検察官が行う事務の内容をいう。具体的には、犯罪を捜査し、刑事について公訴を行い、裁判所に法の正当な適用を請求し、かつ裁判の執行を監督することなどが含まれる。検察官だけが起訴するか不起訴にするかを決めることができること、裁判所は検察官が公訴の提起によって審判を求めた被告事件についてだけ審判すること(不告不理の原則という)から考えれば、刑事について公訴を行うことは検察でもっとも重要な位置を占め、適正な検察が望まれる。
[内田一郎]
かつては訴追者と裁判官とは厳格に区別されていなかった。捜査および公訴の提起・維持を職務とする国家機関と裁判機関との分離が達成されて初めて近代的な刑事訴訟の形態が整えられたのである。西ヨーロッパで検察制度が確立されたのは19世紀になってからのことであり、日本の場合は明治以降のことである。「糺問(きゅうもん)訴訟から弾劾訴訟へ」ということが、とりもなおさず刑事裁判の近代化を意味すると考えられる。すなわち、イギリスの公開・口頭・弾劾主義の刑事訴訟が、1789年7月のフランス革命とともにフランスに継受された。同年10月フランス従来の糺問訴訟が公開され、ついでイギリスの制度を採用、起訴陪審および判決陪審の制度を認め、以後、数次の改正を経て1808年に治罪法が制定された。同法によれば、訴訟の前半ではフランスの旧制である糺問による秘密・書面主義の糺問手続を行い、後半ではイギリス流の公開・口頭主義の弾劾訴訟(陪審手続)を行うという制度を採用、前者を予審、後者を本審とよんだ。折衷訴訟ともいわれ、「改革された刑事訴訟」とも名づけられた。日本の1890年(明治23)の旧旧刑事訴訟法(明治刑事訴訟法)、1922年(大正11)の旧刑事訴訟法(大正刑事訴訟法)もこれを継受したものであった。日本国憲法の制定に伴い、1948年(昭和23)改正刑事訴訟法が制定され現在に至っている。同法は英米法、とくにアメリカ法の影響が強い。
[内田一郎]
西ヨーロッパにおいて、13、14世紀より16、17世紀にかけて糺問訴訟が行われた。ローマ教皇インノケンティウス3世は、1215年裁判官が訴えをまたず職権で秘密に犯罪を審判する手続を定め、これを糺問とよんだが、この糺問手続が漸次普及してイタリアの普通法となり、一方、ドイツに波及してカロリナ法典となった。他方、フランスに入ってルイ14世の刑事勅令(1670)となった。
この糺問訴訟は、いずれの国においても、法と人道を無視した専断過酷なものとなり、個人の人格と自由が犠牲に供せられ、暗黒時代を迎えるに至った。やがて18世紀後半に勃興(ぼっこう)した人道主義、自由主義、平等主義の思想により激しく攻撃され、個人の自由を保護するイギリス人の弾劾訴訟が要望されることになった。自由心証主義の確立と検察制度の確立とが、改革に必要不可欠な二大主柱として登場する。前者は、実体的真実発見主義の確立、拷問の廃止と密接に関連し、後者は、刑事裁判における弾劾訴訟構造の確立に必要不可欠の役割を果たしてきた。
検察制度の確立されない以前の糺問訴訟は、国家による犯罪訴追の仕事を裁判官にゆだねていた。カロリナ法典は訴訟の開始の普通の形式として私訴を定め、当局および職権による犯人の引受けを例外的に規定していたが、私訴者は無罪の言渡しを受けた被告人に損害賠償をしなければならないものとされ、その場合に備えて訴訟の開始時から被告人に保証を行う必要があり、もしこの保証を行うことができないときは、被告人と同様に、自分も未決勾留(こうりゅう)に服さなければならないものとされた。そのため、被害者が私訴の提起を差し控えるようになって、国家が積極的に審理を開始することのほうが原則化してしまった。この積極的審理主義を糺問訴訟ともよぶのである。「起訴者が裁判官であるときは、弁護人として神に頼るほかはない」という法諺(ほうげん)が生まれたのもこのころのことである。その欠陥を埋め、弊害を除くために設けられた制度がまさに検察制度なのである。フランスでは、1808年の治罪法、1810年の構成法に今日みられる形態の検察制度が明定され、ドイツでは1848年のパウルス教会でのフランクフルト国民会議の諸要求の一つとして、刑事事件においては弾劾訴訟が行われることが含まれていた。そして検事局の組織については、裁判所構成法(1877)に、その活動範囲の主要事項については帝国刑事訴訟法にそれぞれ規定が置かれるに至った。「糺問訴訟から弾劾訴訟へ」の発展によって、訴訟の名にふさわしい刑事訴訟形態、すなわち訴追者兼裁判官としての糺問者と裁かれる者としての被糺問者という形態から、一方の当事者として、訴える者としての検察官、他方の当事者として、訴えられる者としての被告人、両者の攻撃・防御を通じて事案の真相を解明し、公平に審判する裁判官からなる近代的訴訟形態が確立した。さらに、これに伴って秘密審理主義が公開審理主義に、書面審理主義が口頭審理主義にそれぞれ改められた。このように、検察制度の確立が訴訟の構造の改革に及ぼした影響は、計り知れないほどに決定的な事象であった。
[内田一郎]
1872年(明治5)太政官(だじょうかん)は暫定的な司法職務定制を定めたが、第31条で、「検事ハ裁判ヲ求ムルノ権アリテ裁判ヲ為(な)スノ権ナシ故ニ判事ニ向テ意見ヲ陳スルニハ判事ノ取舍ニ任シ論断処決ハ判事ノ専任トシテ検事預ルコトヲ得ス」とし、1874年(明治7)輪廓(りんかく)附太政官達第14号検事職制章程司法警察規則第2章検事章程は「検事ハ原告人ト為テ刑ヲ求ムルノ権アリテ裁判ヲ為スノ権ナシ判事ニ向テ断刑ノ当否ヲ論スルコトヲ得ス」(法令全書明治7年264頁以下)とした。
1875年5月8日司法省達第10号司法省検事職制章程中、司法省職制に、「卿一人 第一 諸裁判官ヲ監督シ庶務ヲ総判シ及検事ヲ管摂シ検務ヲ統理スルコトヲ掌(つかさど)ル但シ裁判ニ干預セス」とあり、検事職制に、大検事以下「検事ハ非違ヲ案検シテ之(これ)ヲ裁判官ニ弾告スルコトヲ掌ル」(法令全書明治8年1752頁以下)とある。そして1878年6月10日輪廓附司法省達丙第4号は、「自今訟廷内ノ犯罪及ヒ審問上ヨリ発覚スル本件附帯ノ犯罪ヲ除クノ外(ほか)ハ総(すべ)テ検事ノ公訴ニ因(よ)リ処断スル義ト可相心得此旨相達候事」(法令全書明治11年620頁)として、「公訴官の訴えなければ裁判なし」とする主義、すなわち弾劾主義を徹底させたのである。1880年の治罪法第1条は、「公訴ハ犯罪ヲ証明シ刑ヲ適用スルコトヲ目的トスル者ニシテ法律ニ定メタル区別ニ従ヒ検察官之ヲ行フ」とし、同法第92条は、「検察官ハ後ニ記載シタル告訴告発現行犯其他(そのた)ノ原由ニ因リ犯罪アルコトヲ認知シ又ハ犯罪アリト思料シタル時ハ其証憑(しょうひょう)及ヒ犯人ヲ捜査シ第百七条以下ノ規則ニ従ヒ起訴ノ手続ヲ為ス可(べ)シ」としている。
同様に、1890年の明治刑事訴訟法(明治23年法律第96号)第1条も、「公訴ハ犯罪ヲ証明シ刑ヲ適用スルコトヲ目的トスルモノニシテ法律ニ定メタル区別ニ従ヒ検事之ヲ行フ」とし、同法第46条は「検事ハ後ニ記載シタル告訴、告発、現行犯其他ノ原由ニ因リ犯罪アルコトヲ認知シ又ハ犯罪アリト思料シタルトキハ其証憑及ヒ犯人ヲ捜査ス可シ」としている。また同年の旧裁判所構成法(明治23年法律第6号)は、第1編裁判所および検事局第1章総則のなかで、検事局の組織構成および検事の事務について規定し(6条以下)、第2編裁判所および検事局の官吏のなかで検事の任免等について規定し(79条以下)、第3編第4章で検事局の事務章程、第6章で法律上の共助、第4編で司法行政の職務および監督権を規定している。
これに対して、1922年の大正刑事訴訟法(大正11年法律第75号)は、「検察官犯罪アリト思料スルトキハ犯人及証拠ヲ捜査スヘシ」(246条)として検察官の捜査権を規定するとともに、「公訴ハ検察官之ヲ行フ」(278条)として起訴独占主義を規定した。また、それまで実務で認められてきた起訴猶予を明文で規定し、「犯人ノ性格、年齢及境遇並犯罪ノ情状及犯罪後ノ情況ニ因リ訴追ヲ必要トセサルトキハ公訴ヲ提起セサルコトヲ得」(279条)として起訴便宜主義を採用した。
1948年の現行刑事訴訟法(昭和23年法律第131号)では、捜査に関して、検察官の捜査権の承認(191条)とともに、警察の捜査権も認められたことから、検察官の司法警察職員に対する指示権および指揮権が規定されている(193条)。公訴については、「公訴は、検察官がこれを行う」(247条)として起訴独占主義を踏襲するとともに、「犯人の性格、年齢及び境遇、犯罪の軽重及び情状並びに犯罪後の情況により訴追を必要としないときは、公訴を提起しないことができる」(248条)として起訴便宜主義も踏襲したが、大正刑事訴訟法に比べて「犯罪の軽重」の要件が加えられている点に違いがある。なお、検察庁の組織・構成、検察官の職務などについては、検察庁法(昭和22年法律第61号)がこれを規定している。
[内田一郎・田口守一]
『斉藤金作著『刑事訴訟法 上巻』(1967・有斐閣)』
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
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