プロ野球選手(内野手:左投左打)、監督。5月20日、東京生まれ。父は中国人。早稲田(わせだ)実業高卒業。1957年(昭和32)高校2年のとき、第29回選抜高等学校野球大会の優勝投手となる。1959年読売ジャイアンツ(巨人)入団。打者に転向したが、とくに打撃コーチ荒川博(1930―2016)の指導の下に一本足打法を完成させた1962年からホームランを量産するようになった。また長嶋茂雄(しげお)とのコンビは「ON砲(オーエヌほう)」とよばれ、巨人の9連覇に大きく貢献した。1977年にアメリカのハンク・アーロンの通算ホームラン記録を更新する756本目のホームランを打ったのをはじめ、1980年に現役を引退するまで本塁打王15回、三冠王2回(1973、1974)を獲得、通算868本のホームランを記録した。その背番号1は巨人の永久欠番となった。1977年に初の国民栄誉賞を受賞。1984~1988年巨人の監督を務め、1987年にリーグ優勝した。1995年(平成7)からは福岡ダイエーホークス(現福岡ソフトバンクホークス)の監督として指揮をとり、1999年にリーグ優勝、日本シリーズでも中日ドラゴンズを破って日本一となった。翌2000年にも優勝してリーグ2連覇、2003年には阪神タイガースを破って日本シリーズを制した。
[神田順治・森岡 浩 2016年9月16日]
ホークス監督10年目の2004年は、公式戦(レギュラーシーズン)で1位となりながらも、この年からパシフィック・リーグが導入した公式戦上位3チームによるプレーオフ(現、クライマックス・シリーズ)で敗れ2位。球団名が福岡ソフトバンクホークスに改称された翌2005年も公式戦1位となったが、ふたたびプレーオフで敗れ、2年連続の2位で終わった。2006年のシーズン途中に病気療養のためにチームを離れたが、2007年から復帰。2008年に監督退任。
選手としての22年間の通算成績は、出場試合2831、安打2786、打率3割1厘、本塁打868、打点2170。獲得したおもなタイトルは、首位打者5回、本塁打王15回、打点王13回、三冠王2回、最優秀選手(MVP)9回、ベストナイン18回、ダイヤモンドグラブ賞(現、ゴールデン・グラブ賞)9回。監督としての通算成績は、2507試合、1315勝1118敗74分け、勝率5割4分、リーグ優勝4回、日本シリーズ優勝2回。1994年(平成6)に野球殿堂(野球殿堂博物館)入り。
[編集部 2016年9月16日]
『大和球士著『王貞治』(1980・恒文社)』▽『王貞治著『回想』(1981・勁文社)』▽『王貞治著『夢を追え――野球にかけた人生』(1993・日本放送協会)』
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…〈広く各界各層の国民に敬愛される人柄を持ち,かつ広く国民に親しみのある分野で前人未到の業績をあげ,社会に明るい希望と話題を与えた人物〉に対する表彰で,内閣総理大臣の決定による。プロ野球読売ジャイアンツの王貞治が通算最多本塁打世界記録更新にあと一歩と迫った1977年8月30日の閣議の席上,福田赳夫首相が言い出したもので,王の記録(756本)達成の瞬間に初めて適用されることになり,同年9月3日に王に初めて贈られた。その後78年7月作曲家の故古賀政男,84年4月俳優の故長谷川一夫および冒険家の植村直己(受賞時点で消息不明,その後死亡がほぼ確定)に贈られた。…
…51‐53年は水原茂監督ひきいる巨人軍が川上,青田昇,千葉茂,別所毅彦,大友工,藤本英雄らを擁して日本一の座につき,56‐58年は三原脩監督ひきいる西鉄ライオンズが,エースの稲尾和久をはじめ中西太,大下などを打撃陣にそろえて3連覇を果たした。59年の巨人対阪神のいわゆる〈天覧試合〉では巨人のルーキー王貞治が本塁打を打ち,入団2年目の長島茂雄の打球はさよなら本塁打となってファンをわかせた。この王,長島は〈ON砲〉といわれ,川上監督ひきいる巨人軍の9年連続日本一(1965‐73)に大きく貢献した。…
※「王貞治」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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