共同通信ニュース用語解説 「日産自動車」の解説
日産自動車
1933年設立の自動車大手で、本社は横浜市。90年代後半に経営危機に陥り、フランス大手ルノーと資本提携した。ルノー、三菱自動車と3社で企業連合を組む。米国などでは高級車ブランド「インフィニティ」を展開している。2024年3月期連結決算の売上高は12兆6857億円と過去最高を記録した。純利益は4266億円だった。
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1933年設立の自動車大手で、本社は横浜市。90年代後半に経営危機に陥り、フランス大手ルノーと資本提携した。ルノー、三菱自動車と3社で企業連合を組む。米国などでは高級車ブランド「インフィニティ」を展開している。2024年3月期連結決算の売上高は12兆6857億円と過去最高を記録した。純利益は4266億円だった。
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日本を代表する世界的自動車メーカー。鮎川義介(あいかわよしすけ)の率いる日産コンツェルンの本社である日本産業株式会社と戸畑鋳物株式会社の共同出資により、1933年(昭和8)自動車製造株式会社が設立され、翌年日産自動車と改称。同社は快進社が開発したダットサンの製造権を譲り受け、横浜に工場を建設して大量生産に着手。1936年には自動車製造事業法による許可会社に指定されたが、第二次世界大戦時は乗用車の生産を制限され、生産はトラックに集中していった。
第二次世界大戦後は朝鮮戦争特需をきっかけに復興し、1952年(昭和27)イギリスのオースチン社と技術提携し、オースチン車のノックダウン生産を開始したが、これは日産の乗用車量産技術の向上に大きく貢献することになった。そして1959年に小型車ブルーバードを、60年に中型車セドリックを発表。ブルーバードは日本で進行しつつあったモータリゼーションを背景にドル箱の車種となった。さらに大型車プレジデント、大衆車サニーを発売して車種の多様化を図り、1966年には資本の自由化を控えてスカイラインなどを生産するプリンス自動車工業を合併して企業力の強化を図った。その後も新車種を加えて需要の多様化に対処するフル・ライン体制をとっている。1970年代に入ると、第一次石油危機以降、燃費と品質の良さが評価されて対米輸出の増加が目覚ましく、高水準の技術を蓄積するとともに、日産車のイメージが高まった。1980年代には、80年に米国日産自動車製造会社を、84年に英国日産自動車製造会社を設立するなど、貿易摩擦を背景に欧米での海外生産が本格化し、ヨーロッパや北米で地域統括会社を設立してグローバル体制の確立を目ざした。しかし、1990年代に入って、国内需要の低迷など経営環境が急変した。座間(ざま)工場の閉鎖などのリストラクチャリングに取り組んだが、多額の有利子負債を抱えるなど厳しい経営状況に陥り、世界主要自動車メーカー再編のなかでの生き残りをかけて、1999年(平成11)フランスのルノー社との資本提携に踏み切った。ルノー出身のカルロス・ゴーンが同年6月に最高執行責任者(COO)に就任(2001年6月最高経営責任者=CEOとなる)、ゴーンの発表した「日産リバイバル・プラン」のもと、村山工場をはじめとする国内5工場の閉鎖など再生計画を進め、2001年3月期決算では4年ぶりに黒字転換した。資本金6058億円(2008)、売上高3兆9232億円(2008)。
[中村青志]
『日産自動車株式会社編・刊『日産自動車三十年史』(1965)』▽『日産自動車株式会社編・刊『日産自動車社史1964―1973』(1975)』▽『日産自動車株式会社編・刊『日産自動車社史1974―1983』(1985)』▽『日産自動車株式会社編著『日産自動車のTPM』(1993・日本ブラントメンテナンス協会)』
日本で有数の自動車メーカー。1933年に日本産業(株)(1928設立)と戸畑鋳物(株)(1910設立)の共同出資により自動車製造(株)として,ダットサン車の製造などを目的に設立された。34年に社名を日産自動車(株)と改称,35年から当時としては画期的な大量生産方式を導入し,本格生産を開始した。第2次大戦中は自動車生産を縮小させる一方で航空機エンジンの生産を始め,44年には社名を日産重工業(株)に変更した。戦後は,46年7月にトラック,47年8月に乗用車の製造が再開され,49年に社名も日産自動車(株)に復帰した。52年にイギリスのオースティン社と技術提携(1960年まで)し,オースティン車のKD(ノックダウン)生産を始め,56年には完全国産化を達成した。1953年には日産争議がおこっている。60年代前半に追浜(おつぱま)(乗用車),座間(トラック)両工場の建設で量産体制を確立,66年には資本自由化に備えプリンス自動車工業(1950年富士精密工業として設立,61年改称)を合併し,68年に富士重工業と生産委託などの業務提携を結ぶなど,生産基盤を確固たるものにした。その後モータリゼーションの進展による内需の拡大,技術水準の向上による輸出の伸びを背景に生産規模は急成長を遂げ,80年には生産台数265万台と最高を記録した。その後,日本車輸出に対する批判のなかで81年からの対米乗用車輸出自主規制,また国内での自動車普及率がほぼ上限に達し国内市場が成熟段階に達していることなどにより自動車生産台数は頭打ちとなっている。86年にはイギリスでの乗用車生産を開始し,90年アメリカのフォード社との共同開発に調印(1992年ミニバン生産開始)など海外展開を進めている。90年代に入り経営が悪化。99年からフランスのルノーの傘下で再建に取り組み,2000年代に入って成果を上げている。資本金6058億円(2005年9月),売上高8兆5763億円(2005年3月期)。
執筆者:鈴木 明彦
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…第2次大戦後の合併のなかで大きな関心を集めたのは,1965‐70年前後の大型合併である。1964年の三菱三重工の合併(三菱重工業が発足),大阪商船と三井船舶の合併(対等合併で大阪商船三井船舶が発足),65年の神戸製鋼所と尼崎製鉄の合併(神戸製鋼所が存続),66年の東洋紡績と呉羽紡績の合併(東洋紡績が存続),67年の日産自動車とプリンス自動車の合併(日産自動車が存続),70年の八幡製鉄と富士製鉄の合併(対等合併で新日本製鉄が発足)などである。とくに八幡,富士の二大製鉄所の合併は,1968年4月の両社の合併の決意表明以降,実業界や通産省の賛成論と経済学者の反対論が激しく対立し,活発な議論が行われた。…
…さらに軍用規格車の生産に関しては,このわずかの需要を,ダット自動車製造,石川島自動車製作所(1929年東京石川島造船所より分離),東京瓦斯電気工業(1910設立)の自動車部の3社が分け合っていることに問題があるとして,東京自動車工業(いすゞ自動車の前身)が37年に設立され,同社に上記3社が合併する形で合同した。一方,日産コンツェルンでは戸畑鋳物と日本産業との共同出資によりダットサンの製造営業権を継承して1933年自動車製造を設立,34年に日産自動車と改称した。また豊田自動織機製作所では1933年自動車部を設立し,37年にトヨタ自動車工業(現,トヨタ自動車)として独立させた。…
※「日産自動車」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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