高峰譲吉(読み)タカミネジョウキチ

デジタル大辞泉 「高峰譲吉」の意味・読み・例文・類語

たかみね‐じょうきち〔‐ジヤウキチ〕【高峰譲吉】

[1854~1922]応用化学者。富山の生まれ。英国留学後、和紙・製塩・酒造の研究に従事。渡米し、タカジアスターゼを創製、アドレナリンを発見。後年、米国に帰化。

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精選版 日本国語大辞典 「高峰譲吉」の意味・読み・例文・類語

たかみね‐じょうきち【高峰譲吉】

  1. 応用化学者。加賀藩典医高峰元陸の長子として越中高岡に生まれる。工部大学校応用化学科卒業後、イギリスに留学。麹(こうじ)からのタカジアスターゼの創製および副腎からのアドレナリンの分離に成功した。帝国学士院賞受賞。ニューヨーク客死。安政元~大正一一年(一八五四‐一九二二

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「高峰譲吉」の意味・わかりやすい解説

高峰譲吉
たかみねじょうきち
(1854―1922)

応用化学者。嘉永(かえい)7年11月3日、加賀藩典医高峰元陸(げんろく)の長子として高岡に生まれる。藩校明倫堂に学び、選抜されて長崎に留学(1865)、京都の安達兵学塾(あだちへいがくじゅく)、大阪の適塾(てきじゅく)、大阪仮病院(のち大阪医学校)に学び、大阪舎密局(せいみきょく)へ聴講に行き分析術を学び、1879年(明治12)工部大学校(東京大学工学部の前身)化学科第1回卒業生となった。その後、イギリス、グラスゴー大学へ留学、帰国後農商務省工務局に勤務、和紙・製塩・清酒醸造の改良研究に従事、専売特許局次長と分析課長となった。また1887年渋沢栄一らと日本最初の人造肥料会社を設立、過リン酸石灰を製造、さらには高峰元麹(もとこうじ)改良法の特許を得(1890)、アメリカへ渡り、麹から強力消化剤タカジアスターゼを創製(1892)して特許を得(1894)、パーク・デビス社から市販されることとなり同社顧問となった。

 ニューヨークに高峰研究所を設け、同社依頼の副腎(ふくじん)髄質ホルモンの抽出を行い、1901年(明治34)弟子上中啓三(うえなかけいぞう)(1876―1960)とともにその有効成分の一つを結晶状に単離し、アドレナリンと名づけた。これは世界の化学界で競争されていたホルモン初の結晶化であり、1912年帝国学士院賞第一号を受けた。翌1913年(大正2)帰国し、「国民科学研究所」を創立することが軍艦をつくるより価値のあることと説き、この提案は理化学研究所の創立となって実現した。三共株式会社の社長を務めるかたわら、カロラインCaroline夫人(1866―1954)(アメリカ人)とともに日米文化交流に尽くし、大正11年7月22日ニューヨークで没した。

[岩田敦子]


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改訂新版 世界大百科事典 「高峰譲吉」の意味・わかりやすい解説

高峰譲吉 (たかみねじょうきち)
生没年:1854-1922(安政1-大正11)

応用化学者。加賀藩典医の高峰元陸(げんろく)(のち,精一と改名)の長男として,現在の富山県高岡市に生まれる。藩校明倫堂で学んだ後,11歳のときに長崎に留学。引き続き京都の安達兵学塾,大坂の適塾,七尾語学所,大坂医学校で学び,さらに大阪舎密(せいみ)学校でリッターH.Ritterに分析術を学ぶ。1872年上京して工部省工学寮を経て,73年工部学校(1878年に工部大学校に昇格,東京大学工学部の前身となる)に入学。79年第1回卒業生となる。翌80年から3年間イギリスのグラスゴー大学に留学。帰国後,農商務省に入り,和紙製造,清酒醸造などの改良を手がける。84年ニューオーリンズの万国工業博覧会に日本代表として出席し,出品されたリン酸肥料に着目。帰国後,渋沢栄一らの協力を得て,86年東京人造肥料会社を設立,日本最初の人造肥料をつくる。90年清酒醸造に関する高峰元麴(もとこうじ)改良法の特許を得,また渡米して元麴を使ってトウモロコシからアルコールをつくる方法,および小麦のふすまから元麴をつくる方法を開発するが,モルト業者の反対にあい事業は失敗する。94年小麦ふすまの麴からタカジアスターゼの抽出に成功,特許を得て,パーク・デービス社より強力消化剤として発売した(日本においては1913年に三共(株)を設立し,独占販売権をゆだねた)。また同社の依頼を受け,上中啓三と協力してウシの副腎から有効成分の抽出を手がけ,1900年ホルモンとして最初の結晶化に成功し,アドレナリンと命名した。12年学士院賞受賞。理化学研究所の設立にも貢献した。アメリカ婦人キャロラインと結婚,晩年アメリカに帰化,ニューヨークで没した。
執筆者:

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朝日日本歴史人物事典 「高峰譲吉」の解説

高峰譲吉

没年:大正11.7.22(1922)
生年:安政1.11.3(1854.12.22)
明治大正期の化学者。日本で最初期の近代的化学者として知られる。越中国(富山県)高岡の医者高峰精一の息子。11歳で長崎に留学し,オランダ語,英語を学び,のち京都,大坂で医学を修め,次いで大坂の舎密学校で化学を勉強するにおよんで,将来の目的が定まった。維新後上京して工学寮に明治5(1872)年入学,12年工部大学校を卒業。翌13年から3年間イギリス留学,グラスゴーを中心に調査・研究を続け,16年帰国後,実学を目指して,大学に残らず,農商務省に就職。翌17年ニューオーリンズの万国工業博覧会に出張してリン酸肥料に注目し,その国産化を目指して,渋沢栄一,大倉喜八郎らと東京人造肥料会社を設立するとともに,アメリカでは特許業務にも関心を寄せ専売特許局次長として発明の推進にも力を注ぐことになる。なおこのときのアメリカ滞在中にキャロラインと知り合い,20年に結婚している。後半生をアメリカで過ごすことになる下地はそこにもあった。 23年清酒の醸造における麹菌の改良で特許を取り,アメリカのウイスキー醸造への応用技術開発のために渡米,小麦のフスマから元麹を得ることに成功したが,事業は業者の反対もあって実らなかった。しかし,この研究の副産物として27年に酵素の複合体であるタカジアスターゼの抽出に成功しパーク・ディビス社から強力消化薬として発売,日本では三共製薬を大正2(1913)年に創設してそこから独占販売することになった。また,明治33年ウシの副腎から抽出されるホルモンの結晶化にも成功し,これにアドレナリンの名称を与えた。晩年はアメリカに帰化したが,日本の科学技術の発展にも意を払い,国民科学研究所(のちの理化学研究所)の設立にも関与,日本の学士院会員にも選ばれた。ニューヨークで没する。<参考文献>山科樵作「高峰譲吉先生」(『化学』17巻)

(村上陽一郎)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

20世紀日本人名事典 「高峰譲吉」の解説

高峰 譲吉
タカミネ ジョウキチ

明治・大正期の化学者 三共(株)初代社長。



国籍
アメリカ

生年
嘉永7年11月3日(1854年)

没年
大正11(1922)年7月22日

出生地
越中国高岡(富山県高岡市)

学歴〔年〕
工部大学校(現・東京大学工学部)応用化学科〔明治12年〕卒

学位〔年〕
薬学博士,工学博士

主な受賞名〔年〕
帝国学士院賞(第2回)〔大正1年〕

経歴
金沢藩典医・高峰精一の長男。11歳で長崎に留学し、オランダ語・英語を、のち京都、大阪で医学・化学を学ぶ。維新後上京して明治5年工学寮(のち工部大学校)に入学。13年英国に留学、グラスゴー大学に学び、16年帰国。農商務省御用係として和紙、製藍、清酒醸造の研究に従い、19年特許局次長。同年渋沢栄一らと東京人造肥料会社を設立した。23年渡米、パークデヴィス社顧問となる。25年強力消化剤“タカジアスターゼ”の創製に成功(27年特許)、33年には副腎の有効成分“アドレナリン”の結晶化に成功、これらの業績により大正元年学士院賞を受賞した。2年帰国し、理化学研究所の前身といえる国民科学研究所、三共株式会社などを設立した。妻カロラインはアメリカ人で、のち自身もアメリカに帰化しニューヨークで没した。

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百科事典マイペディア 「高峰譲吉」の意味・わかりやすい解説

高峰譲吉【たかみねじょうきち】

応用化学者。加賀藩医高峰元陸の長男として,現在の富山県高岡市に生まれる。1879年東大工学部卒業後英国に留学,帰国後農商務省,専売特許局などに勤務,1884年のニューオーリンズ万国工業博以来,たびたび米国に渡り,のちアメリカに帰化。過リン酸肥料の研究,タカジアスターゼの創製,アドレナリンの抽出などの業績をあげ,1902年ニューヨークに高峰研究所を設立した。理化学研究所の設立にも尽力。
→関連項目アドレナリン三共[株]ジアスターゼ

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化学辞典 第2版 「高峰譲吉」の解説

高峰譲吉
タカミネ ジョウキチ
Takamine, Jokichi

明治期の日本の応用化学者,企業家.加賀藩典医の長男として,嘉永7年9月13日越中高岡に生まれる.1879年工部大学校一期生として卒業,翌年より3年間スコットランドのグラスゴー大学に留学.農商務省技師となり,専売特許局次長,分析課長などを歴任した.1887年日本最初の人造肥料会社を設立.1891年取得した元麹(種麹を改良したもの)改良法特許をもとにウイスキー製造業に従事するために渡米.事業は失敗したが,その研究過程で,麹から強力消化剤タカジアスターゼを発見し,製造特許を取得.その販売権を譲ったアメリカ製薬会社の研究顧問となり,1897年ニューヨークに自らの研究室を設立.1900年助手の上中啓三(1876~1960年)とともに,副腎から生理作用のある有効成分の結晶化に成功し,アドレナリンと命名(世界最初のホルモン結晶化)した.ニューヨーク郊外で死去.夫人はアメリカ人.

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「高峰譲吉」の意味・わかりやすい解説

高峰譲吉
たかみねじょうきち

[生]嘉永7(1854).11.3. 高岡
[没]1922.7.22. ニューヨーク
応用化学者。工部大学校化学科卒業 (1879) 後,イギリスに留学。帰国後専売特許局次長となった。過リン酸肥料を研究し,日本の人造肥料工業の緒を開いた。 1890年アメリカに渡り,タカジアスターゼを創製 (1894) 。 1902年ニューヨークに高峰研究所を開設したが,その前年,副腎から現在アドレナリンと呼ばれている副腎髄質ホルモンのエピネフリンの純粋抽出に成功した。アメリカではそのほかにも数々の発明研究を行ない,1912年「アドレナリンの発見」に対し帝国学士院賞を受けた。 1913年に一時帰国,理化学研究所の創設に参画し,また各種の化学薬品会社を設立した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「高峰譲吉」の解説

高峰譲吉 たかみね-じょうきち

1854-1922 明治-大正時代の化学者。
嘉永(かえい)7年11月3日生まれ。イギリス留学ののち農商務省技師となる。明治23年アメリカにわたり化学研究所を設立。27年タカジアスターゼの創製,33年アドレナリンの結晶化に成功。国民科学研究所(現理化学研究所)の設立に尽力,三共商店(現三共)を設立した。45年学士院賞。大正11年7月22日ニューヨークで死去。69歳。越中(富山県)出身。工部大学校(現東大)卒。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「高峰譲吉」の解説

高峰譲吉
たかみねじょうきち

1854.11.3~1922.7.22

明治・大正期の化学者。越中国生れ。工部大学校卒。イギリス留学。農商務省で伝統的産物の化学的生産を研究。東京人造肥料会社を設立しリン酸肥料を開発。トウモロコシの醸造法を開発し,アメリカに招かれた。1894年(明治27)に麹菌からタカジアスターゼの抽出に成功。1900年牛の副腎からアドレナリンを分離。アメリカに高峰研究所を創設。帰国して理化学研究所の設立に尽力。学士院賞受賞。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「高峰譲吉」の解説

高峰譲吉
たかみねじょうきち

1854〜1922
明治・大正時代の応用化学者
越中(石川県)金沢の生まれ。工部大学校卒業後,イギリス・アメリカに留学。帰国後わが国最初の人造肥料会社設立に尽力した。のちアメリカに渡って,ニューヨークに高峰研究所を設立。強心剤アドレナリン,消化薬タカジアスターゼを創製し,世界的名声を得た。

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367日誕生日大事典 「高峰譲吉」の解説

高峰 譲吉 (たかみね じょうきち)

生年月日:1854年11月3日
明治時代;大正時代の化学者
1922年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の高峰譲吉の言及

【アドレナリン】より

高峰譲吉によって結晶形として得られた最初のホルモン。エピネフリンepinephrineとも呼ばれ,芳香族アミノ酸から生成されるアミン類であるカテコールアミンcatecholamineの一つ。…

※「高峰譲吉」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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