アントニヌス勅法(読み)あんとにぬすちょくほう

世界大百科事典(旧版)内のアントニヌス勅法の言及

【カラカラ】より

…父帝の在位中,弟ゲタとともに共同統治者となるが,父帝の死後,兄弟の間がらは悪化し,母后の尽力にもかかわらず,212年,彼は弟帝とその与党2万人余りを殺害してローマ帝国の単独の支配者となった。彼の統治政策のなかでも特に有名なものに,212年の〈アントニヌス勅法〉がある。この告示は帝国内のすべての自由民にローマ市民権を付与することを認めたものである。…

【プロウィンキア】より

…古代ローマでは公職者の職務領域,例えばプラエトルの法秩序維持などをいい,ポエニ戦争以後はイタリア以外のローマ領(属州)もさす。属州の獲得と維持は古代帝国ローマの発展と表裏するが,国法上,属州はローマ国土でなく戦地で,属州住民は(ローマと同盟関係にある都市や部族を除き)従属外人とされ,総督が軍隊を率いて統治した。共和政期には一貫した属州政策の欠如から悪政と搾取が横行し,アウグストゥス以降,元首の強権による全属州の掌握と安定が図られた。…

※「アントニヌス勅法」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」