デジタル大辞泉
「織田有楽斎」の意味・読み・例文・類語
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織田有楽斎
没年:元和7.12.13(1622.1.24)
生年:天文16(1547)
安土桃山・江戸前期の大名,茶人。織田信長の弟。茶道有楽流の祖。通称源五,名は長益。本能寺の変後,豊臣秀吉に仕えて御伽衆となり摂津の内で2000石を領し,天正18(1590)年剃髪して有楽と号した。文禄3(1594)年,秀吉の前田利家邸への御成に際しては室礼などを指導し,その名を高めた。関ケ原の戦には徳川方に属して,大和で3万石を与えられた。大坂冬の陣には淀君の叔父に当たることから大坂城に入ったが,なお家康との間の斡旋を続けた。戦後は京都二条に隠棲し,夏の陣には加わらなかった。その後4男長政に1万石,5男尚長に同じく1万石を分与し,残り1万石を自らの養老料とした。元和4(1618)年,京都建仁寺に正伝院を再興して移住。このとき院内に作られた二畳半台目の茶室如庵(国宝)は犬山市に現存。茶の湯は利休に学んだが,むしろ独自の茶風を展開した。孫の長好や信長の孫織田貞置,さらに堺妙国寺の住僧で有楽の茶頭役を勤めた,祇園玄旦とも呼ばれた高橋玄旦らに引き継がれ,のちに有楽流が開かれた。<参考文献>坂口筑母『茶人織田有楽の生涯』
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織田有楽斎 (おだうらくさい)
生没年:1547-1621(天文16-元和7)
安土桃山・江戸初期の武士,茶人。信長の弟。幼名源五郎,のち長益。剃髪して如庵有楽斎と号する。本能寺の変後豊臣秀吉に仕えたが,関ヶ原の戦では東軍につき,のち徳川方と結びながら秀頼の補佐にあたる。大坂夏の陣の前に大坂城を退去,その後京都建仁寺に隠棲して茶の湯に親しむ。千利休門下として秀吉の茶会にもしばしば出席,利休なきあと茶の宗匠と称されるなど当代一流の茶人で,有楽流を開いた。
執筆者:久留島 典子
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織田有楽斎
おだうらくさい
[生]天文16(1547).尾張
[没]元和7(1621).12.13. 京都,東山
安土桃山~江戸時代初期の武将。織田信長の弟。信長とは性格が違い,武将であったが晩年は茶人として有名。本名は長益,有楽斎は号で,単に有楽ともいう。信長が本能寺の変で倒れてからは秀吉に仕え,関ヶ原の戦いでは東軍についた。また大坂冬の陣では豊臣方の盟主に推されたが,夏の陣には参加せず,徳川家康のスパイであったともいわれる。その後は京都の祇園に隠棲して茶道に専念,「有楽流」という名を後世に伝えた。東京の有楽町は有楽斎の屋敷がそこにあったことから生れた地名。 (→織田氏 )
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織田有楽斎 おだ-うらくさい
1547-1622* 織豊-江戸時代前期の武将,大名,茶人。
天文(てんぶん)16年生まれ。織田信秀の11男。織田信長の弟。本能寺の変後,豊臣秀吉につかえ御伽衆(おとぎしゅう)となる。関ケ原の戦いでは徳川家康方につき,摂津味舌(ました)藩(大阪府)藩主となり,摂津,大和(奈良県)に3万石を知行。茶を千利休にまなび有楽流をひらいた。東京有楽町はその屋敷跡で今に名をのこす。元和(げんな)7年12月13日死去。75歳。名は長益。通称は源五郎。
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織田有楽斎
おだうらくさい
1547〜1621
安土桃山〜江戸時代初期の武将・茶人
信長の弟。本名長益 (ながます) 。大坂冬の陣で豊臣方の盟主となる。その後隠居。江戸城近辺に数寄屋を造り,茶道に励んだ。有楽町は彼の屋敷跡地である。また京都建仁寺に茶室『如庵』を造った。
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世界大百科事典(旧版)内の織田有楽斎の言及
【有楽流】より
…織田信長の弟有楽([織田有楽斎])を流祖とする茶道の流派の一つ。利休七哲として,また台子(だいす)七人衆に次ぐ数寄大名として利休流の茶を伝授された有楽が,次男の雲生寺道八(織田頼長。…
【如庵】より
…建仁寺塔頭正伝院に設けられた[織田有楽斎](うらくさい)の茶室。1618年(元和4)秋ごろには,庫裡の北方に書院と数寄屋とから成る隠居所の建物ができあがっていた。…
※「織田有楽斎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」