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「市川右太衛門」の意味・読み・例文・類語
いちかわ‐うたえもん〔いちかはうたゑもん〕【市川右太衛門】
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市川右太衛門
市川右太衛門 大阪市出身。幼少期から日本舞踊を習い、1925年に「黒髪地獄」で映画デビュー。華麗な所作と痛快な立ち回りでスターとなり、30年開始の「旗本退屈男」は戦後まで続く人気シリーズに。51年に東映が設立されると片岡千恵蔵さんらと役員を務め「重役スター」として話題になる。60年代半ば、東映が任〓(人ベンに峡の旧字体のツクリ)路線にかじを切ると、舞台に主な活躍の場を移した。99年に92歳で死去。
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市川 右太衛門
イチカワ ウタエモン
- 職業
- 俳優
- 本名
- 浅井 善之助
- 別名
- 舞踊名=藤間 勘蔵,尾上 菊扇
- 生年月日
- 明治40年 2月25日
- 出生地
- 大阪府 大阪市西区九条中通り
- 学歴
- 九条第四小卒
- 経歴
- 芸事好きの両親の影響で、5歳の時から初代山村若について日本舞踊を始め、6歳の時に「菅原伝授手習鑑」で初舞台。小学校卒業前後に2代目市川右団次の門下となり、市川右一の芸名で活躍、「勧進帳」の弁慶など大役を演じた。大正14年マキノ・プロに入社、同時に芸名を右太衛門に改め、15年「黒髪地獄」で映画デビュー。「孔雀の光」「鳴門秘帖」などに主演し、長谷川一夫、嵐寛寿郎、阪東妻三郎らとともに無声映画全盛期の看板スターとなる。昭和2年独立して右太衛門プロを設立。5年に始まる代表作「旗本退屈男」は右太衛門演じる主役・早乙女主水之介の白塗り、豪快な高笑いと決めゼリフで31本の人気シリーズになる。発声映画時代が来て、時代劇スターの中でトーキー俳優として最初に成功した一人。11年プロダクションを解散、新興キネマ、大映を経て、戦後24年東京映画配給(後の東映)に入社。26年片岡千恵蔵とともに取締役に選任され、重役スター第1号として東映時代劇の黄金期を担い、就任からわずか5年で業界第1位に導く。出演した映画は360本を超え、また“御大(おんたい)”と呼ばれ、娯楽映画の主役にこだわり、主役以外ではいっさい映画に出演しなかったことでも知られる。41年取締役を退任し、東映を去る。その後事務所・鷹の会を設立、テレビ、舞台で活躍した。他の主な出演作に、二男の北大路欣也と初共演の「父子鷹」、「影法師捕物帖」「侠骨漢」「安政異聞録」「的場半次郎」「大岡越前守」など。
- 受賞
- 勲四等旭日小綬章〔昭和54年〕 ブルーリボン賞大衆賞〔昭和31年〕,牧野省三賞〔昭和36年〕,芸能功労者(芸団協)〔平成2年〕,ゴールデングローリー賞〔平成7年〕
- 没年月日
- 平成11年 9月16日 (1999年)
- 家族
- 二男=北大路 欣也(俳優)
- 伝記
- 木久扇のチャンバラスターうんちく塾映画録音技師ひとすじに生きて―大映京都六十年ライバルを探せ!―対立構造のすすめ浅草の昭和を彩った人たちチャンバラ黄金時代 時代劇スター七剣聖―石割平コレクション新興チャンバラ黄金時代―石割平コレクション松竹チャンバラ黄金時代 戦前篇―石割平コレクション大映チャンバラ黄金時代 十一人の剣豪―石割平コレクション八っちゃんの撮影所人生佐々木康の悔いなしカチンコ人生殺陣―チャンバラ映画史旗本退屈男まかり通る昭和・平成タレント太平記―私をトリコにした男たち貞丈のお笑い芸界銘々伝映画三国志―小説東映日本映画史の創出千恵蔵一代映像のスリット―わが映画人生 林家 木久扇 文・絵林 土太郎 著村松 友視 著鈴木 としお 著石割 平 編・著,円尾 敏郎 編石割 平 編・著,円尾 敏郎 編石割 平 編・著,円尾 敏郎 編石割 平 編・著,円尾 敏郎 編山内 八郎,高瀬 昌弘 著佐々木 康 著永田 哲朗 著市川 右太衛門 著林家 木久蔵 著一龍斎 貞丈 著大下 英治 著冨士田 元彦 著田山 力哉 著中島 貞夫 著(発行元 小池書院草思社日本放送出版協会東京新聞出版局ワイズ出版ワイズ出版ワイズ出版ワイズ出版フィルムアート社けやき出版社会思想社東京新聞出版局学習研究社日本デザインクリエーターズカンパニー徳間書店五柳書院社会思想社芸艸堂 ’07’07’05’01’01’01’01’00’98’93’93’92’91’90’90’90’87’87発行)
出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報
市川右太衛門 (いちかわうたえもん)
生没年:1907-99(明治40-平成11)
映画俳優。本名浅井善之助。香川県丸亀市出身。最大の当り役は〈旗本退屈男〉シリーズ。〈退屈男〉の異名をとる旗本・早乙女主水之介が,高笑いとともにけんらんたる衣装で登場し(その柄はほとんど右太衛門本人のデザインで,1本の作品の中で数点は着替えて見せた),悪人どもを大きな目ではったとにらみつけるや,額の三日月傷を指さして〈天下御免の向こう傷〉と名のりをあげる姿が人気を呼んだ。見得を切るさっそうとした立ち姿,流麗で余裕のある立回りの姿には,踊りと歌舞伎で鍛えた素地がうかがえる。日本舞踊を5歳のころから始め,やがて関西歌舞伎の市川右団次の門に入って,市川右一の芸名で関西青年歌舞伎の中心となった。映画初出演作は1925年,牧野省三の目に止まって入社したマキノ・プロでの《黒髪地獄》で,これより市川右太衛門と名のり,《快傑夜叉王》《孔雀の光》《新釈紫頭巾》《鳴門秘帖》などの時代劇に出演,たちまち人気スターとなった。だが,27年,デビュー作以来コンビを組んできた沼田紅緑監督の死を一契機に,市川右太衛門プロダクションを設立,奈良市郊外あやめヶ池の撮影所を拠点に,幕末の動乱期に新旧勢力のはざまで苦悩する武士を描いた伊藤大輔監督の名作《一殺多生剣》(1929)などのいわゆる〈傾向映画〉とともに,多くの時代劇を製作した。その1本が古海卓二監督《旗本退屈男》(1930)である。また,この間,松竹のトーキー時代劇《天一坊と伊賀亮》(1933)などに出演,舞台で鍛えた発声法で成功を収めた。36年,右太衛門プロを閉鎖して新興キネマへ,さらに42年,新興キネマを含む大日本映画製作株式会社(のちの大映)へと活躍の舞台は移るが,つねに旗本退屈男を当り役とした。第2次世界大戦後の49年,東横映画に転じ,占領軍の規制で時代劇がつくりにくい状態のもと,《難船崎の血闘》などの現代劇,いわゆる〈髷(まげ)をつけない時代劇〉に出演する一方,《お艶殺し》などの時代劇とともにやはり旗本退屈男を演じた。51年,東映設立に片岡千恵蔵とともに重役として参加,以後,時代劇王国・東映の中心スターとなった。むろん東映でも旗本退屈男が当り役で,63年まで演じ続け,さらに舞台,テレビでも演じた。
執筆者:山根 貞男
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市川 右太衛門
イチカワ ウタエモン
大正〜平成期の俳優
- 生年
- 明治40(1907)年2月25日
- 没年
- 平成11(1999)年9月16日
- 出生地
- 大阪府大阪市西区九条中通り
- 本名
- 浅井 善之助
- 別名
- 舞踊名=藤間 勘蔵,尾上 菊扇
- 学歴〔年〕
- 九条第四小卒
- 主な受賞名〔年〕
- ブルーリボン賞大衆賞〔昭和31年〕,牧野省三賞〔昭和36年〕,勲四等旭日小綬章〔昭和54年〕,芸能功労者(芸団協)〔平成2年〕,ゴールデングローリー賞〔平成7年〕
- 経歴
- 芸事好きの両親の影響で、5歳の時から初代山村若について日本舞踊を始め、6歳の時「菅原伝授手習鑑」で初舞台。小学校卒業前後に2代目市川右団次の門下となり、市川右一の芸名で活躍、「勧進帳」の弁慶など大役を演じた。大正14年マキノ・プロに入社、同時に芸名を右太衛門に改め、15年「黒髪地獄」で映画デビュー。「孔雀の光」「鳴門祕帖」などに主演し、長谷川一夫、嵐寛寿郎、阪東妻三郎らとともに無声映画全盛期の看板スターとなる。昭和2年独立して右太衛門プロを設立。5年に始まる代表作「旗本退屈男」は右太衛門演じる主役・早乙女主水之介の白塗り、豪快な高笑いと決めゼリフで31本の人気シリーズになる。時代劇スターの中でトーキー役者として最初に成功した一人。11年プロダクションを解散、新興キネマ、大映を経て、戦後24年東京映画配給(後の東映)に入社。26年片岡千恵蔵とともに取締役に選任され、重役スター第1号として東映時代劇の黄金期を担い、就任からわずか5年で業界第1位に導く。出演した映画は360本を超え、また“御大(おんたい)”と呼ばれ、娯楽映画の主役にこだわり、主役以外ではいっさい映画に出演しなかったことでも知られる。41年取締役を退任し、東映を去る。その後事務所・鷹の会を設立、テレビ、舞台で活躍。他の主な出演作に、二男の北大路欣也と初共演の「父子鷹」、「影法師捕物帖」「俠骨漢」「安政異聞録」「的場半次郎」「大岡越前守」など。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
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「市川右太衛門」の意味・わかりやすい解説
市川右太衛門【いちかわうたえもん】
俳優。香川県出身。本名浅井善之助。5歳で日本舞踊を始め,6歳で歌舞伎の市川右団次の弟子となり,市川右一を名乗る。1925年マキノ・プロに入社,右太衛門と改称し人気スターとなる。1927年独立して市川右太衛門プロダクションを設立,1930年に始まる《旗本退屈男》シリーズは,豪華な衣装,額の三日月傷,踊りと歌舞伎で洗練された立回りで時代劇ファンを魅了,戦前・戦後を通じて当り役となった。1936年右太衛門プロを解散し新興キネマへ,1942年大映,1949年東横,1951年東映へと移ったが,もっぱら〈退屈男〉を演じ続け,31本という長期シリーズとなった。
→関連項目牧野省三
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市川右太衛門
いちかわうたえもん
(1907―1999)
俳優。本名浅井善之助(ぜんのすけ)。香川県丸亀(まるがめ)市生まれ。幼時より市川右一の名で歌舞伎(かぶき)の舞台で活躍したが、1925年(大正14)マキノプロへ入社、『黒髪地獄』(1925)で映画界にデビューした。以後、押し出しのりっぱな二枚目スターとしてたちまち人気を得、多くの時代劇映画に主演した。とくに1930年(昭和5)からの「旗本退屈男(はたもとたいくつおとこ)」シリーズは戦前・戦後を通じて31本を数え、彼の十八番となった。
[長崎 一]
『市川右太衛門著『旗本退屈男まかり通る』(1992・東京新聞出版局)』
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
市川右太衛門 いちかわ-うたえもん
1907-1999 大正-昭和時代の映画俳優。
明治40年2月25日生まれ。6歳で関西歌舞伎に出演。大正14年「黒髪地獄」で映画界にデビュー,美剣士役でスターとなり,昭和2年市川右太衛門プロを設立。大映をへて26年から片岡千恵蔵とともに東映の重役スターとなった。当たり役は「旗本退屈男」シリーズの早乙女主水之介。平成11年9月16日死去。92歳。香川県出身。本名は浅井善之助。
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市川 右太衛門 (いちかわ うたえもん)
生年月日:1907年2月25日
大正時代;昭和時代の俳優
1999年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の市川右太衛門の言及
【日本映画】より
… 1927年には高木新平プロダクションが設立され,京都吉田山下に新スタジオを建てたが,まもなく解散した。 同じ1927年,市川右太衛門プロダクションが設立され,奈良あやめ池遊園地に撮影所を建設,映画製作を始めたが,36年に解散した。撮影所は全勝キネマによって使用されたが,やがて全勝キネマは松竹傘下に入り,興亜映画となった(1941)のち,松竹に合体吸収された。…
※「市川右太衛門」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」