翻訳|gamble
金銭や物品を賭けて勝負をあらそうことで,〈ばくち〉〈かけごと〉ともいう。
かけごとの習俗は古くからみられ,《古事記》に秋山之下氷壮夫(あきやまのしたびおとこ)と春山之霞壮夫(はるやまのかすみおとこ)が伊豆志袁登売(いずしおとめ)をめぐり妻争いをし,衣服をぬぎ山河の産物を備えて,かけごとを行ったとある。遊戯としての賭博の初見は,685年(天武14)9月に天武天皇が大安殿に御して王卿らを呼び行わせた博戯で,御衣,袴,獣皮などを下賜した。このときの博戯は,中国から渡来したすごろく,樗蒲(かりうち)の類であったと思われる。すごろくは,筒から2個のさいころを振り出してその目の数により,局の上の黒白15個の馬を進める遊戯で,その遊具一そろいが正倉院に収蔵されている。樗蒲は,4個の楕円,扁平の木製物を駆って行う勝負である。7世紀末には賭博が流行し,良風をみだすことが多かったので,689年(持統3)12月にすごろく禁断令が出され,698年(文武2)7月には博戯遊手の徒を禁じ胴元も博戯を行う者と同罪にすると令している。唐律令の賭博禁止規定を日本律令も継承し,雑律博戯賭物条では博戯で財物を賭けると杖一百に処すとされた。特にすごろく,樗蒲に関しては財物を賭けなくても罪に問うとしている。また捕亡令博戯条では,賭博が摘発されると賭物を没収し,糾告者がいる場合には,その者に没収した賭物を賞賜すると規定している。ただし碁射は物を賭けても罪に問われず,宮中における賭射(のりゆみ)は正月中旬に行われる盛大な恒例儀式であった。唐律では飲食物を賭けた場合は犯罪にならないとしているが,日本律は逸文しか伝わらないので,唐律と同一の規定があったか否か不明である。賭博は奈良・平安時代を通じて流行し,754年(天平勝宝6)10月勅では,官人百姓が法をおそれずすごろくに淫迷し,子は父に従わず家業を失っていく事態を指摘し,六位以下は決杖一百,四,五位官人は封戸,職位田を没収すると令している。この勅は延喜弾正台式に継承され,平安時代に入り布告された新制においても,賭博の禁止がたびたび下命されている。
執筆者:森田 悌
中世にも,賭博は公家,武家,寺社のきびしい禁制の対象であった。1225年(嘉禄1)の公家新制は喧嘩,闘殺の原因とし,39年(延応1)の鎌倉幕府法も博奕(ばくえき)/(ばくち)を〈盗犯の基〉と見ており,63年(弘長3)の新制ではついに〈諸悪の源〉とされ,幕府もこれを〈悪党の根本〉としている。寺社も同様で,春日社では神人(じにん)の博奕をしばしば禁じ,1271年(文永8),高野山領でも〈博奕は盗犯の濫觴(らんしよう)〉とされた。ただ,四一半,すごろく,目勝(めまし),字取などは禁じられたが,囲碁,将棋は認められており,鎌倉時代には刑罰も一定していない。1226年(嘉禄2)すごろくを打ったものが六波羅の武士に鼻をそがれ,指を切られ,1303年(嘉元1)の追加法が凡下(ぼんげ)の場合,指を切るとしたように,指をつめることが多かったとみられるが,公家新制では本人の召取り,住宅破却に加え,博奕を容認した隣家も同罪とする。また幕府法の場合,その身の禁遏(きんあつ),所領・所職の没収を基本とするが,侍と凡下で区別し,侍にはすごろくを許すなど刑が軽く,凡下はさきの指切りのほか,遠流(おんる)に処せられた。
しかしこうした禁制にもかかわらず,1168年(仁安3)後白河上皇の院中では〈博奕のほか他事なし〉といわれ,1229年(寛喜1),将軍藤原頼経が目勝(目増)をしたのをはじめ,公家では侍,雑色(ぞうしき),牛飼い,武家では凡下から無足の浪人,さらに神官,神人,僧侶にいたるまで,博奕を打たぬものはないといってもよいほど,博奕は万人の間に流行した。実際,鎌倉幕府の〈懸物押書(かけものあつしよ)〉の制度が所領を賭物とすることを前提としていたように,賭博を容認する空気も一方には広く存在し,博奕はその〈道〉もある〈芸能〉とみなされており,1290年(正応3)博奕に負けたとき,他人の持物を盗み,衣食の足しにするのは〈都鄙一同の例〉(〈鷹尾家文書〉)ともいわれているのである。鎌倉末・南北朝期,博奕と不可分の関係にある悪党の活動を支持し,ときに〈英雄視〉する風潮のあったのも,こうした社会の空気を背景にしている。
しかし室町時代から戦国時代にかけて,そうした風潮が社会の表面から退くとともに,賭博に対する禁制も一段ときびしさを増してくる。《建武式目》をはじめ室町幕府法も博奕を制禁しているが,特に戦国大名の分国法では,《結城家法度》が主人に届けることなく討つべしとし,《六角氏式目》が死罪,流罪と定めたように,死罪が行われ,その罪は博奕の宿をした宿主にまで及ぶとされた。そして《板倉氏新式目》はついに博奕を本質的に〈盗み〉そのものと断じており,1520年(永正17)の近江今堀の掟のように村法にも博奕,博奕宿の禁制が見いだされるようになる。その反面,賭博を遊戯として楽しむ人々は〈狂言歌謡〉に正月のかるた,将棋,すごろく,丁半が〈よい物〉といわれた通り,子ども,女性をはじめ,むしろさらにその範囲を広げた。また,鎌倉時代から博奕はしばしば〈野山中〉で打たれ,道や辻,河原や市庭(いちば)がその場となったが,祭りの日の寺社の境内など,特定の場ではこの時期も賭博は公然と行われたものと考えられる。権力の強圧にもかかわらず,賭博はこのように絶えることなく万人によって行われつづけたのである。
→博打(ばくち)
執筆者:網野 善彦
近世の賭博には賽とかるたが多く使用されたが,かるたは1597年(慶長2)の長宗我部元親の掟書で〈博奕,カルタ,諸勝負を禁ず〉とあり,1655年(明暦1)の江戸幕府の禁令では〈かるた博奕諸勝負堅御法度〉(《御触書寛保集成》博奕之部)とある。
近世初期,新開地の江戸建設,商業の活発化,都市への人口集中などの要因が重なって経済活動が盛んになるにつれ頼母子(たのもし)もしばしば行われるようになった。本来,頼母子は,講員が最終会まで掛金をして成立するものであるが,講員の申合せで終会まで参加しなくてよい方法が考案された。この方法によると,毎回の講日に落札した者はその後の掛金を払わなくてもよく,くじに当たって落札できると,当日の掛金総額を一時に手にすることができた。この方法は落札すると講に出席しなくてもよいので取退無尽(とりのきむじん)と呼ばれた。また頼母子講と名付けてただ一度だけ集まり,くじに当たって落札した者が全員の掛金を得て解散するということも行われた。
万治年間(1658-61)には河内国の俳諧師日暮重興が,連歌の付句の形式を踏襲した〈六句付〉を考案した。六句とは各句ごとに四季と恋と名所の合計六つをそれぞれ詠みこんだもので,6句を1組とした作句である。六句付は下の句の出題に対し上の句(前の句)を創作して解答する方法で,連歌と同様に前句付(まえくづけ)と呼ばれた。寛文年間(1661-73)末期には前句の創作の良否によって作者の成績の順位を明確にし,杯や扇子などを賞品として与えるようになった。1670年の大坂法度は,俳諧について〈近頃,前句附と称して其品により褒美を与え,人を集めて博奕同様のことをしていると聞く。不届なので今後はこの様な類の賭は強く禁止する〉(《大阪市史》第3巻)と,はやくも取締りの対象としている。延宝年間(1673-81)になると,京都の俳諧師たちは,六句付をより簡便にした〈五句付〉〈四句付〉を行い,後には〈三句付〉や〈一句付〉になった。93年(元禄6)の《河内屋可正旧記》には,郡中のすべてに前句付が流行し,これまで俳諧に無縁だった女子や童,山賤の類まで句付をもてあそぶようになったと記されている。これは点料という名目で寄句に小額の金を出し,入賞すれば高価な器物や多額の金銭が得られるという動機からであろう。
このように前句付は大衆化されていったが,だれでもが俳諧の素養があるわけでなく,当時の庶民の教養や識字程度からみて,おのずから限界があった。そこでより多くの人々を引きつけるために,より簡便な,解答しやすい方法があみ出された。点者が5文字の句を出題して,7字と5字の合計12字の作句をする〈五文字付〉が考案された。たとえば点者が〈戸を明けて〉と出題し,これに〈ここではないぞ門違い〉と付句する。平易な,日常の会話に似た解答がなされた。上の句が最初から付いているので,〈烏帽子付(えぼしづけ)〉〈笠付(かさづけ)〉〈冠付(かむりづけ)〉などと呼ばれた。笠付などは雑俳と総称されるが,3句1組の〈三笠付〉,連鎖風に続ける〈段々付〉など多様な型があらわれた。さらに簡単な方法として,最初の句の5文字を3組出題し,7字を解答としてつけ加える型が出現した。たとえば〈赤いものは,黒いものは,四角なものは〉と3組設問し,解答者は〈四角なものは豆腐の耳,赤いものは和蘭陀人の目〉などと答えるものであった。さらに単純化して享保年間(1716-36)に〈字もじり〉または〈もじり〉と呼ばれる賭博になった。これは同音の文字(紙と髪,橋と箸)を組み合わせるものであった。
前句付や冠付のもう一方の発展は,7字の語句を解答するのも難しい層を参加させるために,出題者が上の句を3題出題し,同時に解答用の下の句21句を示し,上の句とどの下の句を結べばよいかを当てさせる方法に変化した。これは料金10文で,3組の結んだ句が全部正解なら1両という高い倍率の賭博であった。さらに簡便な方法として,句はすべて一字の文字に単純化され,21句の全部はただ文字か数字だけで示されるように記号化された。賭け手は任意に三つの文字か数字に賭け,胴元はあらかじめ当りとして定めておいた三つの文字または数字と合っているか違っているかによって,当りとはずれが決まるしくみになった。こうなるとだれでもが出題者(胴元)になることができると同時に,賭ける者の数も飛躍的に増大した。これも〈三笠付〉と呼んだ。三笠付は一度に大勢の者が賭けることができ,都市の人口集中にともないしだいに規模が大きくなった。用紙も当初の手書きから木版で刷られるようになり不特定多数に売りさばくようになった。数字または文字に印をつけるだけの簡便な賭博は,当たれば賭金の数百倍もの還元が魅力ともなって爆発的に広まった。江戸時代の各藩の博奕取締りに必ず三笠付が含まれているので,全国に広まったことは確実である。
人口の集中した都市型賭博の典型的なものに富くじ(富突(とみつき))がある。富くじは主催者が大量の札を販売して金を得,その中より当り札(くじ)をつくり,購買者は当り札で高い倍率の金を受け取るしくみとなっている。富くじは,おそらく頼母子と同様,寺社の修復や経費を捻出する必要からはじめられたのであろう。富くじの公認は1730年(享保15)で京都御室の仁和寺門跡が館修理の資金調達のために願い出て,許可されたときとされている。初期の富くじは賞金は1等が100両であり,庶民にとって莫大な金額であった。それゆえ,異常な人気を呼んだ。富くじは成功すると主催者にかなりな利益をもたらしたので,興行を企てる者が続出した。しかし,摂津で百姓救済の目的の富くじが不許可になった(1776・安永5)ように寺社との縁故がなければ公許されなかった。無許可の富くじを〈隠富(かくしとみ)〉と呼んで数多く催され,処罰された例も多い。また,公許の富くじを利用した賭博で〈影富(かげとみ)〉というのが考案された。最初は富札を買うことのできない極貧層の間ではじまったといわれ,公許の富突の当選番号を当てる賭博である。後に一般化してまんえんしたが,当り番号の正確な数ではなく,〈百番の台,二百番の台のおよその番数を定めて賭銭をしておく〉(《御仕置例類集,天保類集》)というもので,何百台の数に賭けるので〈第付〉,または〈題付〉と呼ばれた。
農村では〈宝引(ほうびき)〉が婦人の間でも行われ,講の集りの娯楽となった。集まった人数分の,くじ紐の1本に銭を結びつけ,これを引き当てた者に賭け銭を渡す方法である。闘鶏も博奕の方法として利用された。近世後期には博奕を職業とする博徒が各地に出現し,博奕は多く博奕場を設け,賽を使って行われた。
執筆者:森 安彦
明治時代に入っても,賭博の風習は依然として続けられたが,これに対する政府の対応,取締りにはさまざまな変遷があった。まず維新直後の〈仮刑律〉や〈新律綱領〉では賭博を行った者は笞打ちとされ,新体制の障害になるとみられた博徒も強圧的に活動を抑えられた。しかし,1877年ころから賭博は盛んになり,博徒の動きも活発になった。フランス刑法の影響により1874年賭博は現行犯のみ逮捕という指令が出され,また治罪法により家宅捜索は日没後および日の出前にはできないことになった。かくて,賭博禁止が最も緩和された時期を迎えた。たとえば80年の東京府の統計では,公認の楊弓場253,大半弓場70,室内射撃場15,投扇競場5,吹き矢場101があった。82,83年政府が地方の実情を把握するために全国に派遣した地方巡察使の復命書は,各地の賭博や博徒の状態についても述べている。それによると,関東地方を中心に賭博,博徒は隆盛をきわめ,たとえば群馬県では博徒の親分が5000人,博徒は約10万人もいると報告されている。さらに巡察使の中には,賭博取締り強化の意見書を出す者もあった。84年突然,当該刑法を停止して太政官布告〈賭博犯処分規則〉が出され,取締りが強化されて89年まで続いた。これは賭博抑圧に名をかりて,博徒も無関係でなかった自由民権運動の抑圧をはかったものとも考えられる。また1879年の教学聖旨で,賭博は酒色,遊興とならぶ悪弊とされた。これら一連の動きは,賭博を娯楽と考えずに犯罪とみなし,不忠不孝につながる諸悪の根源であるとする日本人の賭博観の形成にあずかって力があった。一方博徒は依然として活発な動きを示し,明治20年代以降大規模な縄張り争いをくりかえした。静岡では双方70~80人を動員した抗争があり,東京浅草の親分は700~800人の子分を擁していたという。また明治になって新しく登場した撞球,競馬等の賭博もある。その典型が〈チーハー賭博〉と呼ばれる,独特の賭紙を用いる中国系のもので,大正初めまで盛んであった。また従来からあった賭博も再び盛んになり,闘犬,闘牛も各地で行われた。江戸時代に盛んであった〈かるた〉賭博もおとろえず,明治20年代から花札が大流行した。86年には大審院長らが花札賭博を行って懲戒裁判に付せられる事件も起こった。1902年かるたの製造販売の抑圧のために骨牌税が新設され,製造業者に打撃を与えた。しかし,かるたの総製造数はほぼ横ばいか漸増を続け,03年の49万組に対し,18年には100万組を超える活況を呈した。とくに植民地である朝鮮に大量に輸出された。
執筆者:増川 宏一
現在は,賭博はさまざまな弊害を生じるとして,一般的には賭博罪によって禁じられている。しかし,地方自治体や全額国庫出資の法人(たとえば,日本中央競馬会)が主催する場合には,その対象からはずされている。競馬(中央,地方),競輪,競艇,オートレースなどの公営競技(公営ギャンブル)がそれである。公営競技は,競馬以外は第2次大戦後にはじめられ,その収益は敗戦後の赤字に悩む地方財政を補ってきた。そして,公営競技の入場人員は,1955年以降にはじまる高度経済成長に歩調を合わせるかのように増加した。中央競馬を例にとると,55年に約157万人であった入場者数が,75年には約1490万人となり,売得金額も同様に約111億円が,約9084億円へと増えている。このようなギャンブル熱に対し,70年ころには〈1億総ギャンブル時代〉という言葉も生まれた。他方,〈八百長騒ぎ〉や元手欲しさの強盗や詐欺事件などの社会問題化に,公営競技廃止を求める世論も生じた。1969年美濃部亮吉東京都知事は,都営ギャンブル廃止を発表し,73年3月には全廃された(他の自治体が肩代りしたものもある)。また,ギャンブル熱のほうも74,75年を頂点に下降をはじめた(1983年の中央競馬入場者数約903万人)。それは,急速に進行してきた工業化,都市化が生んだ精神的不安からの解消を,賭博という余暇活動が端的に担ってきたのに対し,その後の余暇の多様化が賭博の位置を相対化し,低下させたことを意味するであろう。ちなみに,地方公営事業会計における前記の公営ギャンブルおよび宝くじ事業による歳入は,その後1980年の4兆2140億円から94年の5兆3480億円へ,収益金は同じく4100億円から5220億円へと推移しており,収益金における宝くじの比率が高まっている。
→公営賭博 →賭博罪
執筆者:高橋 勇悦
〈賭博〉という語はれっきとした中国語で,すでに唐の李商隠(義山)の撰といわれる《義山雑纂(ざつさん)》にみえている。〈博〉というのは〈六博(りくはく)〉ともいい,四角の盤をはさんであい対したふたりが,箸(ちよ)(さいころの役目をする平たい棒)を投げあって駒を進めるすごろくの一種である。これは古代中国でもっとも好まれた盤上遊戯であって,すでに春秋時代には遊ばれていたらしく,《論語》に〈博奕(奕は囲碁のたぐいという)みたいなものでも何もせぬよりましだ〉という孔子の言葉が記録されており,《韓非子》にも〈儒者は博をしない〉とみえ,のちに〈博〉または〈博奕〉が賭けごとの代名詞になったのは,上述の〈賭博〉の語が示すとおりである。というのも,勝敗の分かれる遊戯にはすべて賭博性があるからで,ほかに闘鶏,闘蟋蟀(しつしゆつ)(コオロギの闘戯),走狗(そうく)(ドッグレース),樗蒲(ちよぼ)(ばくち)などはいわずもがな,投壺(とうこ)(矢投げ),囲碁(碁),象戯(しようぎ)(中国式の将棋),双陸(すごろく),握槊(あくさく)(すごろくの一種)などにも金品が賭けられることがあった。賭博の弊害についてはつとに三国呉の韋昭が《博奕論》のなかで嘆いており,歴代の王朝もしばしば禁令を出したけれども,クビになった役人があとを絶たなかったのは,賭博のもつ魔性のゆえであろう。
執筆者:三浦 国雄
古代に豊穣,天候,狩猟の予想を占い,未来を予知する儀式が賭博の祖型であった。紀元前12世紀ごろのインドの《リグ・ベーダ》には,呪文を唱えながら木の実を地面の窪地にまき,それをつかみ取った数か残った数が4で割り切れるのを最上とし,1個余るのを最低とした賭博法が記されている。古代エジプトでも,前3千年紀にさいころを使った盤上ゲームや動物どうしの闘争に賭けられていて,じゃんけんの原型の賭博も行われていた。古代ギリシアでは賭博は完全に娯楽になっていて,さいころ賭博,闘鶏,剣闘士賭博,スポーツ賭博が代表的なものであった。古代ローマの市民は各種の賭博に熱中し歴代の皇帝や大貴族は賭博を主催した。貨幣投げ,貨幣の表裏あて,さいころ賭博,戦車競走,剣闘,闘鶏,闘犬,盤上ゲームなど高度な文化にふさわしく古代世界でぬきんでた多様な賭博が考案され日常化した。また,中近東では独特の闘羊,闘駱駝,闘虫,鳩のレースに賭けられた。
古代の宗教的儀式から娯楽に転化した賭博の時期は,賭け手が自分の賭物を自由に提供できるようになった私有財産制度が確立したころである。しかし階級制度の発生とともに賭博は支配階級の享楽として独占され,奴隷に対しては怠惰や生産阻害の原因として厳しく禁じられた。中世になってローマ帝国を通じて多様な賭博が全ヨーロッパに広がったが,生産階級である農民が賭博をする社会的条件が整ったためで,このため賭博人口が飛躍的に増大した。農村では旅籠屋が集会場を兼ねた賭博場であり祭日にはつねに賭博がなされた。中世末期にヨーロッパ南部に出現したプレーイング・カード(トランプ)は新しい型の賭博として熱狂的に愛好され,ヨーロッパ全土に広まった。この画期的な賭博用具は多くの婦人たちを賭博にひき入れた。近世になるとビリヤード,テニスなどの球技や一度におおぜいが賭けられる競馬やドッグレースがはじまった。特にロッテリー(富くじ)の考案は,都市への人口集中に伴って爆発的に流行し,公共事業の資金調達の目的で公営ロッテリーが企画された。また,バーデン・バーデンやモンテ・カルロのような巨大な賭博場がつくられ,新型の賭博用具であるルーレットが人気を集めた。一方,東南アジア全域は,これまでの闘鶏,闘鶉,闘羊,闘蛩(とうきよう)(コオロギ),闘魚とともにカード賭博が普及し,独特の共通した賭博圏をつくった。
資本主義の発展とともに賭博は企業化され,高収益をあげる事業になった。アメリカ大陸では新開地特有の投機性に満ちた風潮とあいまって賭博が盛んに行われ,無数の賭博場と数万の職業的賭博師が生まれた。近代になるとヨーロッパをしのぐ豪華な賭博場がつくられた。ここでもロッテリーやその変型のナンバーズが流行したが,多くの賭博場を含む各種の賭博はイタリア系移民を中心にした犯罪シンジケートによって支配されている。近代の賭博は通信・計算機械の向上と結びついたブックメーカー(賭博予想屋)の成長によって,競馬,ドッグレース,自動車競走,ビンゴゲーム,サッカー,拳闘などの一度の試合に多数の人々が賭ける賭博がいっそう広まった。
現在の賭博は三つに大別される。(1)一般の私的な賭博。家庭内や知人どうし,パーティやパブ(酒場)などで,さいころ,カードゲーム,ルーレット,ダーツ(投げ矢),バックギャモン(西洋すごろく),ドミノなどに賭けられる。場合によって日常のさまざまな事象も賭の対象にされる。賭金はおおむね低額である。(2)賭博場での賭博。賭金の下限も高く,入場時の服装も厳格な大規模な賭博場から賭金も低い粗末な賭博場まで多種多様であり,さいころ賭博,カードゲームのテーブルやルーレット台を置き,自動賭博機械も設置している。賭博を特に好む人々が集まり多額の賭金が動く。欧米ではビンゴゲーム,競馬,ドッグレース,サッカーなどそれぞれ専用の賭博場もある。(3)公営賭博。政府や地方自治体が主催し国民全体を対象にした大規模な賭博でロッテリーとともにサッカーや競馬の賭もあり,くじ販売所でチケットが売られる。
賭博は長い歴史のなかでつねに禁止されてきたが,古代は娯楽として規制もなく,禁止法があっても遵守されなかった。仏教やイスラム教は宗教上の見解から禁止した。賭博禁止令は中世になって成文化され,当時は被支配階級の遊戯・娯楽は犯罪視されて取り締まられた。近世になっても同様だったが,バッキンガム宮殿内に王室と貴族の専用賭博室がつくられたように賭博取締りははなはだ不公平であった。しかし議会制度を採用した国々では個人の権利や財産が尊重されるにつれ,賭博場の捜索が巧妙に妨げられるようになり,禁止の実行がしだいに困難になった。イギリスやフランスで賭博場は会員制クラブの形式をとって18世紀の初めには公然と行われるようになった。同時に,競馬は馬匹改良のため,ロッテリーは公共事業のためという名目で合法になった。
中世,近世を通じて繰り返されたおびただしい数の賭博禁止令は,歴史的にみれば賭博を法律で禁止することが不可能であることを実証している。近代になると各国政府は人心把握の政策上,賭博禁止を漸次緩和するようになった。第2次大戦後はさらに変化し,特に1951年のイギリスにおける賭博調査委員会による報告書では,賭博は個人の責任で行うもので法律によって規制するものではない,という結論を下した。この報告にもとづいて60年にイギリスで賭博制限はゆるめられた。スウェーデンでは国家に任命された運営委員が賭博事業を監督しているが,1954年のスウェーデン世論調査研究所の調査も,賭博が犯罪と結びつかず健全娯楽であることを確認した。現在,西ドイツも賭博禁止をきわめて緩和しており,アメリカはラス・ベガスのあるネバダ州ほか数州で賭博を合法とし,ニューヨークに公認賭博企業組織がつくられている。ソ連や東欧諸国も各種のロッテリーやサッカーくじが国営で人気がある。最近の趨勢は,犯罪組織と結びつかない限り,賭博は合法化の傾向にある。
執筆者:増川 宏一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
広く賭(か)け事のこと。刑法第185条に「賭博をした者は、五十万円以下の罰金又は科料に処する」とある。旧刑法では博戯(はくぎ)(当事者の行為によって勝敗が決まるもの)と賭事(とじ)(当事者の行為には関係のないもの)とに区別し、これを総称して賭博といったが、1995年(平成7)の刑法改正でこの区別を廃した。
[倉茂貞助]
賭け事の歴史は古く、紀元前3000年から前2000年ごろにはエジプトやインドなど古代文明を創造した民族の間で、それぞれ定型化した賭け事が行われていたことが、遺跡や出土品によって立証されている。日本の賭け事の発祥は、『日本書紀』に「天武天皇ノ一四年(685)、大安殿ニ御シ、王卿(おうけい)ヲシテ博戯セシム」とあり、文中の博戯が双六(すごろく)(盤双六)であったと考えられることを根拠に、7世紀の中ごろ、大陸から双六が伝えられたことに始まるとしている。しかし当時、双六のほかに意銭(いせん)および樗蒲(ちょぼ)とよばれる賭け事が行われていたという記録もあり、これらの賭け事がどんな賭け事で、どこからいつごろ伝えられたかはわからない。また、大陸から双六が伝えられる以前に、日本人が独自に考案した賭け事があったとする説もあるが、それを証明する資料は何も発見されていない。
双六の伝来が日本の賭け事史に重要な意味をもつのは、その用具の一部として、日本人が知らなかった「さいころ」が伝えられたことにある。伝来後まもなく攤(だ)という賭け事が考案され、平安時代の七半(しちはん)、鎌倉時代の四一半(しいちはん)を経て今日の丁半(ちょうはん)まで、さいころは日本の賭け事の主流として伝えられてきた。
日本の賭け事は689年(持統天皇3)に「雙六(すぐろく)禁断之令」が発布されて以来、江戸時代に寺社修復の資金調達を理由に一時富籤(とみくじ)を公許した例があるが、1923年(大正12)に競馬法が制定されるまで、一貫して禁じられてきた。しかもその間、賭け事は、歴代為政者の取締りにもかかわらず、一度も下降線をたどったためしがなく、発達し続けてきている。
賭け事の立場から日本の歴史を概観すると、奈良時代に大陸からの伝来によって芽生えた日本の賭け事は、平安時代に一斉に開花し、鎌倉時代から室町・安土(あづち)桃山時代にかけて広く庶民の間に浸透した。江戸時代には、賭け事の種類、内容などの完成とともに万果成熟の時代を迎えた。そして、明治・大正時代には諸外国の影響を受けて、刑法の制定をはじめさまざまな変革があった。第二次世界大戦後になって社会情勢の変化とともに国民の賭け事に対する考え方も変わり、刑法の賭博罪は廃止されないが、公共のための資金の調達を目的として競馬、競輪、競艇(きょうてい)、オートレース、宝くじがそれぞれ特別法によって公認され、有史以来初めて賭け事の公認時代になった。
賭け事には、暴力を背景に賭博の開帳など、賭け事を業とする博徒が存在することが多い。日本の博徒は平安時代に発生し、その後消長はあったが、江戸時代には賭け事の隆盛とともに、演劇、文芸などで紹介されているように、多くの組織化された博徒が輩出した。その後社会情勢の変化に伴い組織の形態や内容は変わったが、今日なお社会的に大きな影響力をもって存在している。
世界の先進諸国の賭け事の歴史も、ほぼ日本と軌を同じくしているが、19世紀の中ごろから公共のための資金の調達を目的に競馬、ドッグレース、ロッテリー(宝くじ)など、20世紀になってトトカルチョを公認する国が急激に増加した。またイギリスは、1959年に「ギャンブルはコントロールすべきであるが禁ずべきではない」とする王室委員会の答申に基づいて、すべてのギャンブルを解放したが、この考え方は、一部の賭け事を資金調達のためやむをえず公認している現状よりもさらに一歩進めて、賭け事を国民の娯楽の一つとして認めたものであり、世界各国の将来の賭け事のあり方を示唆しているように思われる。
[倉茂貞助]
賭け事の種類は多く、いろいろな分類ができるが、使用する用具と賭けの対象によって、(1)さいころを使用するもの、(2)牌(はい)を使用するもの、(3)機械を使用するもの、(4)スポーツの勝敗を対象とするもの、(5)その他のもの、に大別することができる。そのほか刑法では、賭博と区別しているが、くじ(抽選)による賭け事がある。
(1)さいころを使用する賭け事 さいころは、人類がくじに次いで考え出した賭け事の用具だといわれる。さいころを使用する賭け事は世界で日本がもっとも発達していて、1個を使用するちょぼいち、大目小目、2個を使用する丁半(ちょうはん)、四下(しした)、緩急、3個を使用する狐(きつね)、よいど、4個を使用する狢(むじな)、ちいっぱ、5個を使用する天災など二十数種類ある。欧米では3個、5個または10個を使用するダイスが有名である。方法を大別すると、さいころが何個であろうと、個々のさいころの出目がいくつになるか、2個以上のさいころの出目の合計が奇数か偶数か、またはいくつになるか、2個以上のさいころの出目がどうそろうか、のいずれかで勝負を争うようにできている。
(2)牌を使用する賭け事 牌は、くじやさいころに比べてはるかに遅く遊びの用具として考案されたもので、それが賭け事にも使用されるようになった。欧米のトランプ、中国の麻雀(マージャン)、日本の花札は、それぞれ特色があり有名である。遊び方は、麻雀はほぼ統一されているが、トランプと花札にはいろいろな方法がある。また牌を使用する賭け事は、さいころやくじの賭け事に比べてやり方が複雑で、いろいろと牌を組み合わせて勝負を争うところに特色がある。
(3)機械を使用する賭け事 もっとも新しい賭け事で、欧米のルーレット、スロットマシン、日本のパチンコなどが代表的なものであるが、それらは機械を相手に1人で楽しむところに特色がある。また、第二次世界大戦後、遊びの用具としていろいろな機械が考案され、コンピュータを応用した賭け事の用具も出ている。
(4)スポーツの勝負を対象とする賭け事 世界的には競馬、ドッグレースが有名であるが、日本とデンマークには競輪があり、ほかに日本では競艇とオートレースが公認されている。これらのスポーツを対象とする賭け事は、1860年にフランスでトータリゼーター・システムの投票方法が発明されてから急激に発達したもので、そのほかスペイン系の国にはハイアライがある。また、1921年にイギリスで始められたサッカー試合を対象にしたトトカルチョは、もっとも新しい形式のスポーツを対象とする賭け事である。これらは、いずれも公共のための資金を調達する目的で公認されていて、第三者の行うスポーツの勝敗を予想するところに特色がある。
(5)くじによる賭け事 くじは、さいころとともに古くから賭け事の方法として使われている。日本の古くは富籤、現在は宝くじ、欧米のロッテリーが有名で、ビンゴやナンバーズなどの数当てもくじの応用と考えられる。くじによる賭け事は世界中のほとんどの国が公共のための資金の調達を目的に公認している。
(6)その他の賭け事 以上の分類による賭け事のほか、囲碁、将棋、チェス、ビリヤードなどの勝負事、闘牛、闘犬、闘鶏など動物の勝負、そのほか射的(しゃてき)、吹き矢、凧(たこ)揚げ、こま、福引なども賭け事として行われることがある。賭け事が偶然の事情の成否に金品を賭けることであれば、翌日の天気、めくった本のページ数、すれ違う自動車のナンバー、鳥が鳴くかどうかなども賭け事の対象となり、賭け事の種類や手段は数えきれないほどである。
[倉茂貞助]
日本をはじめ世界中のほとんどの先進諸国が、過去の歴史のなかで賭け事を禁じようと努力しているが、成功した国はない。むしろ賭け事はますます盛んになるばかりで、イギリスが1959年に結論を出したように、人間社会における賭け事は、コントロールすべきではあるが、禁じることには無理があるように思われる。人間が賭け事を楽しむ心理は、直接には一攫(いっかく)千金を夢みる射幸心によるが、さらに本質的に人間には賭け事を創造し楽しもうとする欲求がある。
人間には、生産活動つまり生活のほかに娯楽を楽しむ本能がある。人間が娯楽のなかに求めている潜在欲求は、優越感と解放感の満足とされているが、数えきれないほどある娯楽のなかで、もっとも簡単でかつ強く優越感と解放感を満たすことができる娯楽が賭け事といえる。したがって、単調で個性に乏しい日常生活をしている人々が賭け事に深入りしやすい。つまり、日常生活のなかで優越感と解放感を満たす機会が少ない人ほど、その不満を賭け事のなかで満たそうとする。一般的には、社会情勢の変動によって日常生活に不安と焦燥がおこると賭け事が流行する。ただ賭け事はほかの娯楽に比べて中毒症状をおこしやすい特色がある。とくに長時間にわたって反復していると、興奮を冷却する余裕がなく、知性を失い正常な判断を欠く危険がある。
賭け事の流行は、そのときの社会環境に大きく左右されるが、第二次世界大戦後現在に至るまで、日本ばかりでなく世界中の国でギャンブル・ブームを招いている。そのおもな理由として次のことが考えられる。(1)終戦によって戦時中の緊張から解放され、同時に社会的あるいは経済的な混乱、焦燥、虚脱などの心理的不安がおこったこと。(2)世界的に全体主義が崩れ民主主義が勃興(ぼっこう)し、個人主義の普及とともに、禁欲倫理観に対する反抗から賭け事に対する罪悪感が薄らいだこと。(3)農漁村の解放、女性の解放、生活の機械化、生活様式の変化などによって、レジャー時代の出現が促され、余剰エネルギーが賭け事に振り向けられる結果となったこと。(4)物価の高騰と貨幣価値の低下によってインフレの傾向が強まり、投機とともに賭け事の流行を誘ったこと。(5)賭け事を公認する傾向が強まるとともに、その施設が充実し、同時にマスコミが賭け事に関する報道を多く取り扱うようになり、国民の賭け事に対する興味をそそるようになったこと、などがあげられる。
[倉茂貞助]
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…すなわち言葉のレベルをちがえて生活を楽しむ法である。近代ヨーロッパでjeuというと,トランプなどを使っての賭博遊びを指す。A.デュマ(父)の《三銃士》などを見ても,剣士たちは暇さえあれば手なぐさみをしている。…
…幕府刑法においては,1718年(享保3)以降体系化が進み,過料(3貫文または5貫文),重き過料(10貫文),身上(しんしよう)に応じ過料(財産にしたがって納付額が定められる),小間(こま)に応じ過料(家並みに課し,間口に応じて割り付ける),村高に応じ過料(村に対し,石高に応じて課する)などに整理された。いずれも庶民に対する刑罰として,賭博罪,隠売女(かくしばいじよ)をはじめ各種の犯罪に広く適用され,また過料のうえ戸〆(とじめ)など二重しおきとされることも多い。3日間の納期限を過ぎると手鎖(てじよう)で代えられ,逆に手鎖刑も過料で代替しえた。…
…すごろくや賭博などに用いる道具。現在一般的に使われているのは,立方体の各面に1~6の点を記し,1の裏が6,2の裏が5というように両面の和がいずれも7になるように配したもの。…
…博奕を専業とする者。中世には博打(ばくち)がいるが,江戸時代には賭博者の集団である博徒が多数生まれた。
[都市博徒]
江戸時代の初期に賭博常習者として知られているものは旗本,御家人,浪人からなる旗本奴(はたもとやつこ)の一団である。…
※「賭博」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
「歓喜の歌」の合唱で知られ、聴力をほぼ失ったベートーベンが晩年に完成させた最後の交響曲。第4楽章にある合唱は人生の苦悩と喜び、全人類の兄弟愛をたたえたシラーの詩が基で欧州連合(EU)の歌にも指定され...
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