国民之友(読み)コクミンノトモ

デジタル大辞泉 「国民之友」の意味・読み・例文・類語

こくみんのとも【国民之友】

総合雑誌。明治20年(1887)徳富蘇峰とくとみそほうが創刊。民友社発行。平民主義を掲げ、進歩的な社会評論を主にしたが、のち国家主義に転じ、明治31年(1898)廃刊。

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精選版 日本国語大辞典 「国民之友」の意味・読み・例文・類語

こくみんのとも【国民之友】

  1. 総合雑誌。明治二〇年(一八八七二月徳富蘇峰設立の民友社が創刊、同三一年八月終刊。全三七二冊。急進的平民主義の立場により、二〇年代の思想界を風靡。文芸欄にも力を入れ、作品発表の場として権威あるものであった。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「国民之友」の意味・わかりやすい解説

国民之友
こくみんのとも

民友社発行の雑誌。1887年2月創刊,1898年8月,第372号で廃刊。『新日本之青年』(1887)で一躍評論家の雄となった徳富蘇峰が始めた進歩的評論誌。初め月刊であったが月 2回,3回,週刊となり,ときの藩閥政府(→藩閥政治)の干渉政策に対抗,自由と平等の実現を期する急進的平民主義の立場をとった。同誌中の「藻塩草」欄は文芸欄で,森鴎外尾崎紅葉幸田露伴坪内逍遙森田思軒二葉亭四迷山田美妙徳冨蘆花宮崎湖処子国木田独歩ら明治20年代(1887~96)の文学者を網羅し,文壇への登竜門の役割も果たした。ほかに「特別寄書」欄や「史論」欄などがあり,矢野龍渓尾崎行雄植村正久中江兆民田口卯吉大西祝内村鑑三新渡戸稲造福地源一郎山路愛山竹越与三郎らが寄稿した。社会性の強い雑誌であったが,日清戦争後は蘇峰が国家主義に傾いたため不振に陥った。鴎外の訳詩『於母影』(1889),小説『舞姫』(1890),北村透谷の『宿魂鏡』(1893),川上眉山の『うらおもて』(1895),内田魯庵の評論『現代文学』(1891),山路愛山の評論『頼襄を論ず』(1893)などの問題作が誌上に発表された。

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百科事典マイペディア 「国民之友」の意味・わかりやすい解説

国民之友【こくみんのとも】

1887年徳富蘇峰が創刊した民友社機関誌。平民主義をうたった当時最も進歩的な評論誌で,総合雑誌の先駆となった。中江兆民田口卯吉島田三郎内村鑑三坪内逍遥北村透谷らが寄稿し,政治・経済・社会・文学の各分野で多彩な論調を展開,社会主義の紹介にも努めた。日清戦争以後,徳富は次第に国家主義的傾向を強めたため,誌勢も衰え1898年廃刊。
→関連項目内田魯庵酒井雄三郎徳冨蘆花中西梅花舞姫宮崎湖処子山路愛山

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改訂新版 世界大百科事典 「国民之友」の意味・わかりやすい解説

国民之友 (こくみんのとも)

徳富蘇峰によって設立された民友社から,蘇峰みずから主筆となって1887年(明治20)に発刊された総合雑誌。誌名はアメリカの《ネーション》誌からとられた。表紙には誌名とともに,〈THE NATION'SFRIEND〉〈政治社会経済及文学之評論〉が刷り込まれている。誌面構成は,社説に当たる〈国民之友〉欄,外部の寄稿による〈特別寄書〉欄,〈時事評論〉欄,文学論の場である〈藻塩草(もしおぐさ)〉欄,〈雑録〉などからなり,蘇峰は主として〈国民之友〉欄で平民主義を主張した。彼は明確な主張をもつオーナー・論説主幹・編集長であり,真のエディターであったといえよう。盛時には部数2万部に達し,民友社刊行物以外の広告も入り,経営的に成功したが,97年蘇峰の〈変節〉により,部数が激減し,翌98年372号をもって廃刊した。その間,文学面でも森鷗外《舞姫》,二葉亭四迷《あひゞき》《於母影(おもかげ)》など,文学史上に大きな足跡を残している。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「国民之友」の意味・わかりやすい解説

国民之友
こくみんのとも

1887年(明治20)2月、民友社を設立した徳富猪一郎(いいちろう)(徳富蘇峰(そほう))が創刊した総合雑誌。誌名は蘇峰が愛読していたアメリカの『ネーション』誌からとった。表紙には「THE NATION'S FRIEND」「政治社会経済及文学之評論」とあった。その標榜(ひょうぼう)するところは「人民全体ノ幸福ト利益」を主張する平民主義にあり、明治維新、自由民権の激動期を経た明治20年代の言論・思想界に大きな影響を与えた。日清(にっしん)戦争後、蘇峰が国家主義者に転向したため、民友社の刊行物は読者に支持されず、98年『国民新聞』に併合されて廃刊した。執筆陣には内村鑑三(かんぞう)、新渡戸稲造(にとべいなぞう)、横山源之助、田口卯吉(うきち)、中江兆民(ちょうみん)ら一流の知識人が動員され、二葉亭四迷(ふたばていしめい)、山田美妙(びみょう)、森鴎外(おうがい)、山路愛山(やまじあいざん)らの文学論、創作、詩、史論に関しても近代文学史上に大きな足跡を残した。

[京谷秀夫]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「国民之友」の解説

国民之友
こくみんのとも

明治中期の総合雑誌。1887年(明治20)2月創刊。発行所は徳富蘇峰の主宰する民友社。誌名はアメリカの雑誌「The Nation」にちなんだもので,本格的総合雑誌であることを特色とした。内容は社会評論を主とし,蘇峰の唱える平民主義が強くアピールされ,青年層を中心に発行部数を伸ばし大きな影響力をもった。冒頭の社説欄は無署名だが,蘇峰自身あるいは蘇峰の意向にそった論説であり,特別寄書欄では各方面の大家・新進の寄書が載せられた。文芸欄の「藻塩草(もしおぐさ)」も当時著名な文学者を網羅し,文壇でも重きをなした。日清戦争後は蘇峰の人気凋落とともに発行部数が激減,98年8月「国民新聞」に吸収されて廃刊。

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旺文社日本史事典 三訂版 「国民之友」の解説

国民之友
こくみんのとも

明治中期の総合雑誌
1887年徳富蘇峰が山路愛山らと民友社を結成して創刊。その進歩的平民主義(個人の自由と平等)は,国粋主義の『日本人』と対抗し,論壇・文壇をリードした。日清戦争('94〜95)後,蘇峰の海外膨張論への転向で衰微し,'98年廃刊。

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世界大百科事典(旧版)内の国民之友の言及

【国民新聞】より

…1890年2月1日,徳富蘇峰によって創刊された日刊新聞。雑誌《国民之友》を発行し,大成功をおさめていた蘇峰が〈新聞其物をして社会の生活と一致合体せしむる〉を基本方針として発刊した。創刊当初は政治,経済,文化等のさまざまな分野を報道・論評する生新な新聞として人気を博した。…

【総合雑誌】より

…第2次大戦中の雑誌統制で,用紙割当てと編集内容の規制を行ったさいに,〈総合雑誌〉の類別がなされたことが始まりである。 徳富蘇峰が1887年に創刊した《国民之友》は,彼が青年期に主唱した平民主義の論説や民友社同人らの評論とともに,二葉亭四迷などの小説を掲載して,総合雑誌の基本的なスタイルを確立した。博文館の《太陽》(1895)もその形式にならったが,これをいっそう大胆に発展させたのが大正時代の《中央公論》と《改造》とであった。…

【徳富蘇峰】より

…この間,東京や高知に旅行し板垣退助,中江兆民,田口卯吉らの知遇をえる。86年《将来之日本》を出版して一躍文名を高め,一家を挙げて上京し,翌87年2月民友社を創立し《国民之友》を発刊する。平民的欧化主義を旗印としたこの雑誌は,政治・経済・社会から宗教・文芸にわたる多面的で新鮮な編集によって異常な人気を呼んだ。…

※「国民之友」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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