さし迫った危難を避けるために,やむをえずした行為で,一定の条件のもとに,犯罪としての成立が否定されたり,損害賠償責任が否定されたりするもの。国内法上のものと国際法上のものとがある。
古くはヘレニズム時代にカルネアデスが,船が難破したときに,1人しかつかまれない板にしがみついている人間を突き落として板を奪い,みずから助かることはゆるされるか,という形で問題を提出した(カルネアデスの板)。宗教や倫理の問題としてはともかく,法律の問題としては,切迫した危難のもとにおいて,他者に損害を与えて難を避けることを一定限度においては認めざるをえないというのが,少なくとも現代の多くの国のとっている態度である。日本の刑法上は,自己または他人の生命,身体,自由もしくは財産に対する急迫(条文上は〈現在〉)の危難を避けるためにやむをえずした行為は一定の条件が備わっている場合,犯罪とならない(刑法37条1項)。緊急状態においてやむをえずした行為が,形式的には犯罪にあたるにもかかわらず犯罪の成立が否定されるという点では正当防衛と似ている。しかし,正当防衛においては,犯罪の成否が問題となっている当の行為者と被害者とは正対不正の関係にあるのに対して,緊急避難においては正対正の関係にある点で,両者は基本的に異なる。例えば,山登りの途中石がころがり落ちてきたのを避けようとして横に居たBを突きとばした場合,また,Aが不正になぐりかかってきたのでやむをえず横に居たBを突きとばして逃げたような場合は,Bに対する暴行や傷害は,緊急避難として,罪にならないのである。しかし,これらの場合被害者Bは何も悪いことをしていないのだから,このようなことが刑法上許されるのはよほどの場合でなければならない。そこでその要件は正当防衛の場合よりもいくぶん厳格になる。まず,ほかにとるべき方法がないことが必要である(補充の原則)。次に,その行為から生じた害が,その避けようとした害の程度を超えないことが必要である(法益権衡の原則)。両者が同じでもよい。もっとも,補充の原則や法益権衡の原則を満たさない場合でも,犯罪として成立はするが,情状によってはその刑を減免できる(過剰避難,37条1項但書)。また,現在の危難が実はないのにあると誤信して行為した場合は緊急避難ではないが,誤想避難といって,少なくとも故意犯にはならず,ただ誤認したことについて過失があれば,過失を罰する規定がある場合に限って過失犯として処罰される。また,避難の時点だけを見れば一応緊急避難の要件が満たされていても,それがみずから招いた危難であり,危難を招いたことについて責任があるときは,緊急避難とはならない,というのが判例である。なお,警察官や消防官など,業務上危難におもむくべき特別な義務のある者については,みだりに義務遂行を怠ることを許さないために,一般人と同じ条件では緊急避難は認められない(37条2項)。
民法上も,急迫の危難を避けるために他人に加えた損害については,不法行為による賠償責任を免れる。しかし刑法上の緊急避難とは異なり,危難は他人の〈物〉から生ずる場合に限られ,人の行為から生ずる場合は含まない。それだけでなく,危難を生じさせている物自体を損壊する場合に限られ,それ以外の物を損壊したりする場合を含まない。例えば,隣家の犬が突然かみついてきたのでその犬を殺した場合は,犯罪が成立しないだけでなく,民事上の責任も負わない。だが,その犬から逃げるために第三者の垣根をこわした場合は,犯罪は成立しないが,民事上はその第三者に対して損害賠償責任を負うのである。
執筆者:林 幹人
外国からの違法な侵害に対して自国を防衛する権利を自衛権というが,他方その侵害が違法でない場合でも,自国または自国民に対する急迫または現実の危害があり,他の手段によってそれを避けることができない場合に,やむをえずその国家が実力でもって防衛行動にでることを緊急避難ないし緊急権(英語でright of necessity,ドイツ語でNotstandrecht)といい,その行為の違法性が阻却される。緊急避難の要件と限界は,自衛権が外国の違法な侵害を前提とするものであるのに対し,緊急避難が違法でない侵害に対するものである点を除き,自衛権の場合と同様である。ただし,自衛権の場合には相手国に対する損害賠償を要しないが,緊急避難の場合には,相手国の違法行為によるものでないため,損害賠償を要する。緊急避難の例としては,1807年のデンマーク艦隊引渡要求事件がある。この事件は,ナポレオン戦争中に発生したもので,イギリスは,デンマーク艦隊がナポレオンのイギリス侵略の手段に用いられることをおそれ,デンマークに,イギリスと同盟を結ぶか,あるいは戦争終了まで艦隊をイギリスに引き渡すかを要求したが,デンマークがそれを拒否したため,イギリスはデンマーク艦隊を攻撃し,接収した事件である。また,類似の事件に,第2次大戦初期の1940年に発生したオラン港事件がある。この事件は,フランスがドイツに屈服した際,イギリスは,フランス領のオラン港に避難したフランス艦隊がドイツの手に入るのをおそれ,フランス艦隊司令官に対し,イギリス海軍と協力するか,イギリスの監視下に入るか,みずから武装解除するか,自沈するかを要求したが,フランス艦隊司令官がその要求をすべて拒否したため,フランス艦隊を攻撃しその大半を撃沈した事件である。このように,相手国に違法性がないにもかかわらず,緊急の必要性を理由に武力が行使された例があるが,今日の国連憲章の下では,そうした緊急避難を理由とする武力の行使は許されえない。
執筆者:牧田 幸人
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
法律上、急迫の危難を避けるためやむをえず行う行為で、刑法、民法にそれぞれ規定が置かれている。
[西原春夫]
自己または他人(他人については、緊急救助の語も用いられる)の生命・身体・自由もしくは財産に対する現在の危難(緊急の危険状態)を避けるために、やむをえずになした行為(緊急避難行為)をいう。たとえそれが刑罰法規に該当しても「罰しない」(刑法37条1項)、つまり犯罪が成立しないから刑罰は科されないとされる。ただし、緊急避難行為から生じた害が、避けようとした害の程度を超えないことが必要。これを緊急避難の均衡性あるいは法益権衡の原則という。避難行為が必要以上になされた場合や、法益権衡の原則を破った場合を過剰避難といい、もはや緊急避難にはあたらないから犯罪となるが、情状によりその刑が軽減され、または免除される(刑法37条1項但書)。どのような場合に緊急避難として罰せられないかが問題となるが、その検討は、危難の面と、避難の面の二つの側面についてなされることが必要である。
(1)危難の面とは、自己または他人の生命・身体・自由もしくは財産に対する現在の危難があることである。名誉・貞操についても緊急避難(超法規的緊急避難という)を認めるべきであるという学説もある。現在の危難とは、法益(生命など法律の保障する利益)侵害の、差し迫った危険のある状態をさし、それが人間の行為によって引き起こされたものであろうと、自然現象または動物や物によって発生したものであろうと、原因が何であるかは問わない。
(2)避難の面とは、やむをえない避難行為であることをさす(ただし、法益権衡の原則を破るものであってはならないのは、いうまでもない)。やむをえずになした行為とは、それが自己または他人の法益を守るための唯一最良の方法である(他にとるべき方法がない)ことを意味する。刑法は正当防衛についても同じ用語を使っているが、緊急避難の場合にはより厳しく解釈されている。これを緊急避難の補充性という。
以上のような要件を満たした場合に、緊急避難が成立する。しかし、緊急避難として罰せられないということは刑法上の問題であって、後で述べるように民法上は賠償責任が依然として認められている。なお、緊急避難は、業務上特別の義務のある者、たとえば警察官・消防官・医師などには、これをなすことは許されていない(刑法37条2項)。
このような緊急避難は、正当防衛よりも遅れて発達した観念である。ローマ法、ドイツ寺院法(ただし「必要は法律をもたない」という原則を認めていた)、カロリナ刑事法典(カロリナ法典ともいう。1532年制定)などは、若干の犯罪の場合に緊急避難を不可罰とする規定を設けていたにすぎなかった。1810年のフランス刑法も、わずかに心理強制の場合に限ってこれを不可罰としており、同法を手本とした1880年(明治13)の日本の旧刑法も、これをやや拡大したにとどまった。現在のように広い範囲にわたって緊急避難が認められるようになったのは、1871年のドイツ刑法以来のことであり、日本では、同法を模範とした現行刑法以降のことである。
[西原春夫]
民法上は、とくに他人の物から生じた急迫の危難を避けるために、やむをえずその物を毀損(きそん)した場合には、不法行為による賠償責任を免れる(民法720条2項)。たとえば、他人の犬に襲われたので、やむをえずこれを傷つけた場合などがこれにあたる。一定の条件の下に違法性が阻却され、不法行為とならない。
刑法の場合と比べると、(1)危難が他人の物によって生じたものであることが必要とされる点と、(2)責任を免れるのは、危難を生じさせた物そのものを毀損した場合に限る点(前述の例でいえば、犬を避けるために垣根を壊した場合を含まない)で異なる。正当防衛と同じく、ほかに方法がなかったということ、守った利益と物の毀損による損害との間に大きな不均衡がないことが免責の要件である。
[淡路剛久]
国際法では緊急権ともよばれる。他国の不法な行為に基づかない事態によって急迫または現実の危害があり、他の手段をもってそれを避けることができない場合に、やむをえず行う防衛行為をいう。広義では、自衛権の観念に含まれるが、狭義の自衛権が他国の不法な侵害に対するものであるのに反し、緊急避難の場合は、他国の不法なものでない点で区別される。緊急避難が成立すると、防衛行為の違法性は阻却され、国際法上適法な行為となる。ただし、緊急避難によって生じた損害に対しては、当然に補償しなければならない。この権利を国際法上認めるかどうかについては争いがあるが、多数説はこれを認めている。
緊急避難の例としては、ナポレオン戦争中に発生した1807年のデンマーク艦隊引渡し事件と、第二次世界大戦中のオラン港事件があげられる。前者は、ナポレオンがイギリスに侵入するため、デンマーク艦隊を利用しようとしたのに対し、それを知ったイギリスは先手を打ち、デンマークに対し艦隊を戦争終了時までイギリスに預けることを要求したが、デンマークがこれを拒絶したため、イギリスは強力な艦隊を派遣してデンマーク艦隊を拿捕(だほ)した事件である。後者のオラン港事件は、1940年、第二次世界大戦でドイツに屈伏し、アルジェリアのオラン港に退避しているフランス艦隊に対し、イギリスは降伏あるいは武装解除を要求し、これを拒否したフランス艦隊を攻撃し壊滅せしめた事件である。
[池田文雄]
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