江戸前期の噺家。出身は不明だが,大坂生れで志賀氏であると推察される。若いころから江戸に移り住み,長谷川町で塗師を業としていたが,30歳ごろから噺家となる。最大の功績は身振り手振りによる〈仕方噺(しかたばなし)〉を完成し,後世の江戸落語の基盤を作ったところにあり,江戸落語の祖といわれる。咄本は《鹿野武左衛門口伝咄し》3巻(1683),《鹿の巻筆》5巻(1686)がよく知られ,また石川流宣らとの合作《枝珊瑚珠(えださんごじゆ)》5巻(1690),露の五郎兵衛らとの合作《露鹿懸合咄(つゆとしかかけあいばなし)》5巻(1697)などもある。詳しい伝記はわからないが,1693年(元禄6)の江戸における悪疫流行のおりに舌禍事件が生じ,伊豆の大島へ流罪となった。6年の刑期を終えて江戸に帰ったが,服役中の疲労のため重病にかかり,それが死因となったことが落語史上に伝えられている。
→噺本
執筆者:関山 和夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
(延広真治)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
江戸落語の祖といわれる落語家。大坂出身らしいが若くして江戸に住む。長谷川町の塗師(ぬし)職人であったが、30歳ごろ専門の噺家(はなしか)となり、辻咄(つじばなし)や座敷仕方咄(ざしきしかたばなし)を演じ、天和(てんな)・貞亨(じょうきょう)(1681~88)のころ中橋広小路で莚張(むしろば)りの小屋を設けて興行した。『鹿野武左衛門口伝咄(くでんばな)し』(1683)、『鹿の巻筆』(1686)の噺本2著を残した。1694年(元禄7)武左衛門の咄にヒントを得たデマが巷(ちまた)に流れたため伊豆大島に流され、6年の刑期を終えて江戸に帰り、その年に病死した。
[関山和夫]
…大勢の人を寄せて,さまざまな演芸を興行するところで,〈寄席〉の字を当てているが,単に〈席(せき)〉と呼ぶこともある。
[江戸の寄席]
寄席は,江戸時代の初めごろに,寺社の境内などで葭簀(よしず)張りの辻咄(つじばなし)や講釈を行ったものがあり,天和・貞享(1681‐88)のころには,江戸落語の祖といわれる鹿野(しかの)武左衛門(1649‐99)が,江戸の中橋広小路で葭簀張りの小屋掛けで興行をしているし,また安永・天明(1772‐89)のころから噺家(はなしか)の自宅や寺院,茶屋の座敷などで〈咄(はなし)の会〉を興行するものもあったが,現在の寄席のような形ができたのは,1798年(寛政10)6月に大坂から江戸に来た岡本万作が,神田豊島町藁店(わらだな)に〈頓作軽口噺(とんさくかるくちばなし)〉という看板を掲げ常設の寄席を作ったのが最初である。これに対抗して意欲を燃やしたのが初代三笑亭可楽(さんしようていからく)(1777‐1832)であり,彼は下谷柳町の稲荷神社の境内に寄席を開いた。…
…その後まもなく,〈はなし〉を〈軽口〉というようになるとともに,はなしのおもしろさを効果的に結ぶ〈落ち〉の技術もみがかれていった(後出〈落ちの型〉を参照)。
[辻咄時代]
落語が飛躍的に進歩したのは,延宝・天和年間(1673‐84)ごろから京都で辻咄(つじばなし)をはじめた露(つゆ)の五郎兵衛と,おなじころ江戸で辻咄をはじめた鹿野(しかの)武左衛門,貞享年間(1684‐88)ごろから大坂で辻咄をはじめた米沢彦八という3人の職業的落語家の功績だった。 辻咄というのは,街の盛場や祭礼の場によしず張りの小屋をもうけ,演者は広床几(ひろしようぎ)の上の机の前で口演し,聴衆は床几に腰をかけて聴くという形式をとり,晴天に興行して道ゆく人の足をとめ,咄が佳境にはいったころを見はからって,銭を集めて回るという庶民的演芸だった。…
※「鹿野武左衛門」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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