改訂新版 世界大百科事典 「時代劇映画」の意味・わかりやすい解説
時代劇映画 (じだいげきえいが)
〈現代劇〉に対して,平安時代から明治維新前後までの過去の〈時代〉を題材にした演劇,映画,テレビドラマなどを総称して時代劇という。その〈時代〉の衣装を着た人物が登場するという意味で英語の〈コスチューム・プレーcostume play〉という呼称がこれに相当する訳語として使われる場合が多い。時代劇映画は日本映画独特のジャンルで,その起源と歴史をたどることは,そのまま日本映画史をたどることになろう。というのも,日本映画は草創期から(少なくともその80余年の歩みの前半期までは)時代劇を中心にして栄えてきたといっても過言ではないからである。
旧劇から時代劇へ
前史=旧劇の隆盛
1914年10月19日の《都新聞》の活動写真評に〈活劇か変化物でなければ夜も日も明けぬ〉とあるように,まず1910年代に立回りを見せ場にした〈時代劇〉の一大ブームが起こる。映画が活動写真と呼ばれていたように時代劇映画という呼称はまだなく,現代ものの〈新派〉に対して〈旧劇〉と呼ばれていた。この旧劇ブームの中心になったのは映画スター第1号の〈目玉の松ちゃん〉こと尾上松之助で,1909年のデビュー作《碁盤忠信・源氏礎》以来,おもに映画監督第1号の牧野省三と組んで,12年に創立された本格的な映画会社第1号の日活(日本活動写真株式会社)を舞台に,26年に死ぬまで,1000本以上の作品に出演して,絶大な人気を博した。これ以前の映画は歌舞伎や新派演劇の模写がほとんどであったから,尾上松之助を中心とする旧劇ブームとは,すなわち映画らしい映画の隆盛を意味した。松之助映画は1911年に始まった〈立川文庫〉に取材したものが多く,はでな忍術合戦や立回りを見せ場に,豪傑,剣客,義賊,忠臣,俠客などの活躍を描いた。14年創立の天活(天然色活動写真株式会社)では,日活の尾上松之助に対抗して沢村四郎五郎をスターとして押し立て,吉野二郎監督のもとに同工異曲の作品を量産,さらに数々のスターを生んだ。
時代劇の語源
このブームの中で〈旧劇〉は〈時代劇〉に変貌していくのだが,変貌の核心となったのは,旧劇の魅力の中心である立回り=チャンバラ(刀で斬り合う音や状態を表す〈ちゃんちゃんばらばら〉の略)の近代化で,当時,大人気を博したフランスやアメリカの連続活劇や1917年創立の新国劇における迫真的な立回りの影響によって,スピード感のあるリアルなチャンバラが映画に現れた。この近代化は,旧劇ブームの頂点である18年に行われた〈新派〉における革新の動き,いわゆる〈純映画劇運動〉とも照応している。こうして,23年という年を中心に,いくつかの動きが〈時代劇〉を生み出すことになる。
まず,松竹が1922年,伊藤大輔脚本,野村芳亭監督,勝見庸太郎主演《清水次郎長》を〈純映画化されたる旧劇〉と宣伝して公開し,翌23年,同じトリオによる《女と海賊》を〈新時代劇映画〉と銘打って世に出した。これが〈時代劇〉という呼称の始まりで,伊藤大輔はその間の経緯を次のように記している(《時代映画》1955年5月号)。〈旧劇を新派並みの“映画劇”にまで引き上げる試みの一つとして,従来の歌舞伎系統の俳優は一切使わないで,新劇ないし素人および女優による旧劇を作ってはどうだろうと提案〉して,《女と海賊》を撮影し,〈出来上がって,さて発表するに当たり,この新様式の旧劇を何という名称で市場に出すかの論議の末,かりに“新時代劇映画”と名づけることにきまった〉。〈時代〉という語は歌舞伎における〈時代物〉〈世話物〉という区分にならったもので,〈“世話物”がその時勢相に立脚した現代劇であるのに対して,現代劇でないものは“時代劇”で構わんではないかという乱暴な説の方が勝ちを制し,が,さりとていささか気が咎めないものでもないテレかくしに“新”の字をかぶせて“新時代劇映画”と呼ぶ,何とも素姓の怪しい名称が誕生した〉。そして《女と海賊》が〈大へんな大当たりだったので,それ以後,他社の旧劇写真も新派映画なみに規格を上げて扱われはじめ,いつの間にか“新”を取り除いて“時代劇”と呼ぶことにきまってしまった〉ということである。
活劇としての時代劇
また同じ1923年,帝国キネマでデビューした市川百々之助は,〈猛闘劇〉と呼ばれたほど立回りの激しい時代劇の美貌スターとして,一躍大人気を得て,《長兵衛売出す》《剣難女難》などで女性観客をひきつけた。〈時代劇〉の名称を生んだ松竹以上に旧劇革新を遂行したのは,松之助映画を世に送り出した牧野省三である。日活を離れた牧野省三は,みずから映画会社を興し,1922年,歌舞伎的様式から脱した《実録忠臣蔵》をつくったあと,翌23年,型破りのチャンバラ映画を出現させた。寿々喜多呂九平(すすきだろくへい)脚本,金森万象監督,市川幡谷主演《浮世絵師・紫頭巾》がそれで,画面展開のスピード感,物語の怪奇ロマン的魅力,虚無的な人物像のなまなましさ,そして真剣を用いた立回りの迫真性と,あらゆる点で新鮮さに満ちていた。この作品の大ヒットに続いて,マキノ映画では,沼田紅緑監督《鮮血の手型》《討たるゝ者》や二川文太郎監督《逆流》《江戸怪盗伝・影法師》等々,寿々喜多呂九平脚本の時代劇が連作され,これらに主演した阪東妻三郎は一躍スターになって,〈剣戟(けんげき)王〉とまでいわれた。そして,阪東妻三郎は独立し,寿々喜多・二川コンビと組んで,浪人の抵抗と反逆の心をすさまじい乱闘シーンの爆発で表現した《雄呂血(おろち)》(1925)をつくった。
これら寿々喜多呂九平作品には,画面展開と人物の動きの快走感の点で,明らかにアメリカ連続活劇の影響が見られ,寿々喜多・二川コンビの高木新平主演《快傑鷹》(1924)は,ダグラス・フェアバンクス主演《奇傑ゾロ》の翻案であった。ほかにも,市川百々之助《神出鬼没》が《奇傑ゾロ》の,市川荒太郎主演《黒法師》が《ロビン・フッド》の翻案といえる。つまり,1923年にさまざまな形で行われた〈旧劇〉の近代化とは,外国の連続活劇の大きな刺激と影響に基づく〈活劇としての時代劇〉の確立にほかならなかった。
→活劇映画
時代劇の革新
1923年を画期とみなす理由には,もう一つ,この年9月1日の関東大震災の影響がある。大震災後,日活,松竹が東京から京都へ映画製作の拠点を移したことや,京都のマキノ映画の活躍によって,京都は〈日本のハリウッド〉と呼ばれるまでになり,古い建物や風景を生かして時代劇づくりがいっそう盛んになった。マキノからは,《刃光》《美丈夫》の月形竜之介,《黒髪地獄》《快傑夜叉王》の市川右太衛門,《鞍馬天狗余聞・角兵衛獅子》の嵐長三郎(嵐寛寿郎),《万花地獄》の片岡千恵蔵など,新しい時代劇スターが続出した。また,松竹は,阪東妻三郎プロダクションと組んで,〈東山三十六峰静かに眠る。たちまち深き夜の静寂破る剣戟の響き……〉という活弁の名調子を生んだ志波西果監督《尊王》(1926)などをつくるとともに,《稚児の剣法》(1927)で林長二郎(長谷川一夫)を一大宣伝作戦のもとに新スターとして売り出し,それまでの荒々しい立回りとは違ったやさ型の剣と美貌によって女性の人気を集め,時代劇の新生面を開いた。林長二郎と多くコンビを組んだ監督は衣笠貞之助で,《お嬢吉三》《鬼薊(おにあざみ)》《鯉名の銀平》《沓掛時次郎》《雪之丞変化》などにおいて林長二郎を育て,その間,立回りのない実験的な時代劇《十字路》(1928)をつくった。
反逆の時代劇
日活は時代劇革新の波にもっとも遅れていたが,尾上松之助の1000本記念作品《荒木又右衛門》や《忠臣蔵》では,池田富保監督が新しい様式に挑んだ。そして尾上松之助の死後,河部五郎を後継スターとして時代劇を量産するうち,まもなく日活が時代劇における決定的な大変革をもたらした。すなわち,〈時代劇〉の呼称を生み出した伊藤大輔がみずからの脚本,監督のもと,《長恨》に続いて新スター・大河内伝次郎と組んだ《忠次旅日記》三部作(1927)の出現である。この作品は,あくまで時代劇ならではの手法を駆使して1人の無法者の流転と敗残の姿を描きつつ,現代的ともいえる人間の感情をなまなましく表現して,時代劇を超える時代劇として絶賛され,以後,日本映画史上の最高傑作の一つとみなされている。また,伊藤大輔は,河部五郎主演《下郎》(1927)で封建的な階級制度を批判して〈傾向映画〉の先駆となるとともに,大河内伝次郎主演《新版大岡政談》(1928)で型破りのヒーロー・丹下左膳を生み出した。一方,大スターが次々に独立していったマキノ映画では,山上伊太郎脚本,マキノ正博(雅弘,雅裕)監督のコンビで,南光明主演《蹴合鶏》《崇禅寺馬場》(ともに1928),南光明,根岸東一郎,谷崎十郎主演《浪人街》三部作(1928-29),河津清三郎主演《首の座》(1929)と,新鮮な感覚に満ちた時代劇の傑作がつくられた。逆境にある人間の反逆をチャンバラ活劇として描く点では,寿々喜多呂九平から伊藤大輔へ,そして山上・マキノのコンビへと連続していて,その過程で虚無的な反逆精神は一種の社会批判にまで高まったといえる。そして,それがいわゆる左傾化した〈傾向映画〉の動きと結びついて,伊藤大輔監督《一殺多生剣》《斬人斬馬剣》,辻吉朗監督《傘張剣法》,古海卓二監督《日光の円蔵》(ともに1929)を生み,内田吐夢監督《仇討選手》(1931)まで,多くの問題作を出現させた。
小市民映画と鳴滝組
世界大恐慌による不景気,戦争への歩みといった暗い世相の中,映画はサイレントからトーキーへと移り変わり,一方に検閲の強化もあって,時代劇は大きく変貌していく。その渦の一つの中心となったのは片岡千恵蔵プロダクションで,伊丹万作監督が《逃げ行く小伝次》《花火》などを経て,ほんものの剣聖がにせものに敗れるという話の《国士無双》(1932)で諧謔(かいぎやく)と風刺の精神を明朗かつ知的に打ち出し,《闇討渡世》(1932)では同じ姿勢で平手造酒の孤独を描いて,伊達騒動を背景にした《赤西蠣太》(1936)でその知的散文精神に基づく映画づくりを完成させる一方,稲垣浩監督《瞼の母》《一本刀土俵入り》(ともに1931),《弥太郎笠》(1932)などが,哀愁と明朗さに満ちた股旅もの映画のスタイルをつくり出した。いずれも片岡千恵蔵主演作品である。同じころ,山中貞雄監督が嵐寛寿郎プロダクションから《磯の源太・抱寝の長脇差》(1932)でデビューし,映画的文体のみごとさと抒情の美しさによって絶賛され,さらに嵐寛寿郎と組んだ《小判しぐれ》《口笛を吹く武士》などのあと,大河内伝次郎主演で風刺性にあふれた《盤嶽の一生》(1933),詩情豊かな人情劇《国定忠治》(1935),市井の人々を描いた《丹下左膳余話・百万両の壺》(1935)をつくり,長屋に住む人々の生を透徹したペシミズムで描写した《人情紙風船》(1937)でその作風を頂点に達せしめた。
稲垣浩や山中貞雄と多く組んだ脚本家は三村伸太郎で,小市民的感覚によって自由人としての股旅やくざ像を造型した点に特色がある。当時,京都の鳴滝に住んでいた三村伸太郎,稲垣浩,山中貞雄,八尋不二,滝沢英輔,藤井滋司,土肥正幹,萩原遼の8人は,鳴滝組と称し,梶原金八という共同ペンネームのもと,数々の新しい時代劇の脚本を書いた。彼らの作品の多く,とりわけ伊丹万作,山中貞雄の作品は,時代劇すなわち剣戟映画というイメージを打破するものであり,現代的な知性と感覚で人間を描いて〈髷をつけた現代劇〉といわれるとともに,映画的表現においてきわめて高いものであった。こうして1930年前後数年(昭和初期)の時代劇は,たんに日本映画の一ジャンルとして大きく変容し高度になるだけではなく,日本映画そのものの質の向上と深化の中心をなしていたといえる。むろんそのような頂点のすそ野には,数多くの映画会社の興亡のもと,無数の時代劇の秀作,凡作,駄作がひしめきあっていた。当時活躍した時代劇スターとしては,前出のほか,光岡竜三郎,羅門光三郎,大河内竜,阿部九州男,沢村国太郎,海江田譲二,杉山昌三九,坂東好太郎,女優では伏見直江,原駒子,鈴木澄子などがいる。
戦中から戦後へ
映画法とGHQ
第2次世界大戦が始まって,映画法(1939公布)のもとに映画統制が激化する中,山本嘉次郎監督《エノケンのちゃっきり金太》,斎藤寅二郎監督《エノケンの法界坊》,稲垣浩監督,片岡千恵蔵主演《宮本武蔵》三部作,マキノ正博監督,長谷川一夫主演《昨日消えた男》などがつくられたが,時代劇ではなく,すでに熊谷久虎監督《阿部一族》(1938)で試みられたような歴史劇を,との気運が高まり,稲垣浩監督《江戸最後の日》(1941)や溝口健二監督《元禄忠臣蔵》(1941-42)などが生まれて,時代劇は息をひそめていった。第2次大戦後,映画法は廃止されたが,GHQ(連合国総司令部)による規制と検閲が時代劇のうえにのしかかった。45年9月22日,GHQが提示した映画製作方針には,次のような個所があった。〈日本映画および演劇の基本的問題は次のごとし。封建的忠誠および復讐の信条に立脚する歌舞伎的演劇は現代の世界においては通用せず,譎詐殺人および不信が大衆の面前において正当化され個人的復讐が法律を無視して許容される限り,日本人は現代の世界における国際関係を支配する行為の根本を理解し得ないであろう〉。また,11月には,仇討などを禁じた映画製作禁止条項が出された。こうした方針のもと,戦争末期に撮影され戦後初めて完成した時代劇といえる黒沢明監督の〈勧進帳〉パロディ《虎の尾を踏む男達》(1945)は,上映禁止となった(初公開は1952)。
戦後の時代劇
戦後の時代劇は,丸根賛太郎監督の人情もの《狐の呉れた赤ん坊》を第1作に,溝口健二監督《歌麿をめぐる五人の女》,松田定次監督《国定忠治》,伊藤大輔監督《素浪人罷通る》など,チャンバラのまったくない時代劇として出発した。阪東妻三郎,長谷川一夫,大河内伝次郎,片岡千恵蔵,市川右太衛門などの時代劇スターは,なれない現代劇に多く出演し,たとえば片岡千恵蔵や市川右太衛門のギャング映画は,時代劇のパターンを単純に現代劇に移し変えたものであったので,〈髷をつけない時代劇〉とも呼ばれた。
しかし,そうした中でも時代劇はじょじょに息を吹き返し,衣笠貞之助監督,長谷川一夫主演のコンビが往年のヒット作《雪之丞変化》をリメークした復讐劇《小判鮫》二部作(1948-49)が人気を呼び,大曾根辰夫監督,阪東妻三郎主演《影法師》二部作(1950)や稲垣浩監督,大谷友右衛門主演《佐々木小次郎》三部作(1950-51)がチャンバラの魅力を見せた。嵐寛寿郎の《右門捕物帖》《鞍馬天狗》,長谷川一夫の《銭形平次》,片岡千恵蔵の《遠山金四郎》,市川右太衛門の《旗本退屈男》など,その後の人気シリーズが始まったのも,占領下の1949-50年である。この間,黒沢明監督,三船敏郎主演《羅生門》(1950)がベネチア映画祭でグラン・プリを受賞した。かくして占領終結の52年には,萩原遼監督《赤穂城》が戦後初の〈忠臣蔵〉としてつくられるなど,時代劇は本格的に蘇生(そせい)し,54年には時代劇の製作本数が飛躍的に増大して,以後数年,未曾有の時代劇ブームとなっていく。
全盛期からテレビ時代へ
日本映画の全盛期
時代劇の全盛時代の中心となったのは1951年創立の東映で,《遠山金四郎》シリーズの片岡千恵蔵,《旗本退屈男》シリーズの市川右太衛門,《右門捕物帖》シリーズの大友柳太朗,54年正月から始まった〈東映娯楽版〉シリーズ《笛吹童子》《紅孔雀》の中村錦之助(萬屋錦之介),東千代之介,《若さま侍捕物帳》シリーズの大川橋蔵,それに歌手の美空ひばりを加え,この7大スターの主演作,共演作をとっかえひっかえ世に送り出して,〈時代劇王国〉の名をほしいままにした。それらの大部分は勧善懲悪パターンのチャンバラ活劇であり,かつての松之助映画のよみがえりを見ることもできるし,また,製作の中心が牧野省三の二男・マキノ満男(光雄)であったから,1920年代のマキノ時代劇の流れを引くともいえる。大映,松竹でも時代劇が量産され,東宝,新東宝,1954年に製作を再開した直後の日活でも,時代劇づくりが行われた。この時代劇ブームをになったスターには,ほかに,《銭形平次》シリーズの長谷川一夫,《鞍馬天狗》シリーズの嵐寛寿郎,《水戸黄門》シリーズの月形竜之介,《伝七捕物帖》シリーズの高田浩吉,黒沢明監督《七人の侍》《蜘蛛巣城》《隠し砦の三悪人》の三船敏郎,そして大河内伝次郎,近衛十四郎,黒川弥太郎,北上弥太郎(弥太朗),鶴田浩二らがいる。
1950年代の時代劇は,戦争と占領による衰弱の一時期をとびこえて,明らかに1920年,30年代の時代劇の隆盛を引き継いだといえ,戦前の監督たちが精力的に活躍した。《下郎の首》《反逆児》の伊藤大輔,《宮本武蔵》《柳生武芸帳》の稲垣浩,《地獄門》《鳴門秘帖》の衣笠貞之助,《血槍富士》《大菩薩峠》《宮本武蔵》の内田吐夢,《西鶴一代女》《近松物語》の溝口健二,《弥太郎笠》《やくざ囃子》や《次郎長三国志》シリーズのマキノ正博,シネマスコープ第1作《鳳城の花嫁》の松田定次,《東海道四谷怪談》の中川信夫,《決闘鍵屋の辻》《薄桜記》の森一生などである。もとより時代劇の隆盛は日本映画全体の隆盛であり,58年には観客人口が11億を超えて史上最高を記録した。そうした中で時代劇の多種多様化もきわまり,東映からは《一心太助・天下の一大事》の沢島忠,《風と女と旅鴉》《瞼の母》《沓掛時次郎・遊俠一匹》の加藤泰,《関の弥太ッぺ》の山下耕作などが,おもに中村錦之助と組んで現代感覚の時代劇監督として活躍を始め,また,大映では,《座頭市物語》《斬る》の三隅研次,《鯉名の銀平》《手討》の田中徳三,《中山七里》《ひとり狼》の池広一夫が,新スターの市川雷蔵,勝新太郎と組んで,新感覚の時代劇づくりを行った。
時代劇の衰退と日本映画の沈下
60年代に入って,時代劇はいわば大量生産の疲れによる衰えの気配を見せ始め,東映は〈時代劇王国〉から〈やくざ映画王国〉へ変わっていく。その転換のはざまに出現したのが,工藤栄一監督《十三人の刺客》(1963),《大殺陣》(1964)をはじめ《十七人の忍者》《忍者狩り》《十兵衛暗殺剣》などの集団抗争時代劇で,その殺伐たるチャンバラの魅力は,かつての山上伊太郎,マキノ正博コンビの時代劇の再来を思わせるとともに,連綿と続いてきた時代劇の最後の苦悶の表情をも感じさせた。60年代末には,観客人口の激減が示す映画産業の衰弱の中,製作費のかかる時代劇は少数の例外的作品のみになった。
テレビへの移行
〈時代劇王国〉東映がやくざ映画路線に切り換えた1963年,NHKテレビの大河ドラマの第1弾《花の生涯》が人気を集め,フジテレビの《三匹の侍》シリーズがヒット。次いでNHK大河ドラマが64年《赤穂浪士》,65年《太閤記》,66年《源義経》と続いて,時代劇のもっていたロマン性を映画からテレビへ移し変え,黒沢明監督《用心棒》《椿三十郎》の影響を受けた《三匹の侍》がはでな立回りの魅力を,やはり映画からテレビへ移したことは,じつに象徴的なことである。このころから,時代劇は映画で見るものではなくテレビで楽しむものになった観があり,1960年代後半から70年代にかけてテレビ時代劇は一大隆盛をとげ,鞍馬天狗,宮本武蔵,新選組,忠臣蔵,銭形平次,眠狂四郎,水戸黄門,旗本退屈男,大岡越前守,遠山金四郎など,かつての時代劇のあらゆる人気素材はテレビでシリーズ化され,時代劇監督の多くはテレビへ活躍の場を移し,時代劇スターはテレビから生まれてくるに至った。
時代劇の復興と日本映画
1978年,〈時代劇の復興〉を旗印に東映映画《柳生一族の陰謀》がつくられた。かつての〈時代劇王国〉東映が〈復興〉をめざすほど,時代劇が衰退したということである。そして,この1作は大ヒットしたものの,後続作品がふるわず,〈復興〉は掛声だけに終わった。80年代には時代劇はまったくといっていいほど製作されなくなってしまった。これはもちろんかつてない事態である。時代劇の歴史が語るように,時代劇は日本映画の牽引車の役割を果たしてきたが,それは時代劇が映画の魅力の根幹をつねに集約的に体現しているからにほかならない。すなわち,立回り=チャンバラを核心とする活劇としての魅力と,時代設定を過去にとることによって描写,表現のうえで発揮できる自在な虚構としての魅力とである。それゆえ,時代劇の衰退は,日本映画の現在が映画のそうした根幹的な魅力をよく表現しえていないことを,批判的に証明しているということができる。
執筆者:山根 貞男
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報