世界大百科事典(旧版)内の《ゲルトルートはいかにしてその子を教えるか》の言及
【ペスタロッチ】より
…それは半年間だけのものであったが,この孤児院での活動をふまえて,人間教育の方法を根底からつくり直す必要を痛感し,99年ブルクドルフで民衆学校の教師となり,教育的実験を積み重ねていった。その努力は教育学上の主著《ゲルトルートはいかにしてその子を教えるかWie Gertrud ihre Kinder lehrt》(1801)に理論的に結実したが,彼はそのなかで民衆の初等教育改造の視点から,知識と技術と道徳・宗教の基本3領域における基礎陶冶とその調和的発達の方法を探究しつつ,人間の自然な自己発展に信頼をおいた〈自発性〉や〈合自然性〉,さらに認識の絶対的基礎としての〈直観〉など近代教育学の基本原理を明示した。1805年にはイベルドンに新学校を設立し,数年間は全ヨーロッパの教育のメッカとして発展させ,プロイセンをはじめとする諸外国からも有為の青年教師たちが派遣されたが,ペスタロッチの指導力の欠如と協力者たちの不和・分裂のためしだいに衰退していった。…
※「《ゲルトルートはいかにしてその子を教えるか》」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」