留場,狩場ともいう。本来は領主が放鷹(ほうよう)(鷹狩)を行う場所のこと。しかし江戸時代になると,実際には放鷹が行われない地域まで鷹場としてさまざまな規制・制約をうけ,負担を負うようになっており,これらの地域をも含めて鷹場と呼ぶことが多い。江戸時代は各地に鷹場が設定されたが,江戸周辺の鷹場は,幕政の動向を直接的に反映したものとして知られている。徳川家康は関東入国後,民情視察を兼ねて関東各地で放鷹を行ったが,鷹場制度を十分整備するには至らなかった。3代将軍家光期になると,1628年(寛永5)10月に江戸近郊5里以内の河川・街道沿いの村々54ヵ村に鷹場の制札を発布した。33年2月には5里外に三家,有力大名の鷹場が設置される一方,鷹匠,鳥見などの鷹場役人に関する職制が整備され,鷹場制度の一応の確立をみた。しかし5代将軍綱吉期にいたると,生類憐みの令の方針のもとで放鷹が中止され,93年(元禄6)10月に三家,諸大名の鷹場が幕府に返上され,96年には鷹場役人が廃止された。その後1716年(享保1)吉宗が8代将軍になると放鷹が復活し,同年9月江戸近郊9領594ヵ村が公儀の鷹場として指定されるとともに,鷹場役人の任命が行われた。翌17年5月には三家の鷹場が江戸から5~10里の地域に再設され,18年には公儀鷹場が葛西,戸田,中野,目黒,品川,岩淵の6筋に編成され,鷹場負担の均等化,法令伝達機能を担わされた鷹場組合が結成された。これらの諸制度はすべて幕領,私領,寺社領の差のない一円的な組織であり,江戸周辺地域の特徴の一つであった分散入組支配体制の克服の方向が示されたという点において,重要な意義を有するものであった。このとき再編された鷹場制度は1866年(慶応2)の廃止まで存続したが,この体制の下で江戸周辺農村は個別領主と幕府とによる二重の支配・統制をうけつづけた。
執筆者:大石 学
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
特定の権力者が、鷹狩を目的として設定した場所。古代には禁野(きんや)、標野(しめの)、戦国時代には鷹野(たかの)、豊臣・徳川政権下では鷹場という。江戸時代に鷹場をもちえたのは将軍と大名だけであり、天皇や公家は鷹狩を行使しても鷹場をもたなかった。近世の鷹場には、大別して公儀鷹場と藩鷹場とがあり、公儀鷹場には幕府鷹場や幕府が御三家をはじめとする大名に下賜した恩賜鷹場(おんしたかば)、幕府が御三卿に下賜した御借場(おかしば)などの種類がある。江戸幕府の鷹場は当初、関東のほか、畿内や東海道周辺にも存在したが、享保期(1716~1736)にはほぼ関東だけとなって、御拳場(おこぶしば)・御捉飼場(おとりかいば)に編成され、その間に幕府から下賜された御三家の鷹場が配置された。1867年(慶応3)廃止。御拳場は日本橋よりおよそ5里以内で、将軍が鷹狩を行使する鷹場をいい、鳥見(とりみ)の支配下にあり、御捉飼場は御拳場の外側にあって、鷹匠(たかじょう)らが鷹を訓練する鷹場をいい、鷹匠頭の支配下にあった。鷹場に指定されると、その村々は鷹場法度(はっと)の下に置かれて、鳥見や鷹匠頭配下の野廻りによるきびしい支配を受け、鷹場の維持管理にともなう諸負担を強制された。
[根崎光男]
『村上直・根崎光男著『鷹場史料の読み方・調べ方』(1985・雄山閣出版)』▽『根崎光男著『将軍の鷹狩り』(1999・同成社)』▽『根崎光男著『江戸幕府放鷹制度の研究』(2008・吉川弘文館)』
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※「鷹場」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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