桜田治助(読み)サクラダジスケ

デジタル大辞泉 「桜田治助」の意味・読み・例文・類語

さくらだ‐じすけ〔‐ヂすけ〕【桜田治助】

[1734~1806]江戸中期の歌舞伎作者。初世。江戸の人。俳名、左交。上方狂言にも習熟し、警句・しゃれ・風刺に富んだ明るさの中にもかげりのある作風が特徴。4世松本幸四郎らと提携し、江戸歌舞伎世話狂言を確立した。代表作御摂勧進帳ごひいきかんじんちょう」「伊達競阿国戯場だてくらべおくにかぶき」など。

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精選版 日本国語大辞典 「桜田治助」の意味・読み・例文・類語

さくらだ‐じすけ【桜田治助】

  1. 中後期の江戸を代表する歌舞伎作者。俳名左交(さこう)。代々世話物、所作事に名作が多い。初世、享保一九~文化三年(一七三四‐一八〇六)。二世、明和五~文政一二年(一七六八‐一八二九)。三世、享和二~明治一〇年(一八〇二‐七七)。

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改訂新版 世界大百科事典 「桜田治助」の意味・わかりやすい解説

桜田治助 (さくらだじすけ)

歌舞伎作者。4世まである。(1)初世(1734-1806・享保19-文化3) 俳名左交。号柳井隣,花川戸。江戸生れ。幼名蒔田喜三郎,または治三郎,通称笠屋善兵衛,中村平吉ともいうが不詳。1757年(宝暦7)歌舞伎作者三宅清蔵(のち津村と改姓)の世話で江戸市村座の狂言作者となり田川治助を名のる。同年11月津村と改姓。壕越二三治(次)に随身し,一時堀越を名のったのち桜田治助となる。61年上京,上方狂言を修業して江戸に帰り,3世市川団蔵付の立作者として頭角をあらわす。69年(明和6)4世市川団十郎の市川揃の大一座の立作者に抜擢され,以後《御摂勧進帳(ごひいきかんじんちよう)》(1773)をはじめ当り狂言を書き〈江戸の花の桜田〉と称された。85年(天明5)以降は隠居格となり,盟友4世松本幸四郎のために筆を取った。作風は初期の宝暦振りの寛闊さに加え,最盛期には幸四郎と組んでの病的なほどの極端な穴ねらいで,うがちによる新しさを追求し,明るさのなかにもかげりのある作風が天明期(1781-89)の江戸で圧倒的な共感を呼んだ。《貢曾我富士着綿(みつぎそがふじのきせわた)》の二番目助六の書替狂言など30余種の台本が伝わり,歌舞伎史上文学的にもっとも価値の高い作者として位置付けられるが,あまりに高踏的な精神のゆえか舞台での伝承はない。常磐津節の《戻駕(もどりかご)》,富本の《身替りお俊》,長唄の《吉原雀》など所作事の作詞者としても歌舞伎史上最高の地位に揺ぎはない。門下に笠縫専助,木村園夫(えんぷ),村岡幸治,福森久助,2世桜田治助がいる。(2)2世(1768-1829・明和5-文政12) 俳名調布,左交。江戸生れ。父はごみ舟の株を持つ。幼名藤次郎,通称ごみ半。笠縫専助に入門,栄半次の名で1790年(寛政2)河原崎座に初出勤。清水,松田と改姓したのち松島陽助から松島半次となる。このころから初世に随身,その没後初世の旧姓を名のり田川章作となり,1808年(文化5)に治助をつぐ。17年3世三津五郎付の立作者となる。晩年は初世の後家に名跡をかえし松島てうふを名のった。変化舞踊流行の旗手として常磐津節の《源太》,清元節の《傀儡師(かいらいし)》,長唄,清元節の《舌出三番叟(しただしさんばそう)》など名作を残すが,台本にはみるべきものがない。(3)3世(1802-77・享和2-明治10) 俳名左交。深川仲町山城屋の子。1824年(文政7)葛飾音助の名で初出勤。2世門下となり松島半次,てうふを経て33年(天保4)に治助となる。38年4世中村歌右衛門と提携し中村座での地位を確立,62年(文久2)に名跡を園治に譲ったのちも桜田左交の名で立作者を勤めた。一方,56年(安政3)からは狂言堂,狂言堂左交の名で森田座(のち守田座,新富座)の立作者も兼ね,市村座の河竹黙阿弥,中村座で同座した3世瀬川如皐と明治の初めまで三座体制を維持した。新作は少なかったが古老として重きをなし常磐津節の《三世相錦繡文章(さんぜそうにしきぶんしよう)》(1857)などを書く。(4)4世 生没年不詳。1862年(文久2)3世の門人2世木村園治がついだ。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「桜田治助」の意味・わかりやすい解説

桜田治助
さくらだじすけ

歌舞伎(かぶき)作者。4世まである。

初世

(1734―1806)江戸作者中興の祖と称され、金井三笑(さんしょう)とともに安永(あんえい)・天明(てんめい)期(1772~89)の作者を代表した。壕越二三次(ほりこしにそうじ)門下としてその作風を継承し、1769年(明和6)には4世市川団十郎を中心とする市川揃(ぞろ)えの大一座の立(たて)作者に抜擢(ばってき)され、以後『御摂勧進帳(ごひいきかんじんちょう)』など当り狂言を書き「江戸の花の桜田」と称された。いったん引退したのち隠居格として劇界に復帰、盟友4世松本幸四郎のために二番目の世話狂言と浄瑠璃(じょうるり)に得意の筆を振るい、その幸四郎の5回忌祥月命日(しょうつきめいにち)に死ぬ。初期の作には宝暦(ほうれき)期(1751~64)の余風としての寛闊(かんかつ)さがみられるが、最盛期には病的なほど極端な穿(うが)ちと明るさのなかにも翳(かげ)りのある作風となり、天明期(1781~89)の人々に圧倒的な共感をもって迎えられた。『国色和曽我(かいどういちやわらぎそが)』『傾城吾嬬鑑(けいせいあづまかがみ)』など現存台本30余種のほか、所作事(しょさごと)の名人として常磐津(ときわず)『戻駕(もどりかご)』、富本(とみもと)『道行瀬川(みちゆきせがわ)の仇浪(あだなみ)』『身替りお俊』、長唄(ながうた)『吉原雀(よしわらすずめ)』などを残す。門下に福森久助ら多くの立作者がいる。

[古井戸秀夫]

2世

(1768―1829)初世の弟子。師の作風を継承し、化政(かせい)期(1804~30)の変化(へんげ)舞踊のパイオニアの一人として常磐津『源太(げんた)』、清元(きよもと)『傀儡師(かいらいし)』『鳥羽絵(とばえ)』、長唄『浅妻船』『舌出し三番』などを書いた。

[古井戸秀夫]

3世

(1802―77)2世の弟子。中村、森田両座付きの立作者として幕末の劇界に君臨。常磐津の『三世相錦繍文章(さんぜそうにしきぶんしょう)』『神楽諷雲井曲毬(かぐらうたくもいのくせまり)』を書いた。4世は3世の弟子2世木村園治(生没年不詳)が継いだが、明治中ごろ不遇のまま没す。

[古井戸秀夫]

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朝日日本歴史人物事典 「桜田治助」の解説

桜田治助(初代)

没年:文化3.6.27(1806.8.11)
生年:享保19(1734)
江戸歌舞伎中興の祖と位置づけられる歌舞伎狂言作者。初名田川治助,津村治助,堀越治助。俳名左交。江戸本石町一丁目河岸の薪炭商の子。通称を笠屋善兵衛,幼名治三郎などと伝えられるが不詳。狂言作者三宅(津村)清蔵の世話で劇界に入り,25歳で狂言方見習いとなる。29歳から4年間京都で修業し,江戸に戻ってのち明和4(1767)年11月3代目市川団蔵の取り立てで立作者となる。2年後には4代目市川団十郎を中心とする「市川揃え」と呼ばれる大一座の作者に抜擢され,安永2(1773)年11月の「御摂勧進帳」の大当たりで人気作者の地位を不動にする。「天明ぶり」を代表する作風で,ことに4代目松本幸四郎に書いた顔見世狂言二番目の世話場「雪ふりの場」などは,洒落た台詞,華やかな趣向,思い付きのよい見立てなどで人気を呼び,「花の江戸の桜田」とたたえられた。52歳から3年ほど劇界を離れたが,復帰してのちは73歳で死ぬまで台本を書いた。最盛期は安永~天明期(1772~89)で,戯作者の山東京伝と共に,町人出身の作者として文壇,劇壇に新風を起こした。 根っからの芝居好きで,勘当されて預けられた上野国佐野(高崎市)でも,手習いの師匠をしながら子供たちに芝居を教えたという。また,大の吉原好きで,毎夜廓に行かねば寝られなかったともいう。芝居と遊里が生んだ作者であった。江戸の豊後節浄瑠璃の作詞もよくし,常磐津の「戻駕色相肩」,富本の「花川戸身替の段」などに,その特色がよく表されている。語り物としての浄瑠璃のなかに,局面本位の長唄の所作事の小唄尽くしの性格を取り込み,舞台面に多彩な変化を可能にした。また,浄瑠璃の詞章に漢語や俗語を入れた壕越二三治の「菜陽風」を慕い,その堅い表現を廓言葉などで和らげ洗練した。その作風は「桜田風」と呼ばれ,没後,本所柳島妙見(法性寺,墨田区業平)に治助の辞世の句「花清し散ても浮む水の上」を刻んだ浄瑠璃塚が建立された。桜田風は,門弟の福森久助,2代・3代目桜田治助らの所作事のなかに継承されていった。<参考文献>大久保忠国「初世桜田治助研究資料」(守随憲治編『国劇研究』1942年9月号),河竹繁俊『歌舞伎作者の研究』

(古井戸秀夫)


桜田治助(2代)

没年:文政12.4.14(1829.5.16)
生年:明和5(1768)
文化文政期に江戸劇壇で活躍した歌舞伎狂言作者。俳名調布のち左交。初代治助に入門,文化5(1808)年,松島半二から2代目治助を襲名し,同14年立作者となる。晩年に名跡を返し松島調夫と改名。長唄「舌出し三番」「浅妻船」,清元「傀儡師」などの詞章に名作がある。

(服部幸雄)


桜田治助(3代)

没年:明治10.8.7(1877)
生年:享和2(1802)
幕末に江戸劇壇で活躍した歌舞伎狂言作者。俳名左交。2代目松島半二を経て3代目治助を襲名,立作者となる。のち狂言堂左交と改名。幕末の一時期人気のあった作者で,「三世相錦繍文章」「乗合船」など多くの作品を残したが,狂言は改作物が多く独創性に乏しい。

(今西晶子)

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百科事典マイペディア 「桜田治助」の意味・わかりやすい解説

桜田治助【さくらだじすけ】

歌舞伎狂言作者。4世まで数えるが初世が最も有名。初世〔1734-1806〕は江戸の人。俳名左交。筆名初め田川治助,さらに津村治助。三宅(津村)清蔵門下。40余年間に100編以上を執筆。洒落(しゃれ)・警句に富み,江戸狂言作者界の第一人者であった。主作品は《御摂勧進帳》《戯場花万代曾我》《伊達競阿国戯場》,長唄《教草吉原雀》など。
→関連項目浅妻船鈴ヶ森鶴屋南北吉原雀

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「桜田治助」の意味・わかりやすい解説

桜田治助(1世)
さくらだじすけ[いっせい]

[生]享保19(1734)
[没]文化3(1806)
歌舞伎作者。俳名左交。壕越二三治の門弟。天明歌舞伎の巨匠。主として市川団十郎,団蔵,中村仲蔵に時代狂言を,松本幸四郎,尾上松緑らに世話狂言を,瀬川菊之丞,岩井半四郎のために舞踊劇を執筆。その筆致は桜田風と称されて名声があった。舞踊劇『荵売 (しのぶうり) 』『高尾懺悔』『身替りお俊』『戻駕 (もどりかご) 』などは傑作とされ,狂言では『御摂 (ごひいき) 勧進帳』『伊達競阿国戯場 (だてくらべおくにかぶき) 』『大商蛭小島 (おおあきないひるがこじま) 』などの名作を残した。

桜田治助(2世)
さくらだじすけ[にせい]

[生]明和5(1768)
[没]文政12(1829)
歌舞伎作者。初め松島陽助,のち1世桜田治助に取立てられた。桜田風をよく継ぎ,浄瑠璃を書くのに巧みであった。『源太箙 (えびら) の梅』『汐汲 (しおくみ) 』など。亡師の妻を扶助したが不和となり,名を返して松島調布と改名。

桜田治助(3世)
さくらだじすけ[さんせい]

[生]享和2(1802)
[没]1877.8.7.
歌舞伎作者。2世桜田治助の弟子松島音助のち半二が襲名。嘉永~安政期 (1848~60) に活躍したが河竹黙阿弥に押された。主要作品『乗合船恵方万歳』。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「桜田治助」の解説

桜田治助(初代) さくらだ-じすけ

1734-1806 江戸時代中期-後期の歌舞伎作者。
享保(きょうほう)19年生まれ。江戸の人。壕越二三治(ほりこし-にそうじ)に師事し,一時京坂で上方狂言をまなぶ。明和6年市川団十郎一座の立(たて)作者となり「御摂勧進帳(ごひいきかんじんちょう)」などの当たり狂言をかく。浄瑠璃(じょうるり)の作詞者としても知られ,作品に常磐津(ときわず)「戻駕色相肩(もどりかごいろにあいかた)」など。文化3年6月27日死去。73歳。号は柳井隣,花川戸。屋号は成田屋。俳名は左交。

桜田治助(2代) さくらだ-じすけ

1768-1829 江戸時代後期の歌舞伎作者。
明和5年生まれ。初代笠縫専助(かさぬい-せんすけ)の門から初代治助に入門し,文化5年2代を襲名。脚本は地味であったが,「倭仮名色七文字(やまとがないろのななもじ)」「七枚続花の姿絵」などの豊後浄瑠璃(ぶんごじょうるり)や長唄(ながうた)の作詞に才能を発揮した。文政12年4月14日死去。62歳。前名は初代松島半二。後名は初代松島てうふ。俳名は調布,のち左交。

桜田治助(3代) さくらだ-じすけ

1802-1877 江戸後期-明治時代の歌舞伎作者。
享和2年生まれ。2代桜田治助の門弟で,天保(てんぽう)4年3代を襲名。6年4代中村歌右衛門にとりたてられて立(たて)作者になった。脚本では改作がおおかったが,常磐津(ときわず)「乗合船恵方万歳」などの舞踊劇が知られる。明治10年8月7日死去。76歳。前名は3代松島半二。後名は狂言堂左交,桜田左交。俳名は左交。屋号は山城屋。

桜田治助(4代) さくらだ-じすけ

?-? 江戸後期-明治時代の歌舞伎作者。
藤本吉兵衛(3代瀬川如皐(じょこう)),のち3代桜田治助の門人。宝屋基助,2代木村園治をへて,文久2年(1862)4代桜田治助を襲名し,守田座の立(たて)作者となる。明治27年新富座につとめたのを最後に新聞記者に転じた。明治30年(1897)ごろ没したとされる。初名は藤本助。俳名は左昂。

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歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典 「桜田治助」の解説

桜田治助
(別題)
1

歌舞伎・浄瑠璃の外題。
元の外題
仮名手本手習鑑
初演
安永3.7(江戸・中村座)

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世界大百科事典(旧版)内の桜田治助の言及

【大商蛭子島】より

…4幕。初世桜田治助・増山金八らの作。1784年(天明4)11月江戸中村座の顔見世狂言として初演。…

【歌舞伎】より

…洒落本,黄表紙,川柳など〈通(つう)〉を理想とする質の高い文芸が展開するのもこの時期で,都市の消費生活のゆとりを反映しておおらかでのんびりした歌舞伎の作劇,芸,演出が喜ばれ,いわゆる天明歌舞伎が開花する。作者では初世桜田治助,役者では初世中村仲蔵が天明歌舞伎を代表する。治助の作品は伝統的な江戸歌舞伎独特の作風を洗練・発展させたもので,全体にはなやかなムードに包まれ,洒脱で機知に富んでいる。…

【蜘蛛拍子舞】より

…本名題《我背子恋の合槌(わがせこがこいのあいづち)》。作詞初世桜田治助,作曲初世杵屋(きねや)佐吉,振付2世藤間勘兵衛。源頼光が病気のため宿直の四天王の一人碓井貞光が警固するところに,白拍子妻菊が現れ,剣問答の拍子舞となる。…

【御摂勧進帳】より

…通称《芋洗勧進帳》。桜田治助河竹新七,奥野瑳助ほか作。1773年(安永2)11月江戸の中村座初演。…

【伊達競阿国戯場】より

…通称《先代萩(せんだいはぎ)》《身売りの累(かさね)》。初世桜田治助,笠縫専助合作。1778年(安永7)閏7月江戸中村座初演。…

【長作】より

…1805年(文化2)江戸中村座で3世坂東三津五郎,5世岩井半四郎らにより初演。作詞初世桜田治助,作曲名見崎喜惣治(初世名見崎徳治),振付初世藤間勘十郎。義太夫の《新薄雪物語》を増補改作した《練供養妹背縁日》の道行で,薗部左衛門を慕って死んだお美津の霊が村娘およしに乗り移って,左衛門と薄雪姫との道行をじゃまする。…

【身替りお俊】より

…富本で本名題《花川戸身替の段》。作詞初世桜田治助。作曲名見崎徳治(得寿斎)。…

【戻駕】より

…1788年(天明8)11月江戸中村座の顔見世《唐相撲花江戸方》の四建目で,初世中村仲蔵,4世松本幸四郎,初世松本米三郎により初演。作詞初世桜田治助。作曲初世鳥羽屋里長。…

【吉原雀】より

…1768年(明和5)11月江戸市村座の顔見世狂言《男山弓勢競(おとこやまゆんぜいくらべ)》の大切(おおぎり)に演ぜられた。作詞初世桜田治助。作曲初世富士田吉治,初世杵屋作十郎。…

【浅妻船】より

…本名題《浪枕月浅妻(なみまくらつきのあさづま)》。作詞2世桜田治助,作曲2世杵屋(きねや)佐吉,振付3世藤間勘兵衛と市山七十郎。将軍徳川綱吉の愛妾を風刺した英(はなぶさ)一蝶の絵を材とした舞踊。…

【絵本合法衢】より

…通称《立場の太平次》。4世鶴屋南北,福森久助,2世桜田治助の合作。1810年(文化7)5月江戸市村座初演。…

【お祭】より

…3世坂東三津五郎により1826年(文政9)6月江戸市村座初演。作詞2世桜田治助。作曲初世清元斎兵衛。…

【傀儡師】より

…1824年(文政7)9月江戸市村座で3世坂東三津五郎が踊った三変化《復新三組盞(またあたらしくみつのさかずき)》の一つ。作詞2世桜田治助,作曲清元斎兵衛,振付松本五郎市。首からつるした箱からいろいろな人形を出して舞わせて見せる大道芸人傀儡(くぐつ)師を題材としたもの。…

【願人坊主】より

…1811年(文化8)3月江戸市村座で3世坂東三津五郎が七変化所作事《七枚続花の姿絵(しちまいつづきはなのすがたえ)》の一つとして初演。作詞2世桜田治助,初世勝俵蔵(のちの4世鶴屋南北)。作曲3世岸沢古式部。…

【心謎解色糸】より

…5幕。4世鶴屋南北・2世桜田治助らの合作。通称《本町糸屋の娘》《お祭左七》。…

【晒女】より

…八変化《閏茲姿八景(またここにすがたのはつけい)》の一。作詞2世桜田治助。作曲3世岸沢古式部,4世杵屋六三郎。…

【三人生酔】より

…1824年(文政7)5月,3世坂東三津五郎,7世市川団十郎ほかにより江戸市村座で初演。2世桜田治助作詞,初世清元斎兵衛作曲,3世西川扇蔵らの振付。朝顔売,水売,芸者がそれぞれの酔態をみせる。…

【汐汲】より

…七変化所作事《七枚続花の姿絵(しちまいつづきはなのすがたえ)》の一曲。作詞2世桜田治助。作曲2世杵屋正次郎。…

【舌出三番叟】より

…1812年(文化9)江戸中村座で,三番叟を3世中村歌右衛門,千歳を4世中村明石(のちの12世勘三郎),翁を4世中村七三郎で初演。作詞2世桜田治助。作曲2世杵屋正次郎,伊藤東三郎。…

【玉兎】より

…3世坂東三津五郎が踊った雪月花七変化所作事(変化物(へんげもの))《月雪花名残文台(つきゆきはななごりのぶんだい)》のうちの一。作詞2世桜田治助。作曲清沢万吉(初世清元斎兵衛)。…

【鳥羽絵】より

…3世中村歌右衛門ほか。作詞2世桜田治助。作曲清沢万吉。…

【まかしょ】より

…1820年(文政3)9月江戸中村座初演。作詞2世桜田治助。作曲杵屋(きねや)和助(2世杵屋佐吉)。…

【水売】より

…1813年(文化10)6月江戸森田座初演。作詞2世桜田治助,作曲3世岸沢古式部(2世岸沢式佐)。振付初世藤間勘十郎。…

【三人形】より

…1818年(文政1)3月江戸中村座初演。作詞2世桜田治助,作曲岸沢右和佐。振付初世藤間勘十郎。…

【山帰り】より

…演者は3世坂東三津五郎。作詞2世桜田治助。作曲初世清元斎兵衛。…

【京人形】より

…左甚五郎を4世中村歌右衛門,京人形を12世市村羽左衛門ほか。作詞桜田治助。作曲4世岸沢式佐。…

【是評判浮名読売】より

…通称《ちょいのせ》《ちょいのせの善六》。3世桜田治助作。1862年(文久2)5月江戸守田座初演。…

【三世相錦繡文章】より

…通称《お園六三(ろくさ)》《三世相》。3世桜田治助作。1857年(安政4)7月江戸中村座初演。…

【末広がり】より

…本名題《稚美鳥末広(わかみどりすえひろがり)》。作詞3世桜田治助,作曲10世杵屋六左衛門,振付3世藤間勘十郎(亀三勘十郎)。同名の狂言をもとにしているが,趣を変え,大名を女,太郎冠者を恋の使として後半の囃し物のくだりを中心に舞踊化したもの。…

【年増】より

…八変化所作事《花翫暦色所八景(はなごよみいろのしよわけ)》の一曲。作詞3世桜田治助。作曲5世岸沢式佐。…

【どんつく】より

…1846年(弘化3)1月,江戸市村座で4世中村歌右衛門,12世市村羽左衛門ほかにより初演。作詞3世桜田治助。作曲5世岸沢式佐。…

【乗合船】より

…1843年(天保14)1月江戸市村座で12世市村羽左衛門,4世中村歌右衛門ほかにより初演。作詞3世桜田治助。作曲5世岸沢式佐。…

【俳諧師】より

…4世中村歌右衛門が帰坂以来6年ぶりのお目見得三変化所作事《三幅対和歌姿画(さんぷくついわかのすがたえ)》の一。作詞3世桜田治助。作曲5世岸沢式佐。…

※「桜田治助」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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