《還魂記》(読み)かんこんき

世界大百科事典(旧版)内の《還魂記》の言及

【戯文】より

…これに続く万暦年間(1573‐1619)は文化の爛熟期といわれるが,数多くの劇作家が輩出した。最も著名なのは江西臨川の湯顕祖で,《紫釵記》《還魂記》《南柯記》《邯鄲記》の作があり,中でも《還魂記》は文辞構成ともにすぐれ,かつ恋愛の自由な姿を謳歌したので,天下の子女の喝采を博した。 ところで,歌辞をうたうには土地によって流派を異にし,発祥の地名を冠して海塩腔・弋陽腔(よくようこう)・余姚腔などと称していたが,嘉靖年間に崑山の魏良輔がはじめた崑曲の調べが好評で,急速に各地に伝播した。…

【中国演劇】より

… 嘉靖年間(1522‐66)の初め,蘇州崑山地方の〈崑腔(崑曲)〉が魏良輔によって大改良されるや,その清柔優美なメロディは文人の好尚にすこぶるかない,従来の海塩腔,弋陽(よくよう)腔,余姚(よよう)腔等をおさえてはやり出し,これを用いて作られた梁辰魚の《浣紗記》により,決定的な流行をみるようになった。続く万暦年間(1573‐1619)にもっとも傑出した作家が湯顕祖で,彼の代表作《還魂記》は南戯の最高傑作とされ,典雅艶麗な文辞と巧みな構成とを得て,曲折波瀾にとんだ甘美な才子佳人劇の一極致を描いた。また同時期には音律にくわしい沈璟(しんえい)ほか多くの作者が輩出し,南戯の全盛期をむかえるにいたった。…

【湯顕祖】より

…詩文の上では,王世貞らが〈文は秦漢,詩は盛唐〉を最高の古典として称揚し,もっぱらこれらの模擬をとなえたのに対し,まっこうから反対して,六朝や宋の詩文をも尊重すべきことを主張し,清の銭謙益に大きな影響を与えた。劇作の上では《紫釵記》《還魂記》《南柯記》《邯鄲記》を書き,いずれも内容が夢と関係が深いので,その書斎の名を冠して《玉茗堂四夢》とよんでいる。とくに《還魂記》は夢と現実を交錯させる特異な構成の中で,青年男女の恋愛を生死をこえて成就させる筋で,天下の子女の喝采を博した。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」