自由民権期の女性運動家。湘烟(しょうえん)(湘煙)と号す。文久(ぶんきゅう)3年12月5日、京都の呉服商の家に生まれる。女子師範学校を病気退学ののち、1879年(明治12)宮中女官に抜擢(ばってき)され1年余り出仕し皇后に進講したが、宮廷生活に満足できず病気を理由に辞任。1881年土佐旅行を契機に自由民権運動に参加した。弁舌に優れ、全国を遊説して女権拡張を説き人気を集めた。1884年自由党副総理中島信行(のぶゆき)と結婚、中島俊子の名でも知られる。実業家・政治家の中島久万吉(くまきち)は長男。結婚後も、自由党系の新聞『自由燈(とう)』に10回にわたって「同胞姉妹に告ぐ」を連載、男女平等を訴えたのをはじめ、『女学雑誌』などに多くの評論を書いた。また新栄女学校、フェリス和英女学校などで教壇に立ち、教育にも熱心であった。夫信行が衆議院議長や貴族院議員、イタリア大使と栄進したため、俊子も上流婦人の道を歩んだとされるが、生涯真実を追求し、女性の自立を求め続けた点は注目される。夫の死から2年後の1901年(明治34)5月12日、38歳で病没した。遺稿集『湘烟日記』(1903)がある。
[米田佐代子]
『大木基子・西川祐子編『湘煙日記』(1985・不二出版)』▽『鈴木裕子編『岸田俊子評論集』(1985・不二出版)』▽『西川祐子著『花の妹――岸田俊子伝』(1986・新潮社)』
明治時代の女性民権運動の先駆者。京都の呉服商に生まれ,17歳のとき文事御用掛として宮中に出たが2年で退く。立志社の坂崎紫瀾らと交友して自由民権運動に近づき,1882年大阪,岡山などで男女同権を演説する。岡山遊説中,聴衆のなかに景山(福田)英子がいて影響を与える。翌年大津での演説〈箱入娘〉が政治演説とみなされ集会条例違反で罰金刑をうける。84年《自由の灯》に載せた〈同胞姉妹に告ぐ〉には,男尊女卑は野蛮な欲心からでるもので,男女の関係は愛憐をもってせよと述べている。この年自由党副総理中島信行と結婚,92年にはイタリア公使夫人も経験した。なお87年横浜フェリス女学校教師となる。《善悪の岐》の著書のほか,湘烟と号し〈湘烟日記〉をのこす。
執筆者:井手 文子
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(三鬼浩子)
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1863.12.5~1901.5.25
明治期の自由民権運動の女権弁士・作家。号は湘煙(しょうえん)。京都生れ。15歳で宮中に出仕,漢学を進講する。1882年(明治15)から自由民権運動に参加,各地を遊説して評判になる。83年滋賀県での演説「函入娘」で官吏侮辱罪と集会条例違反の嫌疑をうけ投獄される。中島信行との結婚後は「女学」に転じ,評論・随筆・小説・日記・漢詩などの執筆活動を行った。評論「同胞姉妹に告ぐ」は男女同権を主張した画期的な作品。
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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