世界大百科事典(旧版)内のアラリック[2世]の言及
【クロービス】より
…491年チューリンゲン族を,495‐496年とおそらく505‐506年アラマン族を攻撃し,さらに509年ころケルンのリブアリ族の王シゲベルトとその息子を殺害して,ライン川左岸に覇権を確立。この間にアリウス派からカトリックに改宗したクロービスは,507年ブイエVouilléで西ゴート人の王アラリックAralic2世に打ち勝ってアキテーヌを併合した後,都をパリに移し,511年オルレアンに公会議を召集する。このようなクロービスの事績,とくに彼の改宗の時期については,基本史料であるトゥールのグレゴリウスの《フランク人の歴史》の記述の解釈が困難なことから,異説が多い。…
【西ゴート王国】より
…のちに南西に移動し,230年ころ黒海北西岸のステップ地帯に定着したが,この時期,東西二つの集団に分かれた。やがてバルカン半島からイタリアに入り,とくにアラリック1世(在位395‐410)の時代にはローマをはじめ諸都市を略奪した。アタウルフ王(在位410‐415)の時代,412年にガリアに入って,軍駐屯制(ホスピタリタス)と称する独特の制度のもとにアクイタニア(アキテーヌ)地方に定住した。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」