イギリスの政党。保守党と並ぶ二大政党の一つであり、政権担当歴も豊か。労働者階級を基盤とする政党のなかでも、マルクス主義の流れをくむ党とは対照的な、おもにフェビアン協会の思想による改革主義の社会主義を信奉してきたが、20世紀末からはその社会主義から離れ、労働組合の代表という政党色を薄めた「新しい労働党」(New Labour)となった。
[犬童一男]
ケア・ハーディがつくった独立労働党(1893年結成)の働きかけにイギリス労働組合会議(TUC)が応じ、1900年にロンドンで労組と独立労働党、フェビアン協会などによる大会で、議会における労働利益代表たる労働代表委員会が結成された。これが労働党の前身であるが、1906年に労働党と改称。しかし第一次世界大戦までは労組利益党として行動し、選挙区組織も貧弱であった。
[犬童一男]
第一次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)で非戦論と参戦論との対立が生まれ、前者の独立労働党出身のラムゼー・マクドナルドは、1914年、党首の地位を後者のアーサー・ヘンダーソンに譲った。参戦論の主流派はヘンダーソンをはじめ連立内閣にも入閣した。
第一次世界大戦末期の1917~1918年に、労働党は新党規約制定などによる党改革を行い、選挙区党に個人党員制を認めた組織改革と、生産手段の公有化による社会主義を目標に掲げ、綱領「労働党と新社会秩序」を作成した。その後党勢は急速に伸び、1923年総選挙では191名の当選で自由党を大きく上回る第二党となり、短命に終わったとはいえ、マクドナルド(1922年党首に復帰)の下に単独で少数派政権を担った。1929年総選挙では287名の当選で保守党を抜く第一党となり、第二次マクドナルド内閣を成立させたが、大恐慌にみまわれて苦慮し、1931年8月の金融恐慌の最中に打開策をとりえずして倒れ、マクドナルド首相は保守党、自由党とともに挙国一致内閣をつくった。労働党は、マクドナルドを除名し、ヘンダーソン前外相を党首に選び野党となったが、同年10月総選挙で46議席に転落した。党首はじめ閣僚経験者が落選したので、平和主義者G・ランズベリGeorge Lansbury(1859―1940)が党首となり、1935年10月クレメント・アトリーが党首に選ばれた。同年の総選挙では154議席に回復したが、1930年代後期には人民戦線運動をめぐって深刻な党内分裂状況も生じた。しかし第二次世界大戦中は、チャーチルの戦時連立内閣の成立に尽くし、アトリー、アーネスト・ベビン、ハーバート・モリソンらが入閣、内政上の重要ポストについた。
[犬童一男]
対独戦終了後の1945年総選挙で、労働党は640中394議席を占め、アトリーの下に単独内閣を組織し、基幹産業などの国有化、社会保障制度の抜本的改革を行い、混合経済・福祉国家体制を樹立した。対外的には、冷戦期にNATO(ナトー、北大西洋条約機構)体制を支え、再軍備政策をとったが、アナイリン・ベバンに代表される左派はこれに反対し、深刻な党内対立が生じ、1951年総選挙で保守党に政権の座を明け渡した。1955年にはアトリーの後継者にヒュー・ゲイツケルが選ばれるが、党内左右抗争が災いして1955年、1959年の総選挙でも連敗し、ゲイツケル死後1963年にハロルド・ウィルソンが党首に選ばれて就任。翌1964年の総選挙で労働党は630中317議席で政権をとり、1966年総選挙で364議席を制した。しかし産業構造の近代化による経済再建の政策は効果をあげえず、EC(ヨーロッパ共同体)加盟交渉も実らず、1970年総選挙で保守党に敗れて野党となる。1974年2月総選挙では635中301議席でウィルソンの下に政権の座に戻り、同年10月総選挙でかろうじて過半数の議席を得たが、労働組合会議(TUC)との社会契約(政府が実質賃金を確保することで、労働組合に自主的な賃金抑制を求める取決め)で政権を維持できた。首相兼党首の地位は1975年にジェームズ・キャラハンに引き継がれ、所得政策中心の危機管理がなされたが、1978年に労組の不満が高まり、労働運動の冬の時代に入って社会契約は破れ、翌1979年総選挙で保守党に大敗した。1980年に党首はマイケル・フットMichael Mackintosh Foot(1913―2010)にかわった。1974年総選挙で労働党が得票率40%を割り、1979年には37%、1983年には左傾化と党の不統一がたたって27.6%に低落し、軌道修正を図るニール・キノックNeil Gordon Kinnock(1942― )が党首となった。1981年には左傾化に反発した右派の一翼が脱党して社会民主党を創設し、自由党と連合を組んだこともあり、1987年総選挙では32%に回復したものの3連敗を喫した。この衝撃から労働党は、キノックが率いる陰の内閣(シャドー・キャビネット)の下に抜本的党改革に着手し、1990年にはサッチャー政権下での国有産業の民営化や労働立法などを受容する政策をとって党勢を立て直し、1992年総選挙に臨んだ。そこで前回を42上回る議席を得て、得票率も34.4%に達したが、政権には手が届かずキノックは党首を辞任、閣僚歴があるジョン・スミスJohn Smith(1938―1994)が党首となる。スミスの下でも党の現代化への改革が行われ、党大会での表決で労働組合がブロック票によって90%の票を占めていたのを70%に抑えこみ、1人1票の原則の実現に向かうことを明示した。
[犬童一男]
スミスが1994年春に急死した後、陰の内閣で内相の地位にあったトニー・ブレアが41歳の若さで党首になる。ブレアが率いる改革派(モダナイザー)が主導する陰の内閣の下で、労働党はニュー・レイバー(新労働党)とよばれる党になった。それは1995年4月党大会で党規約第4条にうたわれていた公有化を党の目的から外したことで裏づけられる。この規約第4条の公有化原則は1918年に制定されたもので、フェビアン主義のシドニー・ウェッブSidney J.Webb(1859―1947)が起草したものである。ブレアはこれを党の目的から外して、市民の連帯と義務の遵守からなる社会、個人が有する能力を実現できる社会をつくることに変更した。
この党規約改正を主とする諸改革により、労働党は現代化されたニュー・レイバーとなり、党組織の運営は労組から個人加入党員が中心となった。この改革の成果として、ブレアが党首になってから1997年総選挙までの間に個人加入党員は28万から42万に増えた。同年5月総選挙でブレアが率いる同党は得票率を前回よりも大きく上回る43.2%に引き上げ、418議席を獲得し圧勝したのは、ニュー・レイバーへの改革の賜(たまもの)といえる。また、この選挙では当選可能性のある選挙区を中心に女性候補者への優遇措置をとって、史上最高の155名の候補者をたて、前回の37名を超える101名の女性下院議員を誕生させた。これは、ニュー・レイバーとなった労働党の変化を明瞭(めいりょう)に示した現象である。
ブレア内閣成立後の政権運営の特徴は、内政では国の政治構造を変革する政治改革に重点を置く。スコットランド、ウェールズ、北アイルランドでは1999年に議会が成立して中央集権制の国から分権制の国にかわった。小選挙区制をとってきたイギリスの選挙制度も比例代表制を取り入れたものとなり、欧州議会選挙、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドの地域議会選挙は1999年から従来の小選挙区制ではなくなった。
ブレア内閣は、安定した政権運営を行い2001年の総選挙でも大勝したが、政権2期目においては2003年のイラク戦争への対応に関して国民から強い批判を受け、2005年の総選挙においては過半数を獲得したものの大幅に議席数を減らした。ブレア政権は労働党として初めて3期連続で政権を握ったが、支持率が低迷、2006年の地方議会選挙にも大敗した。党内の反対勢力より早期退陣を求める声が徐々に強まり、ブレアは2007年5月に辞任を表明。6月24日の臨時党大会で後継党首に財務相のゴードン・ブラウンが選出され、ブレアは同年6月27日に任期を3年残して途中退陣、ブラウンが首相に就任した。
[犬童一男]
労働党は全国党組織と議会労働党(PLP)からなる。全国党は、個人加入党員を主とする選挙区党(個人党員は1993年に20万、1997年に42万)と党費納入を是とする多数の組合員をもつ加盟労働組合からなる。全国党大会で2万以上のブロック票をもつ組合は1992年で25、1993年に加盟労組の組合員800万中400万が党費納入者である。1984年労組法で組合員からの党費徴収は本人の同意を要することになった。党の最高決議機関として年次党大会がある。全国党組織を統括する全国執行委員会(NEC)は、議会労働党の党首、副党首、党財務を職務上のメンバーとし、選挙区党から7名、加盟労組から12名、女性5名、そのほか2名の29名を党大会で毎年選出する。PLPの執行部たる議会委員会、野党にあっては陰の内閣(シャドー・キャビネット)の大半は、総選挙後の議会開会前に下院議員の投票によって選出される。党首(Leader)と副党首は従来PLP所属議員の間で選出されたが、1981年からPLP30、選挙区党30、労働組合40の比率で党全体がかかわる選挙によるものとなった。こうした党首選で1983年にキノック、1992年にスミス、1994年にブレアが選出された。ブレアの副党首に選ばれたのがプレスコットJohn Leslie Prescott(1938― )であり、のちに副首相兼第一国務相となった。なお、2007年のブレア退任表明を受けての党首選挙は、立候補者がゴードン・ブラウン1人であったため、投票は実施されなかった。副党首に選出されたのは法務相のハリエット・ハーマンHarriet Harman(1950― )であり、労働党幹事長および下院院内総務にも任命されている。
個人加入党員の党費は1996年において年額15ポンド。学生、パートタイマー、退職者などは5ポンド、党加盟労組の党費徴収登録者は3ポンドである。
[犬童一男]
『関嘉彦著『イギリス労働党史』(1969・社会思想社)』▽『H・ペリング著、小川喜一訳『イギリス労働党の歴史』(1967・日本評論社)』▽『R・T・マッケンジー著、早川崇・三沢潤生訳『英国の政党――保守党・労働党内の権力配置 下巻』(1970・有斐閣)』▽『村川一郎著『イギリス労働党』(1978・教育社)』▽『吉瀬征輔著『英国労働党――社会民主主義を越えて』(1997・窓社)』▽『舟場正富著『ブレアのイギリス――福祉のニューディールと新産業主義』(1998・PHS研究所)』▽『林信吾著『これが英国労働党だ』(1999・新潮選書)』▽『杉本稔著『イギリス労働党史研究――労働同盟の形成と展開』(1999・北樹出版、学文社発売)』▽『リチャード・ヘファーナン著、望月昌吾訳『現代イギリスの政治変動――新労働党とサッチャリズム』(2005・東海大学出版会)』▽『E. ShawThe Labour Party Since 1945(1996, Blackwell Publishers)』▽『S. Driver, L. MartellNew Labour ; Politics After Thatcherism(1998, Polity Press)』▽『H. J. P. HarmerThe Longman Companion to the Labour Party, 1900-1998(1999, Longman)』▽『Gerald R. Taylor(ed.)The Impact of New Labour(1999, St Martins Press)』
イギリスの社会主義政党。1900年,議会に独自の労働代表を送るため,J.K.ハーディらの指導で労働組合と社会主義諸組織との連合体として〈労働代表委員会Labour Representation Committee〉が結成された。これは,自由主義から社会主義へ組合を改宗させるため独立労働党を中心に推進された運動の直接の成果だが,他方,不熟練労働者の〈新組合運動〉に挑戦する雇主側の攻勢および法的制裁に対し組合のとった自衛措置でもあり,階級闘争の産物だった。書記長J.R.マクドナルドと自由党指導部との間で締結された秘密選挙協定が効を奏し,06年の総選挙では,自由貿易圧勝の波にのり29人の議員を当選させ,〈労働党〉と改称した。しばらくは〈リベラリズムの侍女〉の地位に甘んじ,自由党の社会改良政策に追従した。
第1次大戦で戦争支持のA.ヘンダーソンが党委員長となり,戦時内閣に参加するが,ロシア革命後は交渉による平和を主張して内閣を去り,これが党を自立に導くとともに反戦リベラルの労働党への参加の道を開いた。戦時中の組織労働者の飛躍的増加が党の自立を支え,18年S.J.ウェッブの協力を得て社会主義綱領が作成された。同4条は〈手と頭脳の生産者に勤労の全成果を確保〉するような〈生産手段の公有〉を宣言し,同時に地方支部を設けて一般党員の加入を制度化し,国民政党への展望を開いた。ウェッブの手になる政策綱領《労働と新社会秩序》も採用されたが,労働党の社会主義はフェビアニズム(フェビアン協会)とマルクス主義との妥協の産物だった。
24年自由党の協力を得て成立したマクドナルド労働党内閣は,対ソ借款に反対する保守勢力の圧力に敗れた。26年ゼネスト敗北後,組合は政治闘争重視の立場に戻り,29年総選挙では第一党となり,第2次マクドナルド内閣を組織した。しかし大量失業に直面して蔵相P.スノードンは古典的財政政策を固守し,32年の国際金融危機では自由貿易と金本位制維持のためアメリカ,フランスの金融市場からの借入れに頼り,その条件として失業手当削減を含む緊縮財政実施を受け入れたため,労働党政府は分裂崩壊し,31年の挙国内閣(挙国一致内閣)に参加したマクドナルド,スノードンらは党から除名された。
党再建は運輸一般労組のE.ベビンら労働組合会議(TUC)評議会主導の下に行われ,産業国有化,計画経済など社会主義への移行のための政策綱領をまとめ,自由主義経済の呪縛を断ち切る一方で,絶対的平和主義者の党首ランズベリーGeorge Lansbury(1859-1940)を辞任させ,新党首C.R.アトリーの下にファシズムの脅威に対し集団安全保障政策をとり,挙国政府の宥和政策に対抗した。第2次大戦では政治休戦に応じ,チャーチルの戦時連立内閣に参加した。
45年の総選挙で党史上最高の393議席を確保し,アトリーは多数党内閣を組織した。中央銀行,石炭,鉄道,電信,航空,電気・ガス,鉄鋼の国有化が実施または推進され,病院国営,医療無料化の国民保健制度が導入され,完全雇用が確保された(1951年失業率1.5%)。しかし生産復興や富の再分配のための財政措置は対米経済依存と外貨危機に制約され,耐乏政策をとらざるをえず,50年の総選挙での後退とともに戦後イギリスの社会主義革命は終わった。51年総選挙では1395万という党史上最高の得票数にもかかわらず,議席数で保守党に敗れた。
つづく野党時代には左右対立が激化した。大組合のブロック票に支持された党首H.T.N.ゲーツケルは,地方支部に基盤をもつA.ベバン派からの,福祉と再軍備をめぐる数度の挑戦を退けたが,他方,階級政党としての党の体質を改めるため社会主義綱領(第4条)を廃棄しようとした彼の試みは組合の反対で敗れた。63年新党首に就任したウィルソンJames Harold Wilson(1916-95)は新産業技術重視の近代化ビジョンを掲げ,64年,労働党を政権に復帰させた。国家の参加する高度成長経済の中で福祉水準の引上げを約束し,これを管理するテクノクラートの党としてみずからを位置づけたが,継承した低成長経済の中で外貨危機に見舞われ,デフレ政策に転じ,70年の総選挙で敗退した。70-74年の野党時代の新ラディカリズムは,急進化した組合と党内左派との同盟の反映だった。つづくウィルソン第2次内閣(1974-76)は,インフレ進行,低率投資,外貨危機の中で急進的プログラムを捨て,組合との〈社会契約〉もその力点が社会改革から所得制限に移った。76年新党首キャラハンLeonard James Callaghan(1912-2005)の政権下で迎えた通貨危機は,国際通貨基金からの借入れで切り抜けたが,公共投資や賃金の抑制を強いられ,やがて一連の労働争議を誘発し,79年の総選挙で敗退した。このとき組合員の3分の1が保守党に投票したことから労働党の歴史的後退が指摘され,この傾向は83年総選挙でさらに強まり,この年の得票率28.3%は1918年来の最低を記録した。
労働党を特徴づけるマルクス主義とフェビアニズムとの歴史的妥協は,党の野党化とともにその矛盾が顕在化した。
労働党の低落傾向は世界的な社会主義勢力後退現象の一部であり,社会主義建設の試みが国内的に自由主義経済を克服しえても基本的には自由貿易と自由主義通貨体制の厚い壁に阻まれ,後退を迫られる現実の反映でもあり,金融資本ヘゲモニーの下,経済の近代化に立ち遅れたイギリスで,その矛盾が最も先鋭な形で露呈したともいえよう。
1987年総選挙での党の議席数は229(保守党は376)にとどまった。左派による現実路線への変更は十分な説得力を欠いたようである。92年の総選挙でも党の議席数は269にとどまり,保守党は339議席を得た。
選挙後1992年7月,スミスJohn Smith(1938-94)が党首に選ばれたが,94年5月急死し,ブレアAnthony Charles Lynton Blair(1953- )が後を継いだ。ブレアはエジンバラの生まれ,オックスフォードのセント・ジョンズ・カレッジで法律を専攻し,弁護士となる。1975年,労働党入党。キリスト教社会主義者ともいわれ,83年の総選挙で初当選。党首になってまもなく,ゲーツケルも果たせなかった党綱領4条の修正に成功する。95年4月の特別党大会はブレアの新4条を採択。彼は党を〈民主的社会主義政党〉と規定し,市場の競争原理と生産・雇用における協同やパートナーシップとを結び付ける。1997年5月1日の総選挙は地滑り的な労働党の勝利となり獲得議席419(保守党165),43歳の新首相はピット以来の史上最年少。ブレアは〈時代に取り残されたドグマやイデオロギーのためではなく,分裂の終結,コモン・センスと想像力というイギリス的価値の実際的な適用のために〉選挙民の信頼を得たという。労働党議員のうち100名以上が女性であり,女性閣僚も4人を数え,全盲の雇用相は盲導犬を連れて閣議に出席した。
執筆者:都築 忠七
19世紀末~20世紀初頭のフランスの労働者政党。パリ・コミューンとともに壊滅させられたフランス社会主義運動・労働運動は,1870年代半ばには復興の兆しをみせはじめ,79年,マルセイユでの第3回労働者全国大会では,ゲードの主導下に明確な社会主義的綱領が採択された。しかし運動内部は対立しあう少数派の集りで,やがて82年,ブルースらポシビリストと袂を分かったゲード,ラファルグらは,フランス労働党を独自に結成した。労働者階級の非妥協的な革命政党を自認する同党は,指導者ゲードの名からゲード派と俗称された。ゲード派は,マルクス主義のフランスへの導入に力を入れ,そのための思想宣伝活動に取り組み,実際それに一定の貢献をなしたが,そのマルクス主義理解はきわめて教条主義的で,しかも労働運動に対する政党の絶対的優位を説いたから,革命的サンディカリストとも対立した。80年代にはまったくの少数セクトだった同党は,90年代に入って選挙活動・議会活動にも力を入れるべく方針転換すると,おもに北部工業地帯の労働者を基盤として,フランス最初の近代的政党といわれるような組織機構をもつに至る。93年の下院総選挙での躍進が議会活動路線を促進し,党員数は同年に約1万に達し,社会主義第一党となる。世紀末のミルラン入閣問題を機に再び硬化した同党は,バイヤンらのブランキ派と合同して革命派を自認し,ジョレスらの党と対立したが,1905年の統一社会党結成に加わり,大同団結を果たした。
執筆者:福井 憲彦
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… 資本主義の展開は労働運動を活発にし,労働者階級の解放と民主化を推進した。81年にはドメラ・ニーウェンハイスFerdinand Domela Nieuwenhuis(1846‐1919)が社会民主同盟(SDB)を結成し,94年トルールストラPieter J.Troelstra(1860‐1930)らにより社会民主労働党(SDAP)が結成され,1906年にはオランダ労働組合連合(NVV)が成立した。労働者階級の政治的自覚は激しい選挙権拡大運動に発展し,1887年自由党政府の憲法改正で有権者は10万から35万に増大した。…
…第1は,選挙過程における圧力団体の活動にほかならない。ここでの圧力団体の活動は,候補者に対する選挙資金の援助においてもっとも一般的であり,イギリス労働党下院議員の4割前後は,選挙費用の8割を労働組合の援助に頼る〈労働組合支援候補〉として選出される。さらに進んで圧力団体がその幹部を議員候補者として政党に提供することも,まれではない。…
…内閣の安定性と政策の一貫性が強まる半面,決定権は議会から政党および政府の両方向に移っていく。20世紀に入り,漸進的社会主義を説くフェビアン系知識人と労働組合を中心に結成された労働党が,大衆化した選挙民と組織化の進んだ組合を背景に,自由党の地盤を侵食して進出し始めると,この傾向にも一段と拍車がかかった。自由党と労働党の連携や連立内閣など,主要政党交替に伴う,再編成期の政治変動を経て,第2次大戦後,保守・労働両党間に再び安定した二大政党が確立された。…
…協会の本部はロンドンにおかれていたが,マルクス主義的な革命的社会主義は労働運動が早くから成立していたイギリスには広がらず,大陸で,とくにドイツで強力に発展することになった。 ドイツでは,ラサールを指導者として労働者階級に基盤をおいた全ドイツ労働者協会が1863年に結成されていたが,69年にはマルクスの影響を受けたベーベルやリープクネヒトが社会民主労働党を設立した。この党は,宰相ビスマルクの社会主義者鎮圧法と社会主義を懐柔しようとした社会福祉政策にもかかわらず発展をつづけ,社会主義者鎮圧法が廃止された後の1890年には,さらに党名をドイツ社会民主党と改め,翌91年にはラサール主義を排して〈階級支配と階級そのものの廃絶〉を目標にしたマルクス主義的なエルフルト綱領を採択した。…
…この間に,ホイッグ党は,19世紀半ばころから自由党と呼ばれるようになるが,やがて19世紀から20世紀への移りめの時期における,労働者階級に基盤をおく政党の急速な台頭によって,イギリス政党制は新しい段階に入ることになる。すなわち1900年に労働組合や社会主義団体によって議会外に結成された労働代表委員会は,1906年に労働党と改称し,総選挙ごとに勢力を伸張し続け,ついに1920年代半ばには自由党と入れかわってイギリス二党制の担い手となり,その後保守党と交互に政権を担当して現在に至っている。
[アメリカ]
アメリカの政党は,皮肉なことに反政党主義的立場に立っていたワシントンの下での主要閣僚であったハミルトンとジェファソンによって,18世紀末に創設された。…
…75年の〈雇用者および労働者法〉と〈共謀罪および財産保護法〉はその成果であり,この2法により労使関係は近代化され,ストライキ権も確立された。1900年には議会対策をさらに強化するために,労働運動の独立の政治組織として労働代表委員会Labour Representation Committeeを設立した(1906年労働党と改称)。労働党の設立とその後の発展に大きな役割を果たしたTUCは,現在に至るまで労働党の主要な支柱として強い発言力をもっている。…
…不熟練労働者の組合活動に触発され,労働教会など地方の社会主義運動を結集し,1893年ブラッドフォードで結成された。ケア・ハーディらの指導下に労働組合と社会主義伝道とを結ぶ改良主義的議会政党たらんとしたが,激しい資本家攻勢のもと,より大きく組合に依存する別個の労働党を発足させた。労働党内において,第1次大戦中反戦の立場を貫き,反戦自由主義者の労働党参加への道を開いた。…
…マルクスの剰余価値概念をレントで置き換えたように,階級史観に代わって社会進化論をとり,民主的,漸進的,平和的な社会の有機的変化を強調し,個人でなく集団を自然淘汰の基礎とみなし,共通の善のための自覚的調整・適応を説いた。 協会はサロン的な政策研究グループとして出発したが,不熟練労働者の新組合運動に触発されて北イングランドに地方支部を広げ,独立労働党の成立に寄与した。ウェッブと同夫人ビアトリスとは,組合が社会進歩のみかたであることを証明する理論と歴史とをまとめ,ナショナル・ミニマムの確立とその漸進的引上げ,それを超える〈機会のレント〉の正当化により,能率と民主管理とを結合する社会進歩の展望を提供した。…
…イギリス最初の労働党政府首相。スコットランドのハイランドの農場の召使アン・ラムゼーと作男ジョン・マクドナルドとの間に生まれた。…
※「労働党」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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