翻訳|free trade
物品の輸入時にかける関税を低くしたり、輸入規制を撤廃したりして各国間の貿易を活発にすることが、経済成長につながるという考え方。逆に、高い関税や独自ルールによる非関税障壁を設けて国内産業を守るのは保護主義と呼ばれる。自由貿易により不利益を受けているという不満の高まりを背景に、トランプ米大統領が登場。保護主義的な政策を進め、中国や欧州などと対立し、世界経済の波乱要因となっている。(ビアリッツ共同)
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自由貿易とは,国際間の財貨・サービスの取引に際して,各国が原則的に貿易政策や為替政策による政府介入を行わず,市場の価格調整機能に任せることをいう。
最初の体系的自由貿易論はA.スミスによって重商主義批判として展開され,D.リカードの比較生産費説(比較優位)によって根拠づけられた。こうした理論的背景のもと,自由貿易運動はイギリスにおいて1820年の〈ロンドン商人の請願〉をはじめとして20年代に高まった。39年の〈反穀物法同盟〉結成以後再び運動は高まりをみせ,R.コブデン,J.ブライトらの指導による運動の影響もあって,46年には穀物法廃止に至る。その後,自由貿易は60年の英仏通商条約等の一連の条約として結実するが,80年前後には早くも帝国主義時代の始まりの前にふきとんでしまった。
1930年代の大不況の折に,世界の多くの国が自国の産業を輸入の増大から守るため,争って貿易障壁を引き上げたり平価の切下げを行ったりしたため,かえって世界貿易は縮小し,不況の悪化を招いた。このような苦い経験から,第2次大戦後の国際貿易・通貨のあり方をとり決めたGATT(ガツト)-IMF体制は,自由・無差別・互恵を基本的な理念として世界貿易の拡大を目指した。その結果,50年代末より先進諸国の輸入数量制限の撤廃や関税率の引下げといった貿易の自由化が進み,60年代の世界経済は先進国を中心に歴史上かつてないほどの繁栄をみた。
自由貿易の理論的な支柱は,〈自由貿易は世界全体にとって資源の最適配分をもたらし,一国にとっても最も高い経済的厚生が実現される〉という国際貿易理論の基本的な命題である。国際貿易を行うことによって各国の消費者は,国内よりも安価な商品が外国にある場合には,これを手に入れることができる。一方,生産者は,外国のほうが安価に生産できる商品の生産を縮小し,なんらかの生産上の優位をもち,相対的に安価に生産できる商品の生産を拡大する。このような比較優位をもつ商品へと特化し,自由貿易を行うと資源の最適配分と消費者の厚生の最大化が同時に達成される。いいかえれば,自由な価格メカニズムにもとづく国際分業が最も望ましい状態をつくりだす。
国際貿易理論が自由貿易による消費者や生産者の利益を明確に示しているにもかかわらず,その論理的帰結の現実的妥当性について疑問をなげかけ,政府による介入を積極的に支持する主張も少なくない。いわゆる保護貿易論がこれである。その一つは,自由貿易による最適な資源配分が静態的な状態を仮定のもとでの利益しか示さないとする批判である。たとえば,現在は農産物の生産にしか比較優位をもたない国であっても,特定の製造業部門を保護し生産規模を拡大するなら,その部門においてもしだいにコストを引き下げて安価に生産できるようになるかもしれない(幼稚産業保護論)。また,この製造業部門の生産に従事する人々が技術的訓練や経営管理能力をつけて,他の産業部門にも好影響を与えるような波及効果が期待できるかもしれない(外部経済効果)。このほか,比較優位をもつからといって少数の商品の生産に特化していたのでは,国際市場での価格変動の影響を大きく受けて外貨取得が不安定になるので,生産の多角化を図らなければならないといった主張もある。大部分の発展途上国は,国際収支の赤字に対処する必要もあって,政府が貿易取引に直接間接の介入を行っている。
第2次大戦後の先進諸国ではGATT体制のもとで貿易障壁がしだいにとり除かれ,1970年代の初めまでは世界の貿易取引量の拡大は生産の増加を上回った。ところが73年秋の第1次石油危機とその後の世界的な同時不況のもとで,自由貿易の後退,新しい保護主義の台頭がみられる。もともと国際間の商品取引の流れはつねに変化している。これは,各国の生産上の優位性を決める技術水準,資本設備や労働の熟練度の変化が,ある国では速く,ある国では遅いためである。たとえば,20世紀の初めには優位を誇ったイギリスの繊維産業はしだいに日本によって追い上げられ,ついにはイギリスは繊維製品を輸入するようになった。しかし今また発展途上国の一部の国が,豊富な労働力を武器に日本の繊維産業をおびやかしている。このような追上げを受けた国は,優位性を失った産業を縮小し,その産業で働いていた人々を他の産業に移さなければならない。いわゆる産業調整が必要なのはこのためである。従来の国際貿易理論は,このような調整過程が円滑に行われると考えてきた。ところが現実に職を失う人々は,これまでの熟練が役に立たなくなったり,また他地域への移動に伴う費用を支払わなければならなかったりする。そこで調整をひきおこす輸入そのものを締め出してしまおうとする。国内景気の停滞,失業率の上昇が新しい保護主義を生み,自由貿易の危機をもたらすのはこのためである。70年代の中ごろから日米,日欧の間や,新興工業国とEC諸国やアメリカの間でしばしば行われている,繊維,テレビ,鉄鋼,自動車等での輸出自主規制や市場秩序維持協定では,いずれも輸入国の要請によって輸出国の政府が輸出数量や価格の決定に介入する。したがって,これは明らかに自由貿易の後退である。
先進諸国に新しい保護主義の傾向がみられるとはいえ,これらの国々が全面的に自由貿易の理念を放棄したわけではない。第2次大戦後の世界経済の繁栄がGATT-IMF体制下での自由貿易主義に負うところが大きいことは明らかである。また貿易取引の拡大によって,現在の各国の相互依存性はかつてないほど密接になっている。もともと歴史的にみても,現実には自由貿易に対する保護主義的な制約はつねに行われてきたのであり,ただその強弱の程度がそれぞれの国の立場を反映して変化してきた。第2次大戦後に自由貿易の旗手となったのはアメリカであり,文字どおり自由貿易体制の盟主であった。ところが1960年代の後半になると,ヨーロッパ各国や日本の経済力が強まり,アメリカの経済的地位は相対的に低下した。より具体的には,71年にアメリカの貿易収支は赤字を示し,輸入急増に直面した繊維や鉄鋼業界からは輸入制限を求める動きが強くなった。したがって今後は,自由貿易体制維持の役割をアメリカだけに期待することはできない。アメリカとEC諸国に日本を加えた先進諸国が,自由貿易体制の維持強化にむけて協調的な政策選択を行っていかなければならない。この際,石油危機後の経済運営が先進諸国のなかでも比較的うまくいき,今後とも経済の安定的成長が世界経済の繁栄に大きく依存する日本が,積極的な対応をみせるかどうかがきわめて重要である。
1960年代の自由貿易の進展による世界貿易の拡大によって最も大きな利益を得たのは日本であった。65年から73年までの輸出増加率は年率13%をこえ,経済成長の加速に大きく貢献した。また長い間経済成長を制約してきた外貨不足も68年ころには解消し,日本は貿易自由化を進めることによって,いっそう各国との相互依存性を深めた。石油をはじめ主要鉱物資源の大部分を輸入に頼らなければならない日本にとって,輸出市場の狭小化を招く保護主義の台頭はなんとしてもこれを阻止し,自由貿易体制の保持に努めなければならない。このためには,農業をはじめ若干の分野で残っている保護主義的な政策の解決が肝要である。また経済成長率の低下と失業率の上昇が先進諸国での保護主義台頭の原因となっているところから,日本は,世界経済の再活性化にむけて技術開発やさまざまな分野での産業協力,さらに潜在的な需要の大きい発展途上国への経済協力が必要である。
執筆者:佐々波 楊子
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貿易取引に対する数量制限、関税、輸出補助金などの国家の干渉を廃止し、自由に輸出入を行うこと。これを実現しようとする思想や政策のことを自由貿易主義、自由貿易政策という。
[田中喜助]
自由貿易主義は重商主義的貿易統制政策に対する批判として発生したものであり、その理論はイギリスの古典学派の経済学者によって展開された。古典学派の祖であるA・スミスは、国家に束縛されない個人の自由な経済活動、つまり自由放任主義を主張し、自由主義的な競争こそが生産を増加し、人間の福祉を増進すると考えた。この自由な競争を国際貿易の面に適用し説明したのが彼の自由貿易論であり、国際分業の利益を初めて解明したものであった。これは比較生産費説としてD・リカードにより明確化され、理論的には国際分業の基本原理となり、政策的には自由貿易主義の理論的根拠となった。スミスの『国富論』が出版された当時(1776)から始まった産業革命の進展により、イギリスの工業は急速に発達してきた。さらにいっそうの発展のためには、工業品の輸出を増加し、原料や穀物をより安く輸入する必要があった。しかし、スミスやリカードの時代のイギリスには、重商主義の遺物ともいうべき穀物法、航海法および多数の輸入関税があり、これらを廃止して自由貿易を実現することは容易なことではなかった。
イギリスの自由貿易は、1820年の「ロンドン商人請願書」、39年の穀物法廃止同盟の結成による自由貿易運動を経過し、60年のW・E・グラッドストーンの関税改革によって完成したもので、その間、約40年の歳月を要している。すなわち、イギリスはナポレオン戦争(1793~1815)後に、歳入増加の必要から巨額な公債発行とともに関税の新設と引上げを実施したが、新興の商工業者はこの関税の負担に耐えられず、関税軽減の請願書を議会に提出した。これが自由貿易運動の原動力となり、さらにR・コブデンやJ・ブライトを指導者とする穀物法廃止同盟による運動が、マンチェスター商工会議所を中心として展開された。これらの努力によりイギリスの政策は自由貿易主義に向かい、その結果、第1回の関税改正(1823~25)、第2回の関税改正(1842~46)が実現するとともに、重商主義政策の二大支柱といわれた穀物法が46年に、航海法も49年に撤廃されるに至った。その後、自由党内閣の大蔵大臣であったグラッドストーンによる53年と60年の大規模な関税改革により自由貿易体制を名実ともに確立し、その後の世界貿易自由化の推進力となった。
しかし、1929年末に発生した世界的大不況は、自由貿易体制に大きな打撃を与えた。すなわち、大不況に対処するためアメリカをはじめとして多くの国が関税引上げ、貿易制限を実施し、イギリスも32年には保護主義的な一般関税法を制定するとともにイギリス連邦特恵制度を発足させ、ついに自由貿易政策を放棄するに至った。
[田中喜助]
第二次世界大戦後は、1930年代の世界的大不況における関税障壁のエスカレーション、輸入割当てなどのあらゆる貿易制限の導入、それによる世界貿易の激減、市場確保のためのブロック経済化という世界各国の苦い経験の反省から、アメリカの強い指導力のもとに、ガット(GATT)が47年に成立した。自由貿易と最恵国待遇の原則に基づいて世界貿易を発展させることを目的とするガットは、関税引下げとともに貿易に対する数量制限などの非関税障壁の撤廃のため、47年から79年までの間に7回にわたる一般関税交渉を行うことによって保護貿易主義的な動きを食い止め、世界的規模での貿易の自由化を推進してきた。しかし、その後のアメリカ経済の優位性の低下、ヨーロッパ共同体(EC。EU=ヨーロッパ連合の前身)諸国の経済停滞、新興工業国(韓国、台湾、香港(ホンコン)など)による先進工業国への追い上げなどによる保護貿易主義の台頭、国連貿易開発会議(UNCTAD(アンクタッド))によるガット原則修正の要求などにより、ガットに基づく自由貿易体制の危機が叫ばれた。東京ラウンド後の、1986年から始まったウルグアイ・ラウンド(~93)では、関税の引き下げにとどまらず、数量制限をはじめとする非関税障壁の軽減、撤廃など多方面にわたる貿易問題が論じられ、同ラウンドでWTO協定が締結された。そして、そこで合意された成果を実施する正規の機関として、1995年、世界貿易機関=WTOが発足し、ガットはWTOに引き継がれることになった。
[田中喜助]
『北野大吉著『英国自由貿易運動史』(1943・日本評論社)』▽『藤井茂著『貿易政策』(1977・千倉書房)』▽『ヘンリー・ジョージ著、山嵜義三郎訳『保護貿易か自由貿易か』(1990・日本経済評論社)』▽『中村陽一編著『WTO(世界貿易機関)が貿易を変える――ウルグアイ・ラウンド後の日本と世界』(1994・東洋経済新報社)』▽『新堀聡著『ウルグアイ・ラウンド後の貿易体制と貿易政策』(1994・三嶺書房)』▽『小島清著『応用国際経済学――自由貿易体制』(1994・文真堂)』▽『ティム・ラング、コリン・ハインズ著、三輪昌男訳『自由貿易神話への挑戦』(1995・家の光協会)』▽『鷲見一夫著『世界貿易機関(WTO)を斬る――誰のための「自由貿易か」』(1996・明窓出版)』▽『秋山憲治著『貿易政策と国際通商関係』(1998・同文舘出版)』▽『ラッセル・D・ロバーツ著、佐々木潤訳『寓話で学ぶ経済学――自由貿易はなぜ必要か』(1999・日本経済新聞社)』▽『ダグラス・A・アーウィン著、小島清監修、麻田四郎訳『自由貿易理論史――潮流に抗して』(1999・文真堂)』▽『服部正治著『自由と保護――イギリス通商政策論史』増補改訂版(2002・ナカニシヤ出版)』▽『小寺彰・中川淳司編『基本経済条約集』(2002・有斐閣)』▽『小川雄平編『貿易論を学ぶ人のために』新版(2002・世界思想社)』▽『佐々木隆雄著『アメリカの通商政策』(岩波新書)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
貿易における国家の介入・保護統制を排除しようとする理論および政策。スミスら古典学派経済学者の主張を受け,1820年代以降マンチェスターの商人らが実現を求めて運動。46年の穀物法の廃止を実現し,60年の英仏通商条約で結実した。その反面,この政策が先進国イギリスの勢力拡張の手段として用いられたことは否めず,この側面をさして自由貿易帝国主義という。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…前者を〈財政関税〉,後者を〈保護関税〉という。中世以前の関税や第1次大戦前のイギリス,オランダ等の自由貿易主義国の関税は,もっぱら財政収入を目的としていたし,19世紀前半のアメリカでは,財政収入のうちの90%近くを関税収入が占めていた。重商主義以降は,主として国内産業保護,貿易収支の黒字が関税賦課の目的となった。…
…ところが,73年の石油危機に端を発した世界的な不況のもとで各国の失業率が上昇し,造船,鉄鋼といった戦略産業で各国間の貿易摩擦が激化した。このような世界貿易が直面する厳しい情勢に対処するため,77年の第3回先進国首脳会議(サミット)において,フランスのジスカール・デスタン大統領は〈管理された自由貿易〉を提唱した。その基本的な考え方は,自由貿易の結果が消費者や生産者に望ましくない変動を強いたり雇用の危機をもたらす場合には,特定部門の貿易を管理し,先進国間で貿易を組織する必要があるというものである。…
…この独立革命は,共和制,憲法,奴隷貿易廃止,原住民貢納制廃止などの社会変革をともない,ラテン・アメリカ社会の近代化を促進した。しかしこの近代化は,中心部における産業資本主義段階への移行に相応するものであったが,けっしてラテン・アメリカの対外的従属の終結を意味せず,むしろ新しい自由貿易政策下での商業的従属の深化を意味した。そしてのちにラテン・アメリカの〈周縁的住民marginal population〉と呼ばれるようになる〈原住民大衆indígena〉は,〈自由,平等,博愛〉を旗印とする形式的かつ観念的なブルジョア民主主義国家のもとで,植民地時代の庇護と分離政策とは違ってスペイン系住民と同一次元に置かれることになり,対内的には共同体所有地の強制的分解によって,対外的には世界市場の価格変動の直撃によって,二重の抑圧と搾取にさらされることになった。…
…前者は一国ないし世界の資源の効率的利用という観点から貿易政策の評価と位置づけを行うものであり,後者はそうした観点をいちおう離れて,個々の政策手段の導入ないし廃止が国際経済の重要な変数にどのようなインパクトを与えるかを分析するものである。前者については,いわゆる〈貿易利益〉をめぐる諸命題や自由貿易対保護貿易の論争が重要である。後者については,関税や輸入割当ての効果分析,とりわけそれらが交易条件,さらには輸出入量などに及ぼす影響の研究が中心的な課題である。…
※「自由貿易」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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