植物学者。伊豆の韮山(にらやま)に医師の子として生まれ、初め英語を学び、1869年(明治2)開成学校教官となり、のち外務省に転じた。1870年外務省の命によって森有礼(ありのり)とともに渡米、1876年までコーネル大学に留学した。その間、A・グレーらの植物学を学び、帰国後は東京開成学校の五等教授となり、1877年東京大学設立とともに理学部生物学科担当の教授に就任、小石川植物園管理を兼ねた。形態学、生理学、分類学から応用生物学まで担当し、日本の基礎植物学の開拓に尽力した。北海道から九州までの植物を採集し、海外からの寄贈の標本も含めて教育上の資料とし、分類学の基礎を整備した。またE・モースと協力して東京生物学会を創立し、その後、東京植物学会の創立、『植物学雑誌』創刊にも寄与した。ローマ字論者、新体詩の先駆者としても活躍。1891年帝国大学を辞し、1898年東京高等師範学校長となったが、翌年、鎌倉由比ヶ浜(ゆいがはま)で海水浴中に死去した。
[佐藤七郎]
(鈴木善次)
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植物学者。伊豆韮山(にらやま)の出身。1870年外交吏として渡米後に辞職して,コーネル大学で植物学を学び,76年帰国し,翌年東京大学設立とともに26歳で理学部植物学科の初代教授に就任。そのほか博物館長,植物園長,盲啞学校長,東京生物学会長,植物学会長,高等師範学校長などの要職につき,日本の近代植物学の普及,研究,教育の基礎をかためる業務に尽くし,またみずから日本の植物の調査に従事した。《日本植物図解》(1891-93),《日本植物篇》(1900)などの著作のほか《動物学初歩》(1888),《植物通解》(1885)などの訳書がある。啓蒙主義者であり,ローマ字論者であった。また新体詩運動に加わり作詩をのこした。99年8月8日鎌倉由比ヶ浜で海水浴中に没した。
執筆者:佐藤 七郎
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…しかし結局は自然に向けての詠嘆と抒情に流れたのも,長い日本の詩歌の伝統からすれば当然のなりゆきであったろう。T.グレーの《墓畔の哀歌》(1751)は,自然のなかの哀愁,人生の無常性についての瞑想など,もともと日本人ごのみの要素を含むのだが,それが〈山々かすみいりあひの/鐘は鳴りつつ野の牛は……〉(1882,矢田部良吉)という七五調に移しかえられて愛誦されたのは,示唆的なことである。さらに大正期の好みは,いっそう純粋に個人的なフランス象徴派にはっきり傾斜していった。…
…子房は半下位。キレンゲショウマただ1種だけからなるこの属は,1890年,当時東京帝国大学の教授であった矢田部良吉が,日本人として最初に発表した属で,和名がそのまま学名にされたものである。東アジア固有属で,日本の紀伊半島(大峰山系),四国,九州に自生し,朝鮮,中国東部にも知られる。…
…1882年(明治15)に丸善から刊行の日本最初の近代詩集。帝国大学(のちの東京大学)の教官外山正一(ゝ山(ちゆざん)),井上哲次郎(巽軒(そんけん)),矢田部良吉(尚今(しようこん))の共著で,3人の序文,翻訳詩14編,創作詩5編から成る。伝統的な短い詩形を近代には不向きなものと断定し,西洋詩の模倣を合言葉としたが,用語や発想は短歌を基礎としている。…
※「矢田部良吉」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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