改訂新版 世界大百科事典 「相良知安」の意味・わかりやすい解説
相良知安 (さがらともやす)
生没年:1836-1906(天保7-明治39)
明治初・中期の医学者で,日本のドイツ医学採用を強く進言した。医制の起案をなす。佐賀県生れ。鍋島藩医学校を経て,佐藤尚中,ボードインAnthonius F.Bauduinなどに学び,鍋島閑叟の侍医となる。1869年(明治2)医学取調御用掛となるが,同僚岩佐純とともに,G.H.F.フルベッキの意見を参考として,ドイツ医学の採用決定に大きな役割をなす。一部に強い反対があり,イギリス人医師W.ウィリスの処遇,初回の教師の来着の遅れなどの問題があったが,71年ドイツ人教師ミュルレルLeopold B.C.Müller,ホフマンTheodor Hoffmannの来着をみた。また彼は上野の寛永寺の跡を医学校の敷地にすることを主張したが,これは実現しなかった。72年第一大学区医学校長,翌年文部省医務局長などをつとめるが,冤罪で入獄させられたこともあり,その晩年は不遇であった。
執筆者:長門谷 洋治
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