金沢坊(読み)かなざわぼう

世界大百科事典(旧版)内の金沢坊の言及

【加賀国】より

…その後1世紀にわたった共和政体の前半段階を主導したのは,蓮如の子が配置された河北郡若松本泉寺,能美郡波佐谷(はさだに)松岡寺,江沼郡山田光教寺の〈賀州三ヵ寺〉であったとされるが,隣国越前,能登,越中での守護権力の打倒をめざした1506年(永正3)の〈永正の一揆〉に失敗したのちは,〈賀州三ヵ寺〉と越前系の藤島超勝寺,和田本覚寺や本願寺家臣団との抗争が激化し,31年(享禄4)の〈享禄の錯乱〉によって,主導権は本願寺家臣団や超勝寺,本覚寺に移る。46年(天文15)には石川郡の金沢に金沢坊が建設され,加賀一国の流通機構は寺内町金沢に集積された。越後の長尾(上杉)氏,越前の朝倉氏の武力干渉を長期にわたって排除し続けた加賀一向一揆は,織田信長が朝倉義景を滅ぼした翌年の74年(天正2)に,一時的に越前をも一向一揆の支配する国とするが,上杉謙信と織田信長の激しい挟撃を受けて内部分裂を深め,75年には南加賀,80年には金沢坊を中核とする北加賀も織田信長に占領され,82年に最後まで抵抗を続けた山内(やまのうち)(手取谷)の一揆も虐殺されて,〈百姓ノ持タル国〉といわれた自主管理の歴史を閉じた。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」