日本社会党(読み)ニッポンシャカイトウ

デジタル大辞泉 「日本社会党」の意味・読み・例文・類語

にっぽん‐しゃかいとう〔‐シヤクワイタウ〕【日本社会党】

明治39年(1906)幸徳秋水らを中心として結成された日本最初の合法的社会主義政党。翌年、治安警察法の適用によって解散。
昭和20年(1945)第二次大戦前の無産政党各派が合同して結成した社会主義政党。同22年初代委員長片山哲を首班として、民主党国民協同党との三党連立内閣を組織したが、翌年総辞職。以後、党内左右の対立が激化し、同26年分裂。同30年左派の主導のもとに再統一したが、同35年には右派が脱党して民主社会党を結成した。平成8年(1996)社会民主党に改称。

にほん‐しゃかいとう〔‐シヤクワイタウ〕【日本社会党】

にっぽんしゃかいとう

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精選版 日本国語大辞典 「日本社会党」の意味・読み・例文・類語

にっぽん‐しゃかいとう‥シャクヮイタウ【日本社会党】

  1. [ 一 ] 明治三九年(一九〇六)幸徳秋水らによって組織された政党。同四〇年に解散。
  2. [ 二 ] 昭和二〇年(一九四五)、旧社会大衆党を中心に、戦前の無産政党、労働運動、農民運動の関係者が団結して結成した社会民主主義の政党。党内左右の抗争が激しく、同二六年分裂、同三一年再統一したが、その後、一部が脱党して同三五年民主社会党を結成した。平成八年(一九九六)、党名を社会民主党と改称。

にほん‐しゃかいとう‥シャクヮイタウ【日本社会党】

  1. にっぽんしゃかいとう(日本社会党)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「日本社会党」の意味・わかりやすい解説

日本社会党
にほんしゃかいとう

1945年(昭和20)11月2日に、共産党を除く戦前の無産政党関係者で結成した、日本の代表的な社会民主主義政党で、1996年(平成8)1月19日に党名を社会民主党に変更するまで存続した。社会党の歴史は五つの時期にくぎることができる。

田口富久治

第一期

第一期は結党以来1951年の左右両社会党への分裂までである。反共右派主導で発足した社会党は、その新憲法構想も「国家主権論」で天皇制の修正存続を考えていたし、1946年初頭の民主人民戦線運動にも反共主義の立場から参加しなかった。1947年の二・一ストをピークとする労働運動の高揚を背景として行われた4月総選挙では143人の当選者を得て第一党となり、片山哲(てつ)を首班とする社会・民主・国民協同の3党連立内閣を組織した。片山内閣は新憲法に基づく国家公務員法、新警察法の制定、民法改正などを実現したが、その政策的表看板であった炭鉱国家管理法は骨抜きにされたばかりか、経済再建のため労働賃金を抑制するなどの政策をとらざるをえなかったため、鈴木茂三郎(もさぶろう)ら党内左派の「造反」にあい、1948年2月総辞職した。続く芦田均(あしだひとし)(民主党)内閣にも西尾末広(すえひろ)ら8名が入閣したが、同内閣も政令二〇一号で国家公務員の団体交渉権・争議権を剥奪(はくだつ)して労働者の不満を買い、昭電疑獄事件で1948年10月総辞職した。その後1949年1月の総選挙で社会党は48議席にまで転落し、同年4月の再建大会では党の路線と性格とをめぐって、改良的漸進と国民大衆の党を唱える右派と、社会主義革命と階級政党を主張する左派との間にいわゆる森戸(辰男(たつお))・稲村(順三)論争が行われた。左右の対立は1950年1月の第5回大会では人事と青年部問題をめぐって紛糾し一時党分裂を招いたが、1951年1月の第7回大会では講和と平和問題をめぐってふたたび激化し、左派優位のうちに全面講和・中立・基地反対・再軍備反対の平和四原則が採択され、空席の委員長に左派の鈴木茂三郎が選出された。しかし講和会議直後の10月、臨時大会で、左派の講和・安保両条約反対論と右派の講和賛成論が激突し、左右両社会党に分裂した。

[田口富久治]

第二期

第二期は1950年代から1960年代前半までであるが、三つの小段階に区別されよう。

(1)社会党分裂から1955年10月の再統一に至るまでの時期で、この間に伸長しつつあった日本労働組合総評議会(総評)と結び付き(「左社・総評ブロック」)、平和・反戦の路線を明確にした左社が議席数でも右社を追い抜き、勢力的には左派優位のもとで、ただし綱領(平和革命による社会主義への移行と階級的大衆政党をうたった)と人事では右派と妥協して(委員長鈴木茂三郎、書記長浅沼稲次郎)再統一がなった。

(2)再統一後の社会党は、鳩山(はとやま)一郎内閣の改憲・再軍備、続く岸信介(のぶすけ)内閣の日米安保条約改定に対して、護憲・平和、安保反対の旗を掲げて正面から対決し、とくに60年安保闘争においては安保改定阻止国民会議の中心勢力として活動した。この間、西尾末広らの脱党と民主社会党(後の民社党)の結成(1960年1月)、また安保闘争の終結後、当時の浅沼委員長の右翼青年による刺殺事件が起こった。

(3)浅沼の死後、党の最高指導者となった江田三郎書記長は、1960年11月の臨時党大会で、経済構造の改良によって社会主義に至るという構造改革路線を提唱したが、社会主義協会を中心とする左派はこれを改良主義として鋭く攻撃し、江田を追い落とし(1962年12月第22回大会。後任書記長成田知巳(ともみ))、1964年12月の第24回大会では、労働者階級を中核とする「反独占国民戦線」の形成によって社会主義への道を切り開く過渡的政権構想を示した新しい綱領的文書「日本における社会主義への道」を採択した(1966年党大会で補強・完結)。

[田口富久治]

第三期

第三期は1960年代後半から1970年代末までである。1960年代後半から1970年代前半にかけてのほぼ10年は、経済の高度成長のもたらした矛盾がとくに大都市部において顕在化したのを背景として、東京をはじめ全国の主要な自治体で革新首長(当時の住民運動の高揚を背景に、社会党・共産党系の公認・推薦・支持で当選した都道府県知事や市町村長)が輩出した時期である。社会党は共産党との連携による社共共闘を軸にその実現に大きな役割を果たし、1974年1月の第37回大会では、護憲・民主・中立の国民戦線を基礎にした国民統一政府の構想を発表した。しかし低成長経済に移行した1970年代後半には、保守側の反撃、社共間の軋轢(あつれき)の増大などによって、主要な革新自治体は次々と崩壊していった。また、労組(総評)依存、議員党的組織体質を脱却できなかった社会党は、1960年代後半以降の野党の多党化、とくに都市部における公明、共産両党による挟撃や、党の主要な組織基盤である総評の地盤沈下、1977年の江田副委員長の離党、1978年3月の社会民主連合の結成などによって、1969年12月総選挙の敗北以降、長期低落傾向を示し、相対得票率で20%を割り続けた。この間、委員長は、佐々木更三(こうぞう)(1965年5月)、勝間田清一(かつまたせいいち)(1967年8月)、成田知巳(1968年10月)、飛鳥田一雄(あすかたいちお)(1977年12月)と交替したが、党勢の回復はならなかった。

[田口富久治]

第四期

第四期は1980年から1993年7月の総選挙までである。もともと1970年以降の党の基本方針である全野党共闘路線は一方での社共共闘、他方での社公民路線という矛盾をはらんでいたが、1980年1月、当時の飛鳥田執行部は、前年1979年総選挙で進出した中道勢力に接近し、共産党を除外する政権構想を採択し、社公民路線に踏み切った。それに伴って、政策的にも安保・防衛問題で自衛隊の「違憲合法論」を唱えるなど手直しを試みるとともに、1955年「綱領」、1964年「道」にかわる綱領的文書として、1986年1月には「愛と知と力による創造」と題する「新宣言」を採択した。人事面では、1983年9月以来の石橋政嗣(まさし)委員長が1986年7月の衆参同時選挙での惨敗(衆院議席86)ののち辞任、党内公選で土井たか子を委員長に選んだ(同年9月)。政治路線の「現実化」と新人事が党再建につながるか注目され、1989年(平成1)7月参院選挙、1990年2月総選挙で議席を大幅増、低落傾向に歯止めをかけた。

[田口富久治]

第五期

1993年総選挙から「社会民主党」への党名変更まで。1993年7月総選挙の結果、自民党が過半数割れをおこし、8月には8党派の連立による細川護熙(もりひろ)政権が成立するが、社会党はこの連合政権に加わった。しかし、翌1994年4月の羽田孜(つとむ)内閣の発足に際しては、新生党などによる統一会派「改新」の結成に反発して、社会党は与党から離脱し、同年6月30日には、村山富市(とみいち)社会党委員長を首班とする自民・社会・新党さきがけの連立による村山内閣が成立した(1996年1月まで)。そして、1996年1月19日に開催された日本社会党第64回大会で社会党は党名を社会民主党に変更し、半世紀に及ぶ歴史をひとまず閉じたのである。

[田口富久治]

『『資料日本社会党50年』(1995・日本社会党中央本部機関紙広報委員会)』

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改訂新版 世界大百科事典 「日本社会党」の意味・わかりやすい解説

日本社会党 (にほんしゃかいとう)

日本の社会主義政党。明治期のものと戦後から現在までのものの二つがある。

(1)1906年(明治39)1月14日西川光二郎らが普通選挙の期成を目的に掲げて結党した日本平民党と同28日に堺利彦らが結党届を出して許された日本社会党が,2月24日合同大会を開いて正式に発足した政党。同党は規約第1条で〈本党は国法の範囲内に於て社会主義を主張す〉とうたい,1901年の社会民主党平民社の議会主義的立場を継承し,結党以前から刊行されていた《光》が機関紙となった。結党後,電車運賃値上げ反対運動などを展開したが,同年6月にアメリカから帰国した幸徳秋水が議会主義路線に疑問を投じ直接行動論に転じたため,翌07年1月15日から刊行された日刊《平民新聞》に両論をめぐる議論が展開され,2月17日の第2回大会は幸徳の直接行動論と田添鉄二の議会主義論の対立で激論の場となった。西園寺公望内閣は幸徳らの主張が過激との理由で同月22日に党の結社を禁止し,4月14日には《平民新聞》も廃刊に追い込まれた。以後,日本の社会主義運動は幸徳・堺派と片山潜・田添派に分裂し対立した。

(2)敗戦後まもない1945年9月22日,安部磯雄高野岩三郎賀川豊彦の呼びかけで準備会が発足し,11月2日に共産党を除く戦前の無産政党関係者で結成した政党。結党の実質的推進者は西尾末広平野力三,河野密の3人で,書記長には旧右派の社会民衆党系の片山哲が就任した。反共右派主導で発足し,その新憲法構想も〈国家主権論〉で天皇制の修正存続を考えていた。したがって,46年初頭,山川均の提唱や野坂参三の帰国を機に盛り上がった民主(人民)戦線運動にもその反共主義の立場から参加しなかった。社会党は,46年4月の戦後第1回総選挙で自由党の140,進歩党の94に次ぎ92議席をえて第三党となった。47年の二・一ストをピークとする労働運動の高揚を背景に4月の選挙では143人の当選者をえて第一党となり,社会7,民主7,国民協同2の閣僚ふりわけによる片山首班3党連立内閣を組織した。片山内閣は新憲法に基づく国家公務員法,新警察法の制定,民法改正などを実現したが,炭鉱国家管理法制定のほか社会主義政党らしき政策は実施しなかった。反対に経済再建のため労働賃金を抑制したため,同年12月には鈴木茂三郎らの左派五月会は党内野党宣言をした。鈴木を委員長とする衆議院予算委員会が,官公庁職員の賃上げ財源を鉄道運賃と郵便料金の値上げに求めた政府の補正予算案を否決したため,片山内閣は48年2月10日総辞職した。つづく民主党の芦田均内閣にも西尾の副総理はじめ8人が入閣したが,そのうち加藤勘十,野溝勝は五月会の反対を押して入閣したため左派も分裂し,同年12月黒田寿男らは労働者農民党を結成した。芦田内閣は政令201号で国家公務員の団体交渉権と争議権を剝奪して労働者の不満をかい,昭電疑獄で西尾副総理が収賄容疑で逮捕されるなどして,48年10月7日に総辞職。

 片山,芦田内閣での社会党の実態は,1949年1月の総選挙で国民の批判をうけ,片山,西尾ら幹部が落選し48議席に転落した。選挙の結果をうけた4月の再建大会では党の路線と性格づけをめぐって,改良的漸進と国民大衆党を唱える右派と社会主義への革命的変革と階級政党を主張する左派の間にいわゆる〈森戸(辰男)・稲村(順三)論争〉が展開され,左派が進出し書記長に鈴木が選出された。左右の対立は50年1月の第5回大会で人事と青年部問題をめぐり紛糾し党分裂となったが,まもなく妥協が成立し,4月の大会で統一を回復した。党は統一を回復したが,朝鮮戦争が勃発し講和が近接した51年1月の第7回大会では講和と平和問題をめぐってふたたび左右は対立し,空席だった委員長に鈴木が選ばれ,全面講和,中立,基地反対,再軍備反対の平和四原則を確定した。鈴木は〈青年よ再び銃をとるな〉とのアピールを発した。しかし講和会議直後の10月の臨時大会では,左派の講和・安保両条約反対論と右派の講和賛成論が対立して,左・右両社会党に分裂した。

 分裂時の代議士の数は右社30名,左社17名であったが,左社の平和路線が大衆の共感をうると同時に,伸張しつつあった総評(日本労働組合総評議会)との連係が強化され,1953年4月の総選挙では左社72,右社66と逆転し,55年2月選挙でも89対67と左社が優位にたった。両社会党の勢力伸張と保守陣営内の抗争激化によって政権が近いと判断した両党は,一部の反対を抑えて綱領および人事面で妥協し,55年10月に再統一して,委員長鈴木茂三郎,書記長浅沼稲次郎となった。社会党再統一後の11月,保守合同によって成立した第3次鳩山一郎内閣が公然と憲法改正,再軍備の方針に踏み出すと,社会党は護憲平和の旗を掲げて対決し,56年7月の参議院選挙では改憲阻止勢力3分の1を確保した。岸信介内閣による日米安全保障条約改定に対しては,共産党との関係も改善した広範な平和勢力を結集した安保改定阻止国民会議を組織して戦後最大の政治的大衆運動を指導し,国会においても条約改正の問題点を厳しく追及した。しかし,この間に西尾末広を中心とする右派は共産党との絶縁,安保闘争を条件闘争にすることを要求したがいれられず,脱党して60年1月に民主社会党(のち民社党と改称)を結成した。60年安保闘争の終結後,浅沼委員長が右翼の青年に刺殺されて書記長江田三郎が最高指導者になった。江田は同年10月の臨時大会で経済構造を改良しつつ社会主義に至るという構造改革の路線を提唱した(構造改革論)。社会主義協会を中心とする左派はこれを改良主義と批判して鋭く対決し,62年12月の第22回大会で江田の書記長辞任に追い込み,成田知巳が後任書記長となり,次いで64年12月の第24回大会で,労働者階級を中核とする広範な反独占国民戦線に依拠した社会主義政権に至る過渡的政府を構想する〈日本における社会主義への道〉という綱領的文書を採択して構造改革路線を事実上否定した。

 1960年代後半から70年代初頭にかけて,党は社共共闘を軸に東京都はじめ全国の主要な自治体で革新首長を実現し,また国政選挙での自民党の後退もあって,74年1月の第37回大会で護憲,民主,中立の国民戦線を基礎に全野党連合による国民統一政府の構想を発表した。しかし党自体は国会議員選挙では1969年総選挙の敗北を中心に長期低落を続け,79年選挙で得票率20%を割った。党員数も停滞ぎみで,機関紙《社会新報》日刊化も実現されず,いずれも共産党や公明党から大きく水をあけられ,加えて党の主要な基盤であり実質的に党活動を支え代位してきた総評も民間組合員数では民社党支持の同盟に抜かれ,従来保ってきた野党第一党としての指導性は後退した。

 これらの結果,党の方針である全野党共闘も,共産党と公明,民社両党との対立に牽引されて実現せず,公明,民社に接近した副委員長江田が77年3月に離党し,ついで離党した田英夫らは78年3月に社会民主連合を結成するに至る。80年1月,党は前年の総選挙で進出した中道に接近し,共産党を除外する政権構想を採択して社公民路線に踏み切った。86年9月初の女性党首となった土井たか子は〈市民との連帯,女性の政治進出〉を呼びかけ,87年4月の選挙では道府県議会議員71人増の大勝をもたらした。勢いに乗った土井社会党は89年7月の参議院議員選挙でも,参議院自民党を過半数割れに追い込み,続く90年2月の総選挙では140と前回から55議席増加させたが,土井ブームも,91年4月の統一地方選挙で敗北して終りを告げた。

93年8月には保革連立政権である細川護煕内閣へ参加し,9月には村山富市が委員長に就任した。94年6月末に自民党,新党さきがけと連立して村山首班の政権を樹立したが,自民党を主力とする連立政権のなかにあって,村山首相は7月に国会で自衛隊合憲論を表明し,9月の臨時大会では自衛隊合憲,日米安保堅持,日の丸・君が代を認知するなど,従来の基本路線を全面的に転換し,保守勢力の政策に著しく接近した。

 基本路線転換後の95年4月の統一地方選挙,6月の参議院議員選挙で大敗を喫し,翌96年1月の村山内閣総辞職後の第64回定期大会において党名を社会民主党に看板替えすることで半世紀に及ぶその歴史の幕を閉じた。社会民主党からは,社会党の〈変質〉に反対するグループや,鳩山由紀夫・菅直人をリーダーとする民主党に合流するグループなど多数の離脱があいついだ。
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百科事典マイペディア 「日本社会党」の意味・わかりやすい解説

日本社会党【にほんしゃかいとう】

(1)最初の合法的社会主義政党。1906年1月14日に西川光二郎らが日本平民党を,同28日に堺利彦らが日本社会党を届け出,それぞれ許可され,両党は合同して2月24日に日本社会党第1回大会を開いた。党員約200人。普通選挙運動(普選運動)や足尾鉱毒事件などをたたかい,機関紙《平民新聞》を発行。1907年第2回大会で闘争方針をめぐり幸徳秋水田添鉄二が対立。2月22日結社禁止を命じられ解散。(2)第2次大戦前の無産政党各派が安部磯雄らの呼びかけにより結集して1945年11月結成した社会民主主義政党。平野力三西尾末広片山哲らが参加。1947年の総選挙で第1党となり,日本民主党・国民協同党とともに3党連立内閣を実現した(片山哲内閣)。国民の期待にこたえる政策は実現できず,党内左派からの批判も加わり1948年2月に崩壊。以後左右の対立は続き,サンフランシスコ講和条約をめぐり1951年左右に分裂。しかし,保守党の憲法改正の企てを阻止するため1955年両派は統一し,日本労働組合総評議会(総評)との連係を発展させた。1960年日米安全保障条約の改定をめぐり再び対立激化し,脱党した西尾らの右派は民主社会党(民社党)を結成。1969年末総選挙で後退。党再建案をめぐって,成田知巳委員長と江田三郎書記長が対立。1970年から成田委員長・石橋政嗣書記長体制が発足。1977年江田は離党して社会市民連合(社会民主連合)を結成,また7月の参議院選での敗北で成田は委員長を辞任。代わって飛鳥田一雄が委員長に就任。マルクス=レーニン主義的なイデオロギー色を極力薄めて大衆政党に転身,中道寄りの姿勢を強めた。1986年土井たか子が委員長に就任,小政党を除いて日本最初の女性党首となり,1989年の参議院選挙で躍進した。1991年田辺誠,1993年1月に山花貞夫,同年9月に村山富市が委員長に就任。1993年の細川護煕(もりひろ)内閣に参加して政権の一翼を担ったが,1994年4月の羽田孜(つとむ)内閣では連立から離脱,同6月の羽田内閣総辞職後,自由民主党新党さきがけとの連立により,村山を首班とする連立内閣が成立した。村山首相は自衛隊,日米安保,日の丸,君が代を容認し,同年9月の党大会でもこの歴史的路線転換を認めた。1996年1月突然の辞任で首相の座をおりた村山委員長は政界再編への対応から党名を社会民主党に変更した。路線転換や新党構想に反対する議員の離党,さらに同年9月の民主党結成に多数の所属国会議員が離党して参加するなど党勢は凋落を辿り,自民党橋本内閣への閣外協力を離脱して臨んだ1998年7月の参議院選挙でも惨敗。さらに,北朝鮮による日本人拉致問題に関連して,旧日本社会党以来の朝鮮労働党との関係が問われ,2003年の衆議院総選挙では,6議席にまで議席数を減らし,党首は,土井たか子から福島瑞穂に交代した。その後も党勢が回復しない状態が続くが,2009年8月の衆議院総選挙で,民主党が圧勝,社民党は,国民新党とともに民主党と中心とする連立政権に参加し与党となり,鳩山由紀夫内閣で,福島党首が,特命担当大臣(消費者及び食品安全,少子化対策・男女共同参画担当)として入閣を果たした。沖縄米軍基地問題をはじめ日米同盟に関する社民党としての基本政策を,連立政権のなかで調整することができるかどうか,注目されている。
→関連項目浅沼稲次郎芦田均内閣飛鳥田一雄太田薫海部俊樹内閣風見章加藤勘十加藤シヅエ神近市子河上丈太郎55年体制向坂逸郎佐々木更三社会主義インターナショナル鈴木善幸鈴木文治鈴木茂三郎日本橋本龍太郎橋本龍太郎内閣羽田孜松岡駒吉宮沢喜一内閣村山富市内閣森近運平山口孤剣横路孝弘労農党

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「日本社会党」の意味・わかりやすい解説

日本社会党
にほんしゃかいとう

日本の政党。1945年11月2日,第2次世界大戦前の無産政党各派を糾合して結成された。1947年の衆議院議員総選挙で第1党となり,民主党国民協同党と連立して片山哲内閣を組織し,続く民主党主導の芦田均内閣にも協力,党員を入閣させた。しかし,公約の社会主義的政策を実現することができず,1949年の総選挙では議員数を激減させた。1951年に対日講和条約の賛否をめぐって左派と右派に分裂,1955年の統一回復までの時期に左派社会党日本労働組合総評議会(総評)との結合を緊密化し,勢力を伸長した。1960年1月西尾末広派を中心とした右派の一部が脱党して民主社会党を結成。綱領には平和的,民主的方法による社会主義の実現,議会主義平和革命がうたわれているが,党内労農派マルクス主義者から右派構造改革論者(→江田三郎)までの幅広い人的構成となっている。内政では護憲,外交では反日米安全保障条約非武装中立論が政策の基調だった。1986年9月,土井たか子が委員長に就任。日本憲政史上初の女性党首として人気を呼び,1988年の参議院議員通常選挙では与野党逆転を果たし,1990年2月の総選挙では 136議席を獲得した。しかし 1993年7月の総選挙ではわずか 70議席しか獲得できず,結党以来の惨敗となり山花貞夫委員長が引責辞任新生党などと細川護煕連立内閣を形成した。1994年4月細川内閣総辞職後の統一会派結成の是非をめぐり連立政権から離脱,自由民主党新党さきがけと組み,村山富市が片山哲以来 47年ぶりの社会党首相となった。同時に政権政党として党の路線を民主・リベラルに転換した。1996年1月5日村山首相は辞意を表明,橋本龍太郎自民党総裁に首相の座を譲った。同 1月19日の社会党第64回定期大会で党名を社会民主党(略称社民党)に変更,これにより日本社会党の名称は消滅した。

日本社会党
にほんしゃかいとう

日本の政党。 1906年2月片山潜,堺利彦,西川光二郎らによって結成された最初の合法的無産政党。『平民新聞』を発行し,東京市電争議足尾銅山争議などに積極的な役割を果したが,07年2月政府に結社を禁止されて解散した。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「日本社会党」の解説

日本社会党
にほんしゃかいとう

1明治末期の合法的社会主義政党。1906年(明治39)1月,西川光二郎(みつじろう)らが日本平民党,堺利彦らが日本社会党の結党届を提出し,リベラルといわれた第1次西園寺内閣はこれを受理。翌月,両党が合同して日本社会党を結成した。正式党員は約200人。機関誌は半月刊「光」と復活した日刊「平民新聞」。普選運動,東京市電運賃値上げ反対運動,足尾銅山争議などを支援。党内に片山潜・田添鉄二らの議会政策論と幸徳秋水らの直接行動論との対立が発生し,07年2月の党大会で両派は激突。西園寺内閣は結社禁止を命令した。

2第2次大戦後の政党。1945年(昭和20)11月,戦前の無産政党の諸系列を大同団結して結成。連立ながら47年片山内閣,48年芦田内閣と続いて政権を担当した。51年にサンフランシスコ講和への対応をめぐって左右に分裂したが,55年10月に統一。以後,護憲を掲げて野党第1党の地位を保つが,60年には右派が離党して民社党を結成し,その後も左右両派は対立した。86年にマルクス主義を払拭した新綱領を採択し,89年(平成元)労働組合の統一組織「連合」の結成で総評とのブロック体制が崩れ,転機を迎えた。94年7月,委員長村山富市を首班として,自民党・新党さきがけと連立内閣を発足させた。96年1月,社会民主党と改称。

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旺文社日本史事典 三訂版 「日本社会党」の解説

日本社会党
にほんしゃかいとう

①1906(明治39)年結成された最初の合法的社会主義政党(〜'07)
②第二次世界大戦後結成された社会民主主義政党
堺利彦・片山潜らが西園寺公望 (きんもち) 内閣成立に乗じ結党。普選運動や市電値上げ反対・足尾銅山争議などの支援を行う。翌1907年禁止。
1945年11月2日,戦前の無産政党を統一結集して成立。'47年第一党となり日本民主党・国民協同党とともに片山哲内閣を組織。つぎの芦田均内閣でも与党であったが,昭和電工疑獄事件などで大衆の支持を失った。'51年サンフランシスコ平和条約への批准賛否をめぐり左右両派に分裂し,'55年再統一。護憲運動・原水禁運動などで活躍。'60年右派の一部は脱党して民主社会党('69年民社党)を結成。野党第一党ではあるが党勢は横ばいを続け,党内では路線の対立もみられた。'94年委員長村山富市が首班となり連立内閣を組閣。リベラル新党をめざし,'96年社会民主党と改称。しかし,55年体制の崩壊以降,民主党などの新党が誕生する中での状況は厳しいものがある。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

世界大百科事典(旧版)内の日本社会党の言及

【55年体制】より

…1955年(昭和30)秋に,左右両派社会党の統一によって再発足した日本社会党と,日本民主党と自由党の保守合同によって結成された自由民主党の2党を軸として成立した政党制をいう。
[背景]
 1951年にサンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約の締結への賛否をめぐって左右両派の対立が激化,分裂してから4年ぶりに統一した社会党と,戦後の保守勢力の離合集散に終止符を打って誕生した自民党によって,政治勢力が2極的に配置される形となり,この体制は,二大政党制の幕開けとして広く歓迎された。…

【堺利彦】より

…平民社創立の1周年には幸徳との共訳による《共産党宣言》を掲載する。同紙廃刊後も《直言》や《光》によって運動を継続し,06年2月日本社会党を結成し評議員となる。同党が議会政策派と直接行動派の対立を招いた際には中間的な立場から両者の仲介に努めるなど,運動の組織者としての優れた資質をもつ。…

【東京市電値上反対事件】より

…1906年3月1日,東京市内の東京市街鉄道,東京電車鉄道,東京電気鉄道の3会社が各3銭均一の電車賃を3社共通5銭均一に値上げする申請を府知事と警視総監に提出した。結党直後の日本社会党は党勢拡張もかねて国家社会党とともに反対運動に取り組み,演説会・市民大会の開催,ちらし配布等を行った。田川大吉郎らの自由主義者や一般市民も加わり運動は盛り上がった。…

※「日本社会党」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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