義勇兵役法(読み)ぎゆうへいえきほう

世界大百科事典(旧版)内の義勇兵役法の言及

【義勇兵】より

… 日本の台湾出兵(1874)に際し正規軍に旧薩摩藩有志約300人が加わり,西南戦争(1877)では正規軍のほか警視庁が募集した抜刀隊が加わっており,これらも義勇兵ということができよう。その後,兵役制度の整備によりこの種の制度はとられなくなったが,第2次大戦末期の1945年6月23日,本土決戦に備え義勇兵役法が制定された。これにより,男子15~60歳,女子17~40歳を対象に義勇召集し,軍との協力,支援(施設防護,情報通信連絡,軍道路補修等)に当たらせた。…

【太平洋戦争】より

… しかし戦局の悪化とともにファシズム体制に亀裂が入り,脱会者が相次いだ翼賛政治会は,45年3月30日大日本政治会へ改組された。小磯内閣は,3月23日本土決戦に備えて国民義勇隊の結成を決定し,大政翼賛会は6月13日に解散して国民義勇隊へ発展的解消を遂げ,6月23日には義勇兵役法が公布された。国民義勇隊は,阿南惟幾陸相が言うように,国民の大部分を〈天皇親率の軍隊〉に編成し,天皇制ファシズムによる国民支配の極限形態を示すものであったが,その内実は武器が足りず,貧弱な形式倒れの組織にすぎなかった。…

【翼賛体制】より

…翼賛政治会の主導権を握る旧既成政党の指導者は,45年3月30日同会を解散して大日本政治会を結成したが(総裁南次郎陸軍大将),護国同志会の31名と翼壮議員同志会の20名の合計51名が参加せず,従来の翼賛政治会による事実上の一党独裁体制が崩壊した。 一方,小磯内閣は〈一億総武装〉による〈本土決戦〉を呼号し,1945年3月23日国民義勇隊結成の方針を決定,6月23日義勇兵役法が公布された。これにともない,大政翼賛会とその傘下の官製国民運動団体の多くは解散し(5月30日大日本翼賛壮年団,6月13日大政翼賛会と大日本婦人会,6月16日大日本青少年団,6月30日農業報国会と商業報国会),すべて国民義勇隊へ合流した。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」