奥州四管領(読み)おうしゅうよんかんれい

世界大百科事典(旧版)内の奥州四管領の言及

【奥州探題】より

…ここに奥州管領制は分裂した。その後尊氏は斯波家兼を奥州管領として派遣したが,奥羽の分裂は激しく,吉良貞家の子息満家,その弟治家,畠山国詮,石塔義元,石橋和義,同棟義らが奥州管領を自認し,奥州四管領と呼ばれるようになる。奥州の広域行政府としての実体を持たなくなっていた奥州管領制にかわって,91年(元中8∥明徳2)陸奥・出羽両国が鎌倉公方の管轄下に入ると,鎌倉府は99年(応永6)足利満貞,満直を下向させ,稲村御所篠川(ささがわ)御所として奥羽を統轄させようとした。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」