織機の発明家、事業家。慶応(けいおう)3年2月14日、遠江国(とおとうみのくに)(静岡県)敷知(ふち)郡吉津村(現、湖西(こさい)市)に生まれる。家は代々農業で、父は大工を兼業していた。村の妙源寺で寺子屋教育を受けたのち、小学校を卒業し、父の大工仕事を手伝った。
[山崎俊雄]
村の勉強会で読んだS・スマイルズ著・中村正直(まさなお)訳の『西国立志編』(1870~1871刊)に感激し、1885年(明治18)に公布された専売特許条例に刺激されて発明家を志した。故郷は遠州木綿の産地であったが、織機は幼稚なバッタン手織機で、1日に白木綿を2~3反しか織ることができなかった。そこで織機の改良を志し、発明に夢中になった。1890年4月、東京・上野の第3回内国勧業博覧会を見学した際、出品された外国製機械からヒントを得て同年11月、木製人力織機の発明に成功し、翌1891年5月最初の特許(第1195号)を得た。これは輸入バッタン織機を改良したもので、投杼(とうひ)と筬打(おさうち)を結合させて作業を容易にし、織手の熟練を不要にし、能率、品質ともに向上させた。しかし不況で織機製造の出資者が得られなかったため、特許を利用して自立しようと、1891年東京・浅草に機屋(はたや)を開業した。発明家の彼はこの事業に失敗し、妻とも別れ、偶然の思い付きから発明した糸繰返機(かせくりき)を市販するため、1895年、名古屋に豊田商店を創立した。
[山崎俊雄]
1896年木鉄混製動力織機を発明、翌1897年特許を申請し、1898年に特許を得た。これは日本最初の小幅綿織物用の動力織機である。1897年には再婚し、石川藤八(とうはち)(1843―1914)と乙川綿布合資会社(おっかわめんぷごうしがいしゃ)を設立、織機の製造と織布業を開業した。動力織機の能率は高く、女子工員1人当りの生産性は4倍以上、製織コストは半分以下となった。この織布は三井物産に認められ、1898年共同で合名会社井桁商会(いげたしょうかい)を設立したが、発明は企業経営と両立せず、1902年(明治35)独立して豊田商会を設立、1906年、さらに豊田式織機株式会社の創立とともに同社の取締役技師長となった。その間、発明に専念し、経糸(たていと)送出装置(1901)、自動杼換(ひがえ)装置(1903)、管換(くだがえ)式自動織機(1904)、環状織機(1906)などを発明した。しかし、自動織機への研究投資に反対されて同社を辞任、外遊の途についた。1911年帰国すると、名古屋に豊田自動織布工場を創設、1914年(大正3)ごろには自動織機に関する重要な特許を次々と出願した。
彼に残された課題は、この織機を徹底的に試験し、改良することであった。第一次世界大戦による好況期に彼の工場も発展を続け、紡績から織布までを一貫する試験が開始された。さらに1918年に豊田紡織株式会社を創立、上海(シャンハイ)には豊田紡織廠(しょう)を創立した。戦後、恐慌に襲われ、深夜業廃止を目前にした産業合理化が必至となると、自動織機の研究を組織的に進めるため、1923年愛知県碧海(へきかい)郡刈谷(かりや)町(現、刈谷市)に大規模な試験工場を設立した。とくに1924年、長男の豊田喜一郎が改良し出願(1925年登録)した特許第65156号の杼換式自動織機は、高速運転中にすこしも速度を落とさず、杼を傷つけずに円滑に交換する画期的なものであった。自動織機の完成は、1903年に着想してから22年目のことであった。
[山崎俊雄]
1929年(昭和4)イギリスのプラット社Platt Brothers & Co.から自動織機のヨーロッパでの特許権譲渡の交渉を受け、豊田父子の織機は国際的に認められた。昭和5年10月30日死去。佐吉は自動車の研究を進める提案を遺言に残した。その特許権使用料は、かねてから自動織機の発明を助けていた喜一郎によって、国産自動車の研究・開発に向けられ、トヨタ自動車創業の基礎を開いた。遺品や発明した機械は、豊田自動織機の刈谷本社工場に保存、展示されている。
[山崎俊雄]
『田中忠治編『豊田佐吉』(1955・トヨタ自動車)』▽『豊田自動織機製作所編・刊『四十年史』(1967)』▽『豊田自動織機編・刊『挑戦――写真で見る豊田自動織機の80年』(2007)』
豊田式自動織機の発明家。静岡県の貧農の出身で,名古屋に出て織物工場の職工となり,ついで小型の織機の製作にうちこみ,1897年豊田式動力織機を完成し,99年には自動織機の特許を受けた(1924完成)。これは三井物産の援助もあって,中小の織物工業者に歓迎された。さらに日露戦争の前後には小幅の半木製の織機から広幅の鉄製織機に至るまで各種の織機を次々に発明し,発表した。もっとも彼はあくまで発明家であって,当時は実業家ないし経営者的性格をもたなかったから,三井物産と中京・関西の資本家が出資して,彼とともに織機の大量生産と販売を試みた名古屋織布会社(1905創立)や豊田式織機株式会社(1906創立)は,いずれも成功しなかった。その後は独力で織機の製造を進め,販売は三井物産に一任したが,彼の簡便かつ廉価な織機は大正時代になると全国的に普及し,中小織物工場の存続と発展に目ざましい貢献をした。40年間にわたる織機の研究と改良の結果,彼の発明特許は日本で100以上,外国でも50以上に達し,世界各国からも注目を集めた。晩年は,養嗣子の豊田利三郎に自動織機の事業(豊田自動織機製作所)を,そして長男の喜一郎には自動車製造(トヨタ自動車工業)の夢を託した。
執筆者:由井 常彦
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明治・大正期の実業家,発明家 豊田紡織創業者。
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(西村はつ)
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1867.2.14~1930.10.30
明治~昭和前期の発明家・実業家。遠江国生れ。小学校卒業後,家業の大工を継ぐ。1885年(明治18)専売特許条例公布に刺激され発明を志し,97年日本初の動力織機を完成。これに注目した三井物産は99年井桁(いげた)商会を設立し製造・販売を盛んに行ったが,佐吉は数年で同商会を離れた。1906年三井物産は豊田式織機会社を設立し,佐吉の発明の工業化を行ったものの,佐吉は10年に辞任。佐吉は晩年まで力織機の発明に力を注ぎ,多数の特許を取得したが,その実用化を主目的に複数の紡織工場を所有,21年(大正10)に中国の上海に豊田紡織廠も創立した。26年(昭和元)豊田自動織機製作所を創立。
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…自動織機はE.カートライトの力織機を出発点とするが,1894年ころアメリカで管替式の自動織機が開発され,1904年には日本に輸入されている。力織機の改良に努力していた豊田佐吉は,26年杼替式自動織機を完成した。彼の発明は日本綿業の発展に貢献したばかりでなく,31年には,当時一流のイギリスのプラット社がこの特許権を譲り受け,世界的に注目された。…
…本社愛知県刈谷市。1926年11月,豊田佐吉が同年3月に発明した自動織機の製造を目的として,愛知県刈谷に設立された。同社の自動織機の性能は国際的にも広く認められ,昭和の初期からアジア地域を中心に広く輸出された。…
…その後,89年に京都綿糸織物会社,大阪織布会社と各地に大量の力織機を装備した綿布工場が設立された。また97年には豊田佐吉が木製の力織機を完成,その後これを鉄製に改良,日本の綿織物業の発展に大きく寄与した。しかし粗布などの綿布は軍需以外に内需を見いだせず,中国・朝鮮への輸出に向けられ,その動きは1906年結成の三栄綿布組合(朝鮮向け),日本綿布輸出組合(〈満州〉向け)によって強められ,その結果,綿布輸出は09年に輸入を超え,11年には中国市場においてアメリカを抜いてイギリスに次ぐ地位を占めた。…
※「豊田佐吉」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
小麦粉を練って作った生地を、幅3センチ程度に平たくのばし、切らずに長いままゆでた麺。形はきしめんに似る。中国陝西せんせい省の料理。多く、唐辛子などの香辛料が入ったたれと、熱した香味油をからめて食べる。...
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