上奏文に貼付して天子に差し出す,天子はそれを自筆で写して書きこめばよいのである。…
…首長である内閣総理大臣(首相)および他の国務大臣からなる合議体。規模は国や時期によって一定しないが,現代では20名前後が普通であり,日本の内閣法(1947公布)は定員を21名と定めている。…
…これでは文書の処理だけで莫大な時間と精力を要し,その全部にわたって十分理解して判断するのは非常に困難である。自然,皇帝の労を省くために別のくふうが必要となり,結果として内閣制度が定着した。洪武年間から皇帝の顧問として置かれた数名の殿閣大学士が,永楽年間(1403‐24)からは機務に参与するようになって,内閣と称されたが,さらにその後は,皇帝のもとに提出される上奏文を,あらかじめ下読みして,これに対する皇帝の決裁の文案を用意するようになった。…
※「内閣」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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