アダシェフ(読み)あだしぇふ

世界大百科事典(旧版)内のアダシェフの言及

【イワン[4世]】より

…イワンは気性が激しく,猜疑心も強く,81年にも息子イワンを口論の末打ち殺したが,1547年に結婚した最初の妃アナスタシアAnastasiya Romanovnaは,夫の怒りの発作をしずめることができたといわれ,イワンの治世も60年の彼女の死で二分されることが多い。 治世の前半は改革期で,ゼムスキー・ソボルの招集,新たな法令集(スジェブニク)の制定,ストグラフ会議の開催,中央と地方の行政と税制の整備,とくにコルムレニエkormlenie(住民負担の扶持による代官の支配)に代わる住民自治の導入,貴族と士族(ドボリャニン)の軍役義務の確定などの改革があいついだが,これを推進したのは有能な行政官アダシェフAleksei Fyodorovich Adashevを中心とするいわゆる〈選抜者会議〉であって,イワン自身の役割,功績ははっきりしない。この時期,対外的にはカザン・ハーン国とアストラハン・ハーン国の併合に続いて南方のクリム・ハーン国にも遠征軍が送られたが,イワンは北方への進出を優先させて1558年リボニア戦争を始め,アダシェフなどと対立した。…

※「アダシェフ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」