カルマル,B.(読み)かるまる

世界大百科事典(旧版)内のカルマル,B.の言及

【アフガニスタン】より

…64年の新憲法発布と翌年の総選挙は,百家争鳴の時代を現出し,以後のこの国の運命にかかわる諸条件を作り出した。すなわちバブラク・カルマルBabrak Kārmal(1929‐96)が下院議員に当選して政治の舞台に登場したこと,カーブル大学や諸高等学校の学生運動が高まったこと,労働組合が組織されストライキも行われるようになったこと,ヌール・ムハンマド・タラキーNūr Muḥammad Tarakī(1918?‐79)らの新聞《ハルク(人民)》,カルマルらの《パルチャム(旗)》が発刊され,政治団体としての言論活動が始まったことなどである。これらの条件が,1933年の即位以来,パシュトゥーン族のムハンマドザイ系のムサーヒバーン家出身のザーヒル・シャーと,彼を支える同家一門による,40年間にも及ぶ安定した支配をくつがえすことになった。…

【アフガニスタン侵攻】より

…反政府派はこれらの施策に反対し,79年8月18日にパキスタンのペシャーワルでイスラム政府の樹立を宣言し,アフガニスタン各地でゲリラ活動を展開した。他方,革命政権内部の対立も激しく,78年7月にはカルマルが革命評議会副議長兼首相を解任されてチェコスロバキア駐在大使に左遷され,同年8月にはカディルが国防相を解任されて逮捕された。79年9月にはタラキー議長が殺されて,後任にアミーンが就任した。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」