室町前期の歌僧。幼名は尊命丸(尊明丸)(そんみょうまる)。初名は正清(まさきよ)。出家以後正徹と称した。庵(あん)号は了俊(りょうしゅん)の号を受けて松月庵(しょうげつあん)(または招月庵)。字(あざな)は清巌(せいがん)。東福寺の書記を務めたので徹書記ともいう。備中国(びっちゅうのくに)(岡山県)小田庄(おだのしょう)の神戸(こうど)山城主小松康清(やすきよ)、または秀清の子息と伝えられる。1395年(応永2)ごろ幕府奉行治部方(じぶかた)の月次(つきなみ)歌会に出座し、冷泉(れいぜい)派の為尹(ためまさ)、為邦(ためくに)、了俊らと出会ったことが、歌人としてたつ契機となった。1414年(応永21)出家し、まもなく東福寺に入寺し、東漸(とうぜん)健易に師事した。同年4月の『頓証寺法楽(とんしょうじほうらく)一日千首』などに出詠して歌人としての力量を認められ、その後、公武僧の主催する多くの歌会に出座、精力的な歌壇活動を展開した。32年(永享4)に草庵が類火にあい、20歳以来の詠草二万数千首が灰燼(かいじん)に帰し衝撃を受けた。また永享(えいきょう)期(1429~41)には、将軍足利義教(あしかがよしのり)に忌避され、ために草庵領を没収されたり、勅撰(ちょくせん)集『新続古今集(しんしょくこきんしゅう)』に1首も入集されない悲運をなめた。義教の死後、歌壇に復帰し、晩年には将軍義政(よしまさ)に『源氏物語』を講じた。作品には、1万1000余首の家集『草根(そうこん)集』をはじめ、永享5、6、9年の年次(ねんじ)詠草があるほか、歌論書『正徹物語』、紀行『なぐさめ草』もある。藤原定家に傾倒し、「夕暮を待つに命を白鳥のとはにうき世をさそふ山風」のような夢幻的で縹渺(ひょうびょう)とした歌を詠じた。
[稲田利徳]
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室町前期の歌人。本名は小松正清,あるいは信清。正徹は法名。別号を清巌,庵号を松(招)月庵という。徹書記の称は京都東福寺の書記を務めたため。備中国小田荘の地頭小松康清の次男として出生,10歳ごろ父に伴われ京都に出,15歳ごろにはすでに冷泉派の月次歌会に出席,のち同派の冷泉為尹(れいぜいためまさ)や今川了俊に師事した。応永(1394-1428)の中ごろ,出家して東福寺に入る。歌風は同時代の作風にあきたらず新古今調を採り,とりわけ藤原定家の作風を理想とするその主張は,歌論書《正徹物語》にくわしい。歌人としては多作家で,作品総数4万首とも5万首ともいわれ,その一部は家集《草根集(そうこんしゆう)》として伝わるほか,《正徹千首》をはじめ多くの定数歌がある。門下から正広(しようこう),宗砌(そうぜい),智蘊(ちうん),心敬らの著名な歌人,連歌作者が輩出し,影響が大きい。〈渡りかね雲も夕べを猶たどる跡なき雪の嶺のかけはし〉(《自讃歌》)。
執筆者:光田 和伸
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…室町時代の正徹の家集。正徹自身の手で,ある程度まとめられ,没後それをもとに弟子の正広が編纂したと推定される15巻本(日次(ひなみ)系,1万1236首,1473年(文明5)の一条兼良の序文を付す)と,さらにそれを編みなおした類題系のものとがある。…
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