翻訳|East Asia
東アジアは一つの文化圏であり,また,一つの政治的な地域である。東アジア文化圏は,四大文明発祥地の一つである中国北部を中心に形成され,近代に入る以前に独特の文化を発展させていた。東アジアに独自の文化が発達したのは,この地域が他の文化圏から地形的に隔絶しており,近代以前の交通手段ではこの距離と自然の障壁を越えることが容易でなかったために,相対的に孤立していたからであり,他方,地域内部では交通が比較的発達し,文化の交流が盛んに行われたからである。その結果として生まれた東アジアに共通する最大の文化的特徴は,漢字およびその縦書きの習慣であろう。この点から,東アジアに含まれるのは中国,朝鮮,日本,琉球,台湾,ベトナムであるということができる。その他の主要な特徴としては,若干の例外もあるが,仏教,儒教,農業,太陰太陽暦などのほか古代中国で整備された官僚制が挙げられる。もちろん,東アジアの各地域にはそれぞれ独自の個別文化が存在したから,中国を中心とする文化交流にはさまざまな摩擦が随伴し,個別文化ごとの文化変容が繰り返されたのであって,けっして東アジア全体に一様な文化が存在したわけではない。
近代以前における一つの政治圏としての東アジアの実態は,中華帝国世界であった。王朝の交替が繰り返されても,中国の中原は東アジア文化圏の中心であると同時に,東アジア政治圏の中心であった。周辺諸国の政治権力は,中国の王朝から金印や官号,爵位を授けられることによって権威を獲得しようと努めた。このような政治的権威の授受関係によって秩序を与えられた近代以前の東アジア国際体系を,冊封(さくほう)体制と呼ぶ。また,周辺諸国は定期的あるいは不定期に中国の朝廷に朝貢使節を送った。これによって中国と各国との間に形式的な宗主国-服属国関係が成立し,一定の外交秩序をもつ国際体系が生まれた。この国際体系を朝貢体制と呼ぶ。冊封体制と朝貢体制のどちらも,実態は帝国世界一般にみられる階層的な国際体制であり,それが近代以前の東アジアに特殊な表現形式をとったのであった。ここに〈特殊〉というのは,国際的な階層秩序の中に各国を位置づけるのは,少なくとも形式上,中国文化の力であるとされていたからである(中華思想)。しかし,実際には,朝貢使節が各国の特産品を中国皇帝に献上する見返りとして,各国はそれをはるかに上回る価値の中国の文物を授けられるという側面もあった。朝貢貿易と呼ばれるこの外国貿易に周辺諸国の支配者は実利を見いだしたのである。また,服属の意識の程度も国と時代によって相当異なっていた。このように,中華帝国の外交関係,貿易関係の当事者間には利害と思惑の一致と不一致が存在した。要するに,近代以前の東アジアには,文化面,政治面の共通性が認められるだけでなく,内部的な差異や対立も存在していたのである。
しかし,東アジアが初めて明確にその共通性を意識するのは,19世紀になって,西欧がアジアに進出してきたときであった。そのとき,東アジアのすべての国がいわゆる〈西洋の衝撃western impact〉を受けた。交通手段の革命的な発達が東アジア諸国の鎖国状態を破り,そこに近代西洋文明がもたらされることになったが,近代西洋の産業資本主義およびそれと一体になった近代西洋の政治経済思想は,伝統的な東アジアの農業経済と儒教思想とに相反するものであったし,近代西洋が東アジアを引き入れようとした新しい国際関係は,形式的な主権平等の--しかし,実質的には軍事力と経済力とによって決定される--国家関係と,商業資本による自由貿易とを要求するものであって,近代以前の東アジア国際秩序とは相いれないものであった。東アジア各国は開国に強い抵抗を示したが,近代西洋の産業と軍事の強大な力はこれを打ち破った。1840-42年のアヘン戦争における清朝の敗北を最初に,東アジアの抵抗は次々に破られ,アジアの従属の危機,植民地化の危機が迫った。結果的には,東アジアにおいて西欧列強の植民地となったのはベトナムだけで,中国,朝鮮,日本がとにもかくにも西洋による完全な植民地化を免れたことが,東アジアの一つの特徴をなしている。この点でベトナムは特異であり,同国がときとして東南アジアに含められるのはそのためであろう。しかし,他の国も植民地化は免れても,不平等条約を免れることはできなかった。中国は,アヘン戦争敗北後イギリスと締結した南京条約によって5港を開港し,翌年,領事裁判権と協定関税(関税自主権の喪失)を認め,最恵国条款を承認した。日本は1860年(万延1)の日米修好通商条約批准書交換によって,同様に,領事裁判権と協定税率を受け入れた。朝鮮の場合は,その開国をめぐる紛糾にイギリス,ロシア,フランス,アメリカ,さらに日本,清国も加わり,結局,1876年に日本と結んだ日朝修好条規を通じて,朝鮮も不平等条約の網に加えられた。
西洋列強の進出に対抗するため,より直接的には,この不平等条約を解消するために,開国後の東アジア各国は,西洋を模範とする近代化の事業を開始した。それにもっとも早く成功したのが日本であった(1911年に関税自主権を回復)。日本は欧米諸国に留学生を派遣し,御雇外国人教師を招聘(しようへい)した。近代西洋の国際関係をいち早く学び,近代官僚制を整え,〈殖産興業〉政策によって産業の中心を農業から工業に移した。日本の近代化についてはさまざまな説明がなされるが,これらの変化を東アジアの他の国々が容易に起こしえなかったことは確かである。日本が近代以前は東アジア政治・文化圏の周縁に位置して,それだけに独自の,そして近代化への適合を容易とする文化を発達させていたことが根本的な違いであったであろう。中国は近代以前の東アジア政治・文化圏の中心を占める大国であったがゆえに,洋務運動から変法運動へという過程をたどった近代化の試みも鈍く,遅れがちであった。朝鮮は中国以上の儒教国家であったために,実学思想の系譜をひく開化派の動きもあったが,衛正斥邪の立場から近代化に強い抵抗を示した。
この中国,朝鮮,そしてベトナムに対して,近代化の教師の立場に立ったのが日本であった。3国からは明治時代の日本に多くの留学生が来た(ベトナムのドンズー(東遊)運動など)。しかし,日本はこれらの国の近代化を援助するよりも,みずからの近代化と,その延長である軍事大国化のために,台湾,朝鮮を植民地とし,中国を侵略する道を進んだ。東アジア共通の運命を共同で解決するために連帯する可能性は葬られ,東アジア内部の対立のみが激しくなった。内部対立の極であった日中戦争に続く太平洋戦争は,日本が〈大東亜共栄圏〉を掲げて,東アジア対欧米の戦争を挑んだものであったが,内部では完全に孤立敵対するという構図のもとにあった。
なお,この間に,他の地域と同じく,東アジアにおいても民衆の自覚化の現象が起こったことを忘れてはならない。中国の義和団,五・四運動,抗日運動,朝鮮の東学党(甲午農民戦争),三・一独立運動,ベトナムのゲティン・ソビエトなど,大衆運動はしだいに成長して,第2次世界大戦後の各国の変動へとつながっていった。また今日,東アジア各国に少数民族問題が存在しないとはいえないが,他の地域に比較して深刻な紛争を惹起していないのも,長い期間にわたる共通文化の形成に加えて,このような大衆の政治参加の実績があったからかもしれない。
第2次世界大戦後,東アジアのすべての国に大きな変化があった。日本の民主化,朝鮮半島の独立と南北分断,中国における新国家の成立,ベトナムの独立と南北分断がそれである。東アジアにも東西冷戦が大きな影を落としているが,戦後40年間に引き続きみられた変化,すなわち,日本の経済成長,中国の国際政治指導力,文化大革命,四つの現代化政策,ベトナム戦争(インドシナ戦争)における北ベトナムの勝利と南北統一,韓国,台湾などのいわゆる新興工業国の経済発展などは,東アジアが西洋の圧迫をついにはねのけて,逆に,西洋に衝撃を与える立場に変わったことを示している。東アジア全体として漢字の使用が減少し,横書きに移行しつつある現象は,〈西洋の衝撃〉以来,東アジア文化がこうむった変化の大きさを象徴する。しかし,今日,東アジアが世界でもっとも躍動的に発展する地域として世界中から注目され,その原因を,たとえば儒教や比較的高い識字率に代表される教育重視の伝統などという東アジア特有の文化に求める傾向もみられるのは興味深いことである。
→アジア →東洋
執筆者:平野 健一郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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