世界大百科事典(旧版)内のナハティガル,G.の言及
【カメルーン】より
…しかしそのほかは,15世紀末にポルトガル人が進出してやがて沿岸地域を中心に奴隷貿易その他の通商活動に従事し始めたこと,次いでオランダ,イギリスの進出が見られたが,いずれも沿岸部での通商活動や布教活動にとどまっていたことなどがわかっているにすぎない。ヨーロッパ列強のアフリカ分割が本格化し始めた1884年,サハラ縦断で知られるドイツの探検家ナハティガルGustav Nachtigal(1834‐85)が政府の命でこの地を訪れ,諸部族の首長と保護条約を結んだ結果,カメルーンはドイツの保護領となった。もっともドイツが内陸部に進出してこれを完全に支配下に組み込んだのは1911年である。…
【トーゴ】より
…しかしヨーロッパ列強の西アフリカ分割戦が激しくなるにおよんで,ドイツがこの地域に進出してきた。1847年に宣教師を送り込んだドイツは,84年にはグスタフ・ナハティガルを派遣し,沿岸部の多くの首長と保護条約を結ばせた。ドイツのこの地域への支配権は85年のベルリン会議で承認され,97年のパリ条約でフランス領ダホメー(現,ベニン人民共和国)との,99年のサムア条約でイギリス領ゴールド・コースト(現,ガーナ共和国)との境界がそれぞれ確定された。…
※「ナハティガル,G.」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」