平安時代の初期の僧侶。最新の仏教を学ぶため、遣唐使の一員として唐(中国)に渡り、密教の正統な後継者になり、真言宗を開祖した。密教の思想・世界観を表す
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弘法大師,俗に〈お大師さん〉と略称する。平安時代初期の僧で日本真言密教の大成者。真言宗の開祖。讃岐国(香川県)多度郡弘田郷に生まれた。生誕の月日は不明であるが,後に不空三蔵(705-774)の生れかわりとする信仰から,不空の忌日である6月15日生誕説が生じた。父は佐伯氏,母は阿刀(あと)氏。弟に真雅,甥に智泉,真然,智証大師円珍,また一族に実恵,道雄ら,平安時代初期の宗教界を代表する人物が輩出した。自伝によれば,788年(延暦7)15歳で上京,母方の叔父阿刀大足(あとのおおたり)について学び,18歳で大学に入学,明経道の学生として経史を博覧した。在学中に一人の沙門に会って虚空蔵求聞持(こくうぞうぐもんじ)法を教えられて以来,大学に決別し,阿波の大滝嶽,土佐の室戸崎で求聞持法を修し,吉野金峰山,伊予の石鎚山などで修行した。この間の体験によって797年24歳のとき,儒教,仏教,道教の3教の優劣を論じた出身宣言の書《三教指帰(さんごうしいき)》を著した。このころから草聖と称されるようになった。
804年4月出家得度し,東大寺戒壇院において具足戒を受け空海と号した。同年7月遣唐大使藤原葛野麻呂に従って入唐留学に出発,12月長安に到着した。翌805年西明寺に入り,諸寺を歴訪して師を求め,青竜寺の恵果に就いて学法し,同年6月同寺東塔院灌頂道場で胎蔵,7月金剛の両部灌頂を,8月には伝法阿闍梨位灌頂を受け遍照金剛の密号を授けられ,正統密教の第8祖となった。師恵果の滅後806年(大同1)越州に着いて内外の経典を収集し,同年8月明州を出発して帰国した。10月遣唐判官高階遠成に付して請来目録をたてまつったが入京を許されず,翌807年4月観世音寺に入り,次いで和泉国に移り809年7月に入京した。
同年8月,経疏の借覧を契機に最澄との交流がはじまり,10月嵯峨天皇の命で世説の屛風を献上したが,このころから書や詩文を通じて嵯峨天皇や文人の認めるところとなった。810年(弘仁1)10月,高雄山寺で仁王経等の儀軌による鎮護国家の修法を申請したが,これが空海の公的な修法の初例である。811年10月,乙訓(おとくに)寺別当に補され修造を命じられたが,812年10月高雄山寺に帰り,11月最澄や和気真綱に金剛界結縁灌頂,12月には最澄以下194名に胎蔵界結縁灌頂を授けた。813年最澄は弟子円澄,泰範,光定らを空海の下に派遣して学ばしめ,同年3月の高雄山寺の金剛界灌頂には泰範,円澄,光定らが入坦している。812年末の高雄山寺の灌頂や三綱(さんごう)の設置は教団の組織化を意味しており,813年5月には,いわゆる弘仁の遺誡を作って諸弟子を戒めている。814年には日光山の勝道上人のために碑銘を撰し,815年4月には弟子の康守,安行らを東国に派遣し,甲斐,常陸の国司,下野の僧広智,常陸の徳一らに密教経典の書写を勧め,東国地方への布教を企てた。このころ《弁顕密二教論》2巻を著し,816年5月,泰範の去就をめぐって,最澄との間に密教理解の根本的な相違を表明してついに決別した。
同年7月,勅許を得て高野山金剛峯寺を開創したが,819年ころから《広付法伝》2巻,《即身成仏義》《声字実相義》《吽字義(うんじぎ)》《文鏡秘府論》6巻,820年《文筆眼心抄》などを著述して,その思想的立場と教理体系を明らかにした。820年10月伝灯大法師位,821年5月には請われて讃岐国満濃池を修築し,土木工事の技術と指導力に才能を発揮した。822年2月,東大寺に灌頂道場を建立して鎮護国家の修法道場とした。823年正月,東寺を賜り真言密教の根本道場とし,同年10月には真言宗僧侶の学修に必要な三学論を作成して献上し,50人の僧をおいて祈願修法せしめた。824年(天長1)少僧都,827年大僧都。828年12月,藤原三守の九条第を譲りうけて綜芸種智院(しゆげいしゆちいん)を開き儒仏道の3教を講じて庶民に門戸を開放した。このころ,漢字辞書として日本最初の《篆隷万象名義(てんれいばんしようめいぎ)》30巻を撰述した。830年天長六宗書の一つである《十住心論》10巻,《秘蔵宝鑰(ほうやく)》3巻を著し,真言密教の思想体系を完成した。《弁顕密二教論》では顕教と密教を比較して,顕教では救われない人も密教では救われること,即身成仏の思想を表明しており,これを横の教判といい,《十住心論》の縦の教判に対する。
空海は個人の宗教的人格の完成,即身成仏と国家社会の鎮護と救済を目標としたが,832年8月,高野山で行った万灯万華法会や,835年(承和2)正月以来恒例となった宮中真言院における後七日御修法(ごしちにちみしゆほう)はその象徴的表現である。同年正月には真言宗年分度者3名の設置が勅許され,翌2月,金剛峯寺は定額寺に列した。同年3月21日奥院に入定した。世寿62。857年(天安1)大僧正,864年(貞観6)法印大和尚位を追贈され,921年(延喜21)弘法大師の号が諡(おく)られた。宗教家としてのほかに文学,芸術,学問,社会事業など多方面に活躍し,文化史上の功績は大きく,それに比例して伝説も多い。
→金剛峯寺
執筆者:和多 秀乗
空海は日本書道界の祖として重視され,嵯峨天皇とともに二聖と呼ばれ,また橘逸勢を加えて三筆とも呼ばれる。世に空海筆と称されるものは数多いが,確実に彼の筆と認められるのは《風信帖》《灌頂歴名》《真言七祖像賛》《聾瞽指帰(ろうこしいき)》《金剛般若経開題》《大日経開題》《三十帖冊子》などである。《風信帖》は空海から最澄にあてた書状で三通あり,いずれも812,3年ころのもの。《灌頂歴名》は高尾神護寺で812年に授けた金剛界,胎蔵界灌頂に連なった人々の名簿。《真言七祖像賛》は金剛智,善無畏,不空,恵果,一行,竜猛,竜智の7人の画像の,初めの3幅にはそれぞれの名の梵号と漢名を飛白体で,次の2幅には漢名を行書で書き,画像の下部には付法伝が小字で記される。竜猛,竜智のものは空海筆か疑わしい。《聾瞽指帰》は797年の著述原稿で,彼の若年の書法を知るに貴重である。《金剛般若経開題》は815年の著作の草稿で,書き直しや墨の抹消など推敲の跡がある。《三十帖冊子》は空海が入唐中に経典,儀軌,真言などを書写したノートで,現存するものは《三十帖冊子》のほかに《十地経》《十力経》の32帖が伝わる。空海自筆の部分と,彼とともに入唐した橘逸勢筆といわれる部分,他の人々の書写した部分などを含んでいる。彼の書法は,王羲之の書法に顔真卿の法を加えて独自のものとしており,後世の書道界に大きな影響を与えた。
執筆者:栗原 治夫
弘法大師空海についてはさまざまな伝承が形成され,その人物像は多様に展開した。それらは平安~室町時代を通して制作された各種の大師伝記に詳しい。最も早い時期に成立したのは,大師自身の遺言という体裁をもつ《遺告(ゆいごう)》の諸本であり,次いで11世紀初頭から12世紀にかけて,《金剛峯寺建立修行縁起》,経範の《弘法大師行状集記》(1089),大江匡房の《本朝神仙伝》,藤原敦光の《弘法大師行化記》などに大師の説話伝承が集められていく。これらは《今昔物語集》《打聞集》などの説話集の典拠となっている。鎌倉期には,これらの諸伝を基として各種の大師絵伝が制作される。その成立には確実な説はないが,梅津次郎によれば,13世紀半ばに《高祖大師秘密縁起》《弘法大師行状図画》が成り,1374年(文中3・応安7)には東寺において《弘法大師行状記》が成立する。南北朝期以降は,上記大師伝の物語化,注釈化が行われる。注釈面では,《弘法大師行状要記》がその代表である。物語には,《高野物語》《宗論物語》がある。さらに,幸若《笛の巻》,説経《苅萱(かるかや)》,謡曲《渡唐空海》,室町物語《横笛草子》などにも大師伝が物語られている。
伝説化の萌芽は大師の著に仮託されている《遺告》諸本にすでにみられる。たとえば誕生の奇瑞が説かれ,子どものころ,夢中に諸仏と語ったとされ,苦行中に明星が口に入ったとされるなどである。さらに《遺告》諸本にみえる伝説的な部分を記すると次のようなものがある。行基の弟子の妻から鉢を供養され,伊豆桂谷山では《大般若経》魔事品を空中に書き,入唐中には恵果または呉殷纂から三地の菩薩とたたえられ,帰朝後は神泉苑で祈雨法を修して霊験をあらわし,その功によって真言宗をたて,高野山を開くにあたっては,丹生の女神が現れて大師に帰依し土地を譲ったとされる。また,密教を守り弥勒下生に再会するため大師は入滅に擬して入定していると説かれ,宀一山(べんいつさん)(室生寺)には伝法の象徴として如意宝珠を大師が納めたとも説かれる。
やがてこれらにさまざまな伝承が加えられるようになる。入唐求法については,夢告で久米寺東塔から大日経を感得したのがその動機とされ,恵果入滅のときに影現し生々世々師弟と生じて再会しようと契ったなどとされ(清寿僧正作《弘法大師伝》),神泉苑に請雨法を行ったのは,無熱池の善如竜王を勧請し密教の奥旨を示すためであったとされる(同書,《二十五箇条遺告》)。大師が公家に召されて諸宗の学者を論破し信伏させた(《行状集記》)とする説話は,清涼殿で即身成仏の義を説き,みずから大日如来の相をあらわした(《孔雀経音義序》《修行縁起》)ことと結合して《行状図画》に宗論説話となり,他の大師の説話とあわせて《平家物語》に結びつき,《平家物語》高野巻などを形成する。《高野山秘記》には入唐中,童子の導きで流沙・葱嶺(そうれい)を越えて天竺の霊山の釈迦説法の座に連なり直接に教えを受けたとする渡天説話を伝える。唐土よりの帰朝に際して,三鈷を投げると雲に飛び入り,高野山に落ちたと伝え(《修行縁起》),また鈴杵を投げると東寺,高野山,室戸に落ちたとも伝える(《本朝神仙伝》)。大師が巡遊中に猟師にあい,高野山を教えられたとする説話(《修行縁起》)があり,延喜帝の夢想により観賢が高野山に入定した大師を拝すと,容色不変であったとする説話(《行状集記》)もあり,同様の説話は《高野山秘記》《高野物語》にもあって,《行状図画》や,《平家物語》にもとり入れられる。
書に秀でた大師の説話には,唐の宮殿の壁に,手足口を用いて五筆で詩を書くなどしたので五筆和尚の号を得たとするものがあり,また,唐土で童子が空海に流水に字を書かせ,大師が龍の字を書くが,これに点を付すと真の龍となったとするもの(《修行縁起》)がある。これらの説話は,先の渡天説話とも結合して謡曲《渡唐空海》,舞曲《笛の巻》,説経《かるかや》などに流れ込み,物語化される。書に関しては応天門の額の字を書き,書き落とした点を下から筆を飛ばして補ったとする(《修行縁起》)説話もあり,このような神異は《本朝神仙伝》に説かれている。
験者としての大師については,神泉苑で対抗する行者守円(敏)が瓶中に竜神を閉じ込め,殿上でクリを加持してゆでたり,呪詛したりするのを大師は破って勝利する(《行状集記》《御伝》)という説話があり,やがて《太平記》の神泉苑事として物語化する。
始祖としての大師は,《麗気記》などに両部神道の祖とされ,また〈いろは歌〉の作者ともされ,《玉造小町壮衰書》は大師の著に仮託されるが,これでは浄土教の唱導者の面をも与えられている。
大師の足跡を残す聖地は各所にあって,とりわけ四国に集中し,やがてこれを結んで参拝する四国八十八ヵ所の巡礼〈四国遍路(へんろ)〉が生まれた。人々は大師とともに修行することを示す〈同行二人〉と書いた帷(かたびら)を着て巡礼するが,このように大師は民衆の生活とも深くかかわっている。
→大師信仰
執筆者:阿部 泰郎
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平安初期の僧。真言宗の開祖。弘法大師(こうぼうだいし)の諡号(しごう)で知られる。
[宮坂宥勝 2017年6月20日]
宝亀(ほうき)5年、讃岐(さぬき)国多度郡(たどのこおり)屏風ヶ浦(びょうぶがうら)(香川県善通寺市善通寺)で、佐伯直田公(さえきのあたいたきみ)と阿刀(あと)氏出身の母(伝説では玉寄姫(たまよりひめ))の三男として生まれた。幼名は真魚(まお)。幼少のころ、神童(しんどう)、貴物(とうともの)などとよばれたという。母方の叔父(舅(きゅう))阿刀大足(あとのおおたり)に就いて漢籍を学んだ。15歳で京に上り、18歳で大学に入って、味酒浄成(うまざけのきよなり)に『毛詩』『尚書』を、岡田牛養(おかだのうしかい)に『春秋左氏伝』などを学んだ。あるとき一人の修行者に出会い、求聞持法(ぐもんじほう)を授かった。そこで、阿波(あわ)(徳島県)の大滝岳、土佐(高知県)の室戸(むろと)岬、伊予(愛媛県)の石鎚(いしづち)山、大和(やまと)(奈良県)の金峰山(きんぶせん)などの聖地を巡り歩いて修行に励んだ。こうして出家の決意を固め、24歳のとき『三教指帰(さんごうしいき)』(別本または草稿本は高野山金剛峯寺(こうやさんこんごうぶじ)蔵の『聾瞽指帰(ろうこしいき)』。国宝)を著した。それは思想劇の形をとり、儒教・道教・仏教の優劣を論じ、大乗仏教をもっとも優れた教えであるとする一種の比較思想論である。以後、約7年間の行跡はまったく不明であるが、奈良六宗のほかに、すでに密教も学んでいたと思われる。また高野山を発見したのも弱年のころであったとみられる。
804年(延暦23)31歳のとき、遣唐大使藤原葛野麻呂(ふじわらのかどのまろ)(755―818)の船に橘逸勢(たちばなのはやなり)らと同乗し、途中、暴風雨にあい九死に一生を得て入唐(にっとう)。この年12月に長安に入った。翌805年、長安醴泉寺(れいせんじ)の般若三蔵(はんにゃさんぞう)らに就いてサンスクリット(梵語(ぼんご))やインドの学問を学習し、同年6月から半年間、青龍寺の恵果(けいか)から密教の伝授を受けて、真言密教の第八祖を継いだ。同年12月15日、恵果が60歳で没したとき、門下から選ばれて追悼の碑文を書いた。長安滞在中は、唐の仏者たちのみならず多くの文人墨客と交流し、広く文化を摂取した。806年(大同1)10月に帰国、膨大な密教の典籍、仏像、法典、曼荼羅(まんだら)、その他の文物を日本にもたらし、12月に『請来(しょうらい)目録』を朝廷に差し出した。809年に京都高雄山寺(たかおさんじ)(神護寺)に入り、翌810年、国家を鎮める修法を行った。812年(弘仁3)には比叡山(ひえいざん)の最澄(さいちょう)や弟子に灌頂(かんじょう)(水を頭に注いで仏位につかせる儀式)を授けた。816年6月、43歳のとき、高野山を国家のために、また修行者の道場とするために開きたいと嵯峨(さが)天皇に上奏し、7月8日に勅許を得、819年5月から伽藍(がらん)の建立に着手した。このようにして高野山は、天台宗の比叡山とともに平安初期の山岳仏教の拠点となる。一方、821年9月には四国讃岐の満濃池(まんのうのいけ)(香川県まんのう町)を修築し、農民のために尽力している。また823年1月、京都の東寺(教王護国寺)を給預されたので、ここを京都における真言密教の根本道場に定め、後進の育成に努めた。828年(天長5)12月東寺の東隣に日本最初の庶民教育の学校として綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を開設した。835年(承和2)1月、宮中真言院で後七日御修法(ごしちにちみしゅほう)を行い、同年3月21日に高野山で入滅した。齢62歳。921年(延喜21)醍醐(だいご)天皇から弘法大師の諡号が贈られた。
[宮坂宥勝 2017年6月20日]
空海は在唐中にインド直伝の密教を学び、帰国後、それらの組織化、総合化に努め、『大日経(だいにちきょう)』系と『金剛頂経(こんごうちょうぎょう)』系の密教を両部としてまとめることに成功した。また、一宗の開祖にとどまらず、中唐後期の大陸の文化を幅広く移入し、平安初期の日本の文化全般に寄与したことは計り知れないものがある。
著書には、一般仏教(顕教(けんぎょう))と密教とを対比し密教の特色を明らかにした『弁顕密(べんけんみつ)二教論』や、人間精神の発達段階と世界思想史とを組み合わせた『秘密曼荼羅十住心論(まんだらじゅうじゅうしんろん)』(『十住心論(じゅうじゅうしんろん)』)と『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』、また『即身成仏義(そくしんじょうぶつぎ)』『声字実相義(しょうじじっそうぎ)』『吽字義(うんじぎ)』の三部書、さらに『般若心経(はんにゃしんぎょう)』の注解書である『般若心経秘鍵(ひけん)』その他がある。文学的業績では、『三教指帰』をはじめ、日本最初の辞典『篆隷(てんれい)万象名義』(1114年書写、高山寺蔵、国宝)の編集や、文芸評論と作文概論を兼ねた『文鏡秘府論(ぶんきょうひふろん)』『文筆眼心抄』などの著がある。また、空海の詩文を拾集したものに弟子の真済(しんぜい)編『遍照発揮性霊集(へんじょうほっきしょうりょうしゅう)』(『性霊集』)があるほか、書簡類を集成した『高野雑筆集』がある。このほか、密教芸術の指導、医学、科学に至るまで、その活動はすこぶる多方面にわたっている。
なお、空海の伝記には、真済の『空海僧都(そうず)伝』、藤原良房(よしふさ)の『大僧都空海伝』などがある。『今昔(こんじゃく)物語』には高野山開創など四つの説話を収める。大師にまつわる伝説は各地にあり、全国でその数3000~4000といわれる。
[宮坂宥勝 2017年6月20日]
空海は同時代の嵯峨(さが)天皇、橘逸勢(たちばなのはやなり)と並んで三筆の一人として名高い。その書は、奈良朝以来の伝統的な王羲之(おうぎし)書法を根幹としている。これに、入唐(にっとう)当時流行した顔真卿(がんしんけい)、徐浩(じょこう)(703―782)ら唐代中期の能書の感化を受け、独自の書風を完成した。ふところを広くとる造字法、重厚な筆遣いは、スケールの大きい、表現力豊かなものである。空海以前にはみられない書風で、日本書道史に一つの転機をもたらし、後世の書壇にも大きな影響を与えた。近世初期には、その書流は松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)らによって、大師流の名で盛んに行われたことは注目される。今日まで伝えられる空海の書として、入唐前24歳で書いた『聾瞽指帰(ろうごしいき)』があり、すでに非凡な才能を十分発揮している。さらに在唐中に記録をとった『三十帖冊子(さんじゅうじょうさっし)』(京都・仁和寺(にんなじ)、国宝)、812年(弘仁3)から翌813年にかけて灌頂(かんじょう)を授けたときの記録『灌頂歴名(かんじょうれきめい)』(京都・神護寺、国宝)はいずれも卒意の書(心のおもむくまま自由に書いた書、普段着の書)で、盛唐の書の影響がみられる。もっとも著名な『風信帖』(京都・東寺、国宝)は伝教大師最澄にあてた書状3通を1巻に調巻したもので、空海の最高傑作といえよう。また、『真言七祖像賛並行状文』(東寺)は飛白(ひはく)(刷毛(はけ)で書いたようなかすれ書きの書)体の珍しいもので、各書体に堪能(たんのう)であった空海を物語る遺墨である。このほかにも多くの遺墨があり、いずれも名筆として尊重される。
[島谷弘幸 2017年6月20日]
『『弘法大師全集』全8巻(1965~1968/全11巻・1991~1997・密教文化研究所)』▽『『弘法大師空海全集』全8巻(1983~1986・筑摩書房)』▽『渡辺照宏・宮坂宥勝著『沙門空海』(1967・筑摩書房/ちくま学芸文庫)』▽『中田勇次郎編『書道芸術12 空海』(1975・中央公論社)』▽『斎藤昭俊編著『弘法大師伝説集』全3巻(1976・国書刊行会)』▽『北條賢三著『空海と伝説』、宮崎忍勝著『大師信仰の秘密』(松長有慶監修『弘法大師空海』所収・1984・毎日新聞社)』▽『宮崎忍勝著『四国遍路』(1985・朱鷺書房)』▽『金岡秀友編『空海辞典』新装版(1999・東京堂出版)』▽『岸田知子著『空海と中国文化』(2003・大修館書店)』▽『阿部龍樹著『空海の般若心経』(2004・春秋社)』▽『加藤豊仭著『空海筆「風信帖」の形を読む』(2004・世界書院)』▽『頼富本宏著『空海と密教――「情報」と「癒し」の扉をひらく』(PHP新書)』
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(上山春平)
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774~835.3.21
弘法大師・遍照金剛とも。平安前期の真言宗開祖。讃岐国多度郡屏風浦(びょうぶがうら)の佐伯直田公(さえきのあたいたきみ)の子。上京して大学などで経史・文章を学んだが,まもなく仏教に開眼。阿波国大滝山・土佐国室戸崎などで修行するうち「大日経」に出会って密教を奉ずるに至った。得度受戒後,804年(延暦23)遣唐使に従い入唐。長安青竜寺の恵果(けいか)から「大日経」による胎蔵界と「金剛頂経」による金剛界を両翼とする密教を受法し,806年(大同元)帰朝。以後おもに高雄山寺(現,神護寺)に住し,最澄とも交流したがのち決別。816年(弘仁7)高野山開創に着手,822年東大寺南院に灌頂(かんじょう)道場を設立,翌年東寺(教王護国寺)を賜り真言密教専修の寺とした。この頃から多くの公的修法を行い,824年(天長元)少僧都(そうず)に,827年大僧都になる。翌年綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を創始。832年頃からは高野山に隠棲しつつ,後七日御修法(ごしちにちのみしほ)・真言宗年分度者を創設させ,真言宗の基盤をほぼ完成した。漢詩文にも優れ,書道では三筆の1人とされた。著述は密教文化研究所編「弘法大師全集」,勝又俊教編「弘法大師著作全集」,書は「弘法大師真蹟集成」所収。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…嵯峨朝の宮廷詩人であるが,〈東国征戍辺愁〉の吟や坂上田村麻呂をいたんだ作に力強い佳作がある。空海と相許した詩友で,〈白雲の人,天辺の吏,何れの日か念(おも)うことなからん〉という詩(《性霊集》一)を贈られ,自分も帰休間遊の際に,〈言を寄す陵藪の客,大隠は朝市に隠るるものを〉(《経国集》十)と詠んで贈った。延暦以来の23人の詩を集め《凌雲集(りよううんしゆう)》を撰して序を書き(814),儀典行事の新式を定め《内裏式》を撰して序を作った(821)。…
… 灌頂は日本では最澄が805年(延暦24)に高雄山寺で行ったのが最初とされる。その後,正統な密教を伝え,最澄に遅れて帰国した空海は,812年(弘仁3)に同じ高雄山寺で灌頂を行ったが(11月に金剛界,次いで12月には胎蔵界),それには最澄も含め166名が参加し,受法したと伝えられる。後には,平城(へいぜい)天皇や嵯峨(さが)天皇なども空海から灌頂を受けている。…
…この《玉篇》は,当該の漢字の字義を知ることができるとともに,その漢字が用いられた用例と出典をも知ることができるものであった。平安時代に入って,空海が詩論と作詩書の性格を兼ねた《文鏡秘府論》を著し,また《玉篇》の漢字辞典としての部分だけを抜きだした辞書《篆隷万象名義(てんれいばんしようめいぎ)》をも作った。こうしたものをもとに漢和辞典の先駆けとしての性格をもつ《新撰字鏡》が作られ,そののち《類聚名義抄》などの字書が作られた。…
…これを改正増補して隋の天台宗の智顗(ちぎ)は,一華厳(阿含)時,二鹿苑時,三方等時,四般若時,五法華・涅槃時の五時にわたり,説法方法からして頓・漸・秘密・不定の四教と説法内容からして蔵・通・別・円の四教との八教が説かれたという五時八教の教判を完成させ,唐の華厳宗の智儼(602‐668)や法蔵は,一小乗教,二大乗始教,三終教,四頓教,五円教の五教と,我法俱有宗,法有我無宗,法無去来宗,現通仮実宗,俗妄真実宗,諸法但名宗,一切皆空宗,真徳不空宗,相想俱絶宗,円明俱徳宗の十宗の教判を完成させた。日本においても,空海の顕密二教を分かち十住心(《十住心論》)を立てる教判や,親鸞の頓教に難行易行の二道と竪超横超の二超を立てて漸教・小乗教に対比させる教判などが説かれた。【荒牧 典俊】。…
…中国,唐代の真言僧。大広智不空に,金剛界法をうけ,弘法大師空海に伝える。真言宗第7祖とよばれる。…
…真言宗の開祖である弘法大師空海の伝記絵巻。誕生から入唐,入定まで,あるいは死後の栄誉をも含め,奇瑞にみちた一代記を描く。…
…周囲の山塊は紀ノ川支流の丹生川,貴志川と有田川,十津(とつ)川の源流となっている。9世紀に空海がこの地に真言宗金剛峯寺を創建し,以後比叡山延暦寺と並ぶ山岳仏教の中心地として現在に至っている。明治末までに和歌山線が開通し,大正末までに南海電鉄高野線が極楽橋まで,昭和初めに南海高野ケーブルが高野山まで開通して京阪神からの交通の便がよくなり,観光客も多数訪れる。…
…元日から7日までの節会の後の,7日間の修法から後七日といい,真言院御修法,後七日法ともいう。834年(承和1)空海が勅命により大内裏中務省において始行し,同年空海が上奏,唐の例にならって宮中に真言院が造立された。翌年から恒例として宮中御斎会と並んで行われるようになり,東寺一の長者が導師を勤めた。…
…和歌山県伊都郡高野町高野山にある。816年(弘仁7)空海が修善の地として嵯峨天皇の勅許を得て開創した。金剛峯寺の名は《金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経》による。…
…弘法大師空海の出家宣言の書。797年(延暦16)成立,ときに空海24歳。…
…四国の島内に散在する,弘法大師(空海)ゆかりの霊場88ヵ所を,順を追って参詣する巡礼コースで,四国八十八ヵ所弘法大師霊場とも称する。一般にはこれを〈遍路〉〈お四国〉などと呼んで,観音霊場の巡礼と区別している。…
…空海(弘法大師)の著。詳しくは《秘密曼荼羅十住心論》という。…
…空海が設立した私立学校。従来の大学や国学が限られた身分の子弟を入学させ,かつ儒教中心の教育を行ったのに対し,はじめて庶民を対象とし,仏教および儒教を教授することを目的とした。…
…書も唐風から和風への萌芽を見せ始めて,王羲之を主流とした伝統的書風の中に温雅な風韻を持ちつつあった。その頂点に三筆(嵯峨天皇,空海,橘逸勢(はやなり))が位置する。空海はその代表で,入唐以前の24歳のときの筆になる《聾瞽指帰(ろうこしいき)》は,王羲之そのままの筆法を踏襲しながらも,若さと日本的な柔和な筆触が表れており,さらに帰朝後の書状《風信帖》になると,唐風を脱した日本人としての自覚的書風を創り始めている。…
…720年(養老4)に,唐僧道栄の曲節に従って〈転経唱礼〉を統一させる詔勅が出され,752年(天平勝宝4)の東大寺大仏開眼供養会には数百名の僧侶が四箇法要(しかほうよう)(《唄》《散花》《梵音》《錫杖》)を勤めるなど,この時期に法会の形式がかなり整い,今日に伝わる奈良声明の原型が形成されたと思われる。 平安朝には空海と最澄が804年(延暦23)に入唐し,真言,天台両宗をそれぞれ伝え,声明の新たな発展期に入る。空海は梵語讃などを数多く請来し真言声明の祖とされるが,天台声明では838年(承和5)に入唐した円仁を事実上の祖とし,両声明はそれぞれ京都の東寺,延暦寺を中心として発展する。…
…あわせて230部460巻の経典と道具が記載され,このうち〈越州録〉は原本が伝えられ,巻尾には明州刺史鄭審則の証明がある。空海(804‐806年在唐)は青竜寺恵果らからの請来の経典類,曼荼羅,図像,祖師像,法具と恵果の付嘱物を挙げ,その由来や意義を述べる。東寺に伝えられるものは1341年(興国2∥暦応4)に叡山から寄進され,最澄が書写したものである。…
…〈せいれいしゅう〉ともいい,詳しくは《遍照発揮(へんじようほつき∥へんじようはつき)性霊集》という。空海(弘法大師)の詩文などを集めて10巻としたもの。編者は空海の弟子真済(しんぜい)で,のち8,9,10の3巻が散逸したため,1079年(承暦3)に済暹(さいせん)が補い,《続性霊集補闕鈔》3巻を編集して巻数を旧に復した。…
…和気真綱が824年(天長1)奏上して,父清麻呂が創建した河内の神願寺を,現寺地にあった和気氏の氏寺高雄寺(高雄山寺ともいう)と合併,神護国祚真言寺と改称して勅願寺となし,この寺名の上2字をとって神護寺と号したのが,当寺の起源である。高雄寺の時代,唐から帰朝した空海は807年(大同2)勅によって当寺に入り,以後ここを本拠に真言密教の興隆につとめた。有名な空海自筆の《灌頂歴名》(国宝)は,812年(弘仁3)空海が当寺で最澄,真綱,泰範,円澄ら190余人に両部灌頂を伝授したときの記録である。…
…これが三密(口密,身密,意密)瑜伽(ゆが)による即身成仏の実践である。空海(弘法大師)はこのような即身成仏によって仏の加持力を発揮し,衆生の諸願を満足させる目的で,密教による一宗派を開いた。このとき口に誦する真言の力を最も重んじたので,この宗派を真言宗と名付けた。…
…真言陀羅尼(だらに)宗ともいい,また天台系の密教を台密というのに対して東密(東寺の密教)とも呼ばれる。宗祖は空海(弘法大師)。奈良時代,すでに密教は日本へ伝えられていたが,きわめて断片的なものであった。…
…空海編の漢字字書。830年(天長7)以降,数年の間に成立か。…
… 創建の時期は明らかではないが,794年(延暦13)の平安奠都とともに,西寺に対して羅城門の東に建てられたものと考えられる。823年(弘仁14)嵯峨天皇は空海にこの寺を与え,50人の僧を置いて真言研修の道場とした。これが真言宗としての東寺のはじまりである。…
…ところが日本では,これがいろいろ異なった意味に用いられるようになった。一つは修行者が山林修行をすることで,空海は山林修行する人を〈入定之賓〉といっている。一般に奈良・平安時代初期には禅定も山林修行を意味しており,山林修行者を禅師と呼んだ。…
…空海から最澄にあてた尺牘(せきとく)(書状)。3通をおさめている。…
…ここに新しい平安仏教が出現する契機があった。桓武朝の末年,入唐求法(につとうぐほう)して持ち帰った最澄の天台宗,空海の真言宗がこれである。だが,南都仏教も平安仏教も,前者は〈鎮護国家〉,後者は〈護国仏教〉を標榜し,目的語句こそ異なったが,ともに古代国家の隆盛期に形成された仏教として,所詮は国家仏教の性格を共通してもっていた。…
…6巻。弘法大師空海の撰。820年(弘仁11)以前の成立。…
…1巻。弘法大師空海の撰。820年(弘仁11)成立。…
…《讃岐国万農池後碑文(さぬきのくにまんのうのいけじりひぶん)》(1020)によると,8世紀初めに讃岐守であった道守朝臣(みちもりのあそん)某によって築造されたとあるが,詳細は不明。818年(弘仁9)に堤が大破したため,821年に当国出身の空海を在地の郡司層らの要請をいれて派遣し,農民を動員して修築させた。その後も決壊,築堤が繰り返され,851年(仁寿1)には讃岐権守弘宗王が大規模な修築を行った。…
…〈みえいく〉ともいう。真言宗の開祖弘法大師空海は835年(承和2)3月21日に入定(にゆうじよう)した。この入定の日に勤修する法会を御影供といい,毎年(旧暦)修される正御影供(しようみえく)と月ごとの月並(つきなみ)御影供がある。…
… 日本には,密教はすでに7世紀後半に断片的な形で伝えられていた。けれども初めて体系的なインド中期密教をもたらし,それを日本的に再構成したのは,天台宗の開祖伝教大師最澄と真言宗の開祖弘法大師空海であった。最澄と空海は,804年(延暦23)共に入唐し,最澄は,天台,戒,禅を主として学び,あわせて順暁から密教の付法を,大素らから雑密法を受け,一方空海は,恵果から両部の密教を皆伝された。…
…学問僧のなかには,733年(天平5)に入唐した栄叡(ようえい),普照(ふしよう)らのように鑑真の来日に尽力したものもあった。 平安時代になると,804年(延暦23)の遣唐使に最澄と空海が随行し,彼らの学んできた天台や密教は,日本的な仏教が生まれてくる母体となった。このころから留学期間も一般に短くなり,最澄,空海も遣唐使とともに帰国している。…
…向かって右(東)が胎蔵界曼荼羅,左(西)が金剛界曼荼羅である。現存の両界曼荼羅のほとんどが空海請来系の現図曼荼羅であり,模写されて広く流布している。空海《請来目録》に,〈大毘盧遮那大悲胎蔵大曼荼羅一鋪(七幅,一丈六尺),金剛界九会曼荼羅一鋪(七幅,一丈六尺)〉とあるのが現図曼荼羅であり,この双幅の大曼荼羅は,空海の師の恵果(けいか)が供奉丹青(ぐぶたんせい)李真ら10余人の画工に描かせたといわれ,恵果より直接伝授されたものである。…
※「空海」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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