トゥーラーン・シャー(読み)とぅーらーんしゃー

世界大百科事典(旧版)内のトゥーラーン・シャーの言及

【アイユーブ朝】より

…1169年ファーティマ朝の宰相となってエジプトに主権を確立したサラーフ・アッディーンは,イスマーイール派に代えてスンナ派の支配体制を復活し,またイスラム世界統一のためにアッバース朝カリフの宗主権を認めて自らは王(マリク)と称した。73年には兄トゥーラーンシャーTūrānshāh(?‐1180)をイエメンに派遣して,東西貿易の独占を図る一方,翌年ザンギー朝のヌール・アッディーンが没すると,これを機にシリアからジャジーラへと支配権を伸ばし,十字軍包囲の体制を固めた。サラーフ・アッディーンの死後,王国は一族の間で分割され,ダマスクス,アレッポ,ディヤルバクルでは,それぞれ半独立の政権が樹立された。…

【アラビア半島】より

…半島の各地に群小勢力が割拠し,メッカにはハサン家(アリーの長子ハサンの子孫),メディナにはフサイン家(アリーの次子フサインの子孫)の地方的政権が確立し始めていた。ファーティマ朝を滅ぼしたアイユーブ朝は半島の宗主権を握り,サラーフ・アッディーンが派遣した弟トゥーラーン・シャーTūrānshāhの開いたイエメンのアイユーブ朝(1174‐1229)は,ほぼ半世紀続いたあと,そのメッカ総督の開いたラスール朝(1129‐1454)に取って替わられた。エジプト・シリアでアイユーブ朝のあとを継いだマムルーク朝は,ヒジャーズの宗主権をも受け継ぎ,イエメンでラスール朝を継いだターヒル朝(1446‐1516)はマムルーク朝の武力干渉によって滅んだ。…

【イエメン】より

…そのあとイエメンでは,イスマーイール派のスライフṢulayḥ朝(1047‐1138)が勢力を強め,紅海沿岸のティハーマのナジャーフNajāḥ朝(1021‐1159)を破り,1063年にはラッシー朝をサーダに追ってサヌアに都し,一時はヒジャーズをも侵略したが,最後はズー・ジブラに都を移し,同じイスマーイール派のズライーZuray‘朝(1138‐74)に支配権を奪われた。アイユーブ朝を建設したサラーフ・アッディーンは,弟トゥーラーンシャーTūrānshāhにイエメン征服を命じ,タイズに都するアイユーブ朝(1174‐1229)が成立した。しかしエジプト・シリアでマムルーク朝がアイユーブ朝に代わったのと同じように,イエメンでもマムルークがアイユーブ朝の支配権を奪い,ザビードに都してラスール朝を開いた。…

※「トゥーラーン・シャー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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